第131話 祐子の出産と和葉の報告

 ――祐子が、妻が無事に男児を出産したよ。


 和葉の実兄の泰宏から連絡が来たのは、少し前の夜だった。

 予定日より遅れているとのことで心配していた分、喜び方も凄かったと、電話に出た和葉が苦笑しながら教えてくれた。


 産後の祐子を気遣って、入院している病院へお見舞いに行くのを数日後の今日にした。日曜日なので、葉月も一緒に連れていける。

 事前に和葉が泰宏に連絡し、お見舞いに来ても大丈夫とのことだったので、家族揃って祐子のいる個室へとお邪魔した。


「わー、赤ちゃんだー」


 病室へ入るなり、葉月が興奮気味に声を上げた。

 予定日よりは遅れてしまったものの、無事に普通分娩で終わった。

 出産後も母体、赤ちゃんともに問題なく、すでに新生児室から母親――つまりは祐子の病室へ移されていた。


「皆さん、いらっしゃい」


 散々に春道をからかってくれた女性は、すっかり母親の顔になって赤ちゃんをあやしていた。出産を経ると、こんなにも雰囲気が変わるものかと驚く。


「春道君も、葉月もよく来たね」


 祐子が座ってるベッドの横には、夫の泰宏もいる。今日が日曜日なので、会社は休みなのだろう。先ほどから、嬉しそうに母子の様子を眺めていた。


「兄さんも父親になったのですから、それらしく振舞うようにしてくださいね」


 笑顔なのだけど、和葉の台詞にはどことなく棘がある。

 兄妹にとっては普通のコミュニケーションなのか、泰宏はたいして気にせずに「そうだな」と頷いた。


「赤ちゃんって、可愛いんだねー」


 担任だった元女教師の側へ行き、葉月がまじまじと赤ん坊を見る。初めてなので、物珍しさもあるのだろう。許可を貰っては、ほっぺに軽く触ってみたりする。

 入室前にはきちんと手を洗い、消毒もしている。なおかつ入室後にも、一度手を洗った。生まれたての赤ちゃんに触るのであれば、それくらいの配慮は必要ですと和葉が率先して、春道や葉月にも行わせたのだ。


 お土産にカロリー控えめのドリンクを提案したのも、その和葉だった。産後で食欲がない場合でも、水分なら欲しくなるはずというのが理由らしい。

 多く持っていっても、すぐに退院すれば荷物になってしまうと2,3日で飲み干せるくらいの量だけを購入してきた。


 手渡す前までは、これでいいのかと首を傾げていた春道だったが、思いのほか祐子は喜んでくれた。出産を経験していなくとも、同性なだけに相手の気持ちがわかるのかもしれない。

 空気を読めないお土産を渡さずに済んだので、とりあえずは気の利く妻に心の中で感謝をしておく。


「ほっぺもぷにぷにだねー。えへへ、なんだか葉月まで嬉しくなっちゃう」


「フフ、そうね。葉月も赤ちゃんの時は、こんな感じだったのよ」


 和葉の説明に、葉月が「へー」と目を輝かせる。


「でも、この子は特別に可愛いです。だって、目のあたりなんて春道さん――あ、ごめんなさい。パパによく似てるもの」


 しれっと室内に吐き出された台詞に、何故か泰宏が一番最初に同意する。


「ああ、言われてみれば、春道君に似てるね。これはまいったな。アッハッハ」


 額に手を当てて、泰宏が朗らかに笑った。

 言葉とは違って、少しもまいった感じは出ていない。元からこういう性格をしているだけに、人をからかうのが好きな祐子とは相性が良さそうだ。


 以前なら焦って否定していた。しかし夏に戸高の実家へお邪魔した際、泰宏と祐子の絆の強さをしっかり見せてもらった。春道と和葉を仲違いさせたがっているわけじゃなく、焦らせて遊ぼうとしてるのはすでに承知済みだ。


「なんてこった。和葉が優しくしてくれないから、俺が寝取られてしまったみたいだぞ」


 からかい半分で言うと、愛娘の葉月が「ママー」とむくれて調子を合わせる。


「わ、私のせいなのですか?

 で、ではなくて、たちの悪い冗談はやめてください」


 和葉が顔を真っ赤にしたところで、室内にいる全員が笑顔になった。


   *


 あまり長居して母体に影響が出てはまずいからと、面会時間は30分程度で終わらせた。泰宏が病院の出入口まで送ろうとしてくれたが、祐子についていてくださいと和葉が丁重にお断りした。


 家族3人で病院から出ると、まずは春道が秋の日差しを浴びながら「ううん」と伸びをした。仕事をしている時と違って窮屈な体勢で過ごしていたわけではないが、なんとなく太陽の下に出るとやりたくなってしまう。


 もっとも、多少の居心地の悪さは感じていた。

 産後のせいもあって祐子はすっぴんだった。夫の泰宏ならいいが、さほど親しくない春道が見てもいいものなのかと気になっていたのだ。

 本人に直接聞くわけにもいかないので、なるべくそちらを見ないように気を遣った。おかげでたいした問題もなく、無事にお見舞いを終えられた。


 午後から病院へ来たので、昼食はすでに済ませている。

 せっかくの休日に3人揃って外出してるので、どこかへ行こうという結論になるまで時間はかからなかった。


 近くに公園があるというので、まずはそちらへ行ってみる。葉月を真ん中にして、3人で手を繋いで歩いてるだけでも楽しかった。


 目的地に到着すると葉月が3人で遊びたがったが、少し疲れたからという理由で和葉が辞退した。そこで春道と葉月が公園内にある遊具で遊ぶことになった。

 一緒にブランコに乗ったりなどはできないが、押してあげる程度なら可能だ。それに鉄棒などの練習もさせてあげられる。


 テレビゲームよりも外で遊ぶのが楽しいらしい葉月は、大はしゃぎで色々な遊具に手を伸ばした。それでも、自分よりも小さい子供が遊んでいるところは遠慮したりするなど、お姉さんっぽい一面も見せたりする。


「えへへ、楽しいねー」


 葉月が心からの笑顔を見せる。

 春道も同感だったが、気になる点もある。いつもなら率先して愛娘と遊んであげる和葉が、今日は公園内のベンチに座って、こちらを眺めているだけなのだ。

 葉月もおかしいと感じているようで、たまに和葉を心配する素振りを見せる。


 それでも葉月が手を振れば、笑顔で振り返してくれる。

 安心して遊んでいるうちに、気がつけば夕方になっていた。


   *


「そろそろ帰るか。きちんと手を洗うんだぞ」


 公園で手洗いできる場所へ移動し、しっかり手についた砂などを落とす。

 そのあとで、水が不要な殺菌用のハンドソープをつけてあげる。これは和葉が常に持ち歩いてるものを借りてきた。


「これで手が綺麗になったね」


 ハンドソープを塗った手を見ながら葉月が言った。


「ああ、そうだな。俺も手を洗うから、少し待っててくれ」


 春道が手を綺麗にすると、今度は葉月が預けていた小型のハンドソープから中身を出してくれた。まんべんなく手にまぶしてから、葉月と一緒に和葉のところへ戻る。


「待たせて悪かったな。せっかくだから、どこかで晩飯を食べて帰るか?」


 春道の提案に、葉月が「賛成ー」と両手を上げる。


「ウフフ。それがいいかもしれませんね。では、近くにあるファミリーレストランへ行きましょう」


 また皆で手を繋ぎ、徒歩でファミレスへ向かう。

 店内に入り、4人用の席へ案内してもらう。葉月と和葉が並んで座り、正面には春道がひとりだけというポジションだ。いつも大体こんな感じで、ワイワイと食事をする。


 葉月がハンバーグを頼み、春道はパスタを注文する。けれど和葉はサラダだけだった。明らかに普段と違うので、大丈夫かと尋ねる。


「ええ、問題ありません。食欲がないだけですので、心配しないでください。それより、早く食べましょう」


 表面上はいつもの和葉なので、それ以上は聞けなくなってしまう。

 もしかしたら風邪気味なのかもしれない。とりあえずは注意深く様子を見ておいて、夜になって葉月が寝たら問い詰めよう。

 そう決めて、春道は自分の前に運ばれてきたパスタへフォークを伸ばした。


   *


 ファミレスから出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。夏と違って、日が落ちるのもだいぶ早くなった印象だ。


 都会と違って店の数はさほど多くないので、夜になると闇が一気に街を包む。

 とこどどころに設置されている街灯のやわらかな明かりが、数少ない癒しと安心の地帯となる。

 活動時間が都会より短いのか、今くらいの午後8時からは、道路を走る車の時間も急速に減る。


 他人ともあまり通り過ぎなくなった歩道を歩き、自分たちの生活する家を目指す。3人横に並び、真ん中に葉月がいる。愛娘のお気に入りの陣形だ。

 あと少しで家に到着しようかという時、続けられていた何気ない会話が急に止まった。それまで葉月に応じていた和葉が、足を止めてしまったからだ。


「……どうかしたのか?」


「……はい。実は……報告があります」


「報告?」


「ええ。春道さんだけでなく……葉月もよく聞いてね」


 ひと呼吸置いてから、和葉が言葉を続ける。


「実は……妊娠したみたいなのです」


 人けのない夜道での突然すぎる告白に、春道はしばらく呆然としてしまう。祐子の赤ちゃんを見に行った帰りに、まさかこうくるとは予想もしていなかった。


「通常とは違う状態でしたので、もしかしたらと思っていたのですが……つい先日、ドラッグストアで購入した簡易検査をしたら……陽性でした」


 どことなく申し訳なさそうにしているが、要は子供ができたということだ。事実を認識していくうちに、例えようのない嬉しさが春道の中にこみ上げてくる。


「そうか。ハハッ。葉月、お前……お姉ちゃんになるんだな」


「お姉ちゃん?

 あっ、妊娠って、子供ができることなんだよね!」


 ようやく理解したとばかりに、葉月が瞳を輝かせる。

 元担任が出産で教員を辞めたのもあって、妊娠についてはそれなりの情報を得ていたみたいだった。


「じゃあ、ママも赤ちゃん産むんだねー。明日には、祐子先生みたいにお腹が大きくなってるかなぁ?」


「ウフフ。詳しくは病院に行ってみるまでわからないけど、恐らく予定日は来年の6月過ぎになると思うわ。女性が赤ちゃんを産むまでは、10ヶ月程度かかるのよ」


 和葉の説明に、葉月が「ふーん」と答える。

 わかったような、わかってないような感じだ。


 愛娘の理解度はともかく、和葉が妊娠した事実に変わりはない。今日、様子が変だったのは、その話をいつ切り出そうかと悩んでいたせいだろう。

 もしかしたら以前に春道が、自分の子供に愛情を注ぎすぎて、葉月を愛せなくなったらと心配してたのが気になったのかもしれない。


「……大丈夫だよ。とにかく今は、和葉の肉体に新しい命が宿ったのを喜ぼう」


 それだけでこちらの真意を理解してくれたのか、これまでの不安げな表情が一掃される。普段よりも素敵な笑顔になり、はいと返事をしてくれる。


「えっへへ。葉月、お姉ちゃんかぁ……」


 感慨深そうに呟いた葉月が、改めて春道と和葉の手を握る。

 しっかりと伝わる温もりと絆を大事にして、近い将来に誕生するであろう新しい家族を迎えよう。


 これから大変になるだろうが、なんとか乗り切っていけるはずだ。

 大きな喜びに浸りながら、春道はそう考えていた。

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