第117話 当主の妻

 夜は祐子と和葉が協力をしながら、ご飯を作ってくれた。

 その話を聞いた直後に居間へ居続けるのが怖くなった春道は、料理ができるまで葉月と外で遊んで待った。


 幸いにして血で血を洗う騒動には発展しなかったみたいだが、緊迫感のある静かなやりとりは少なからず繰り広げられたみたいだった。ちゃぶ台へ料理を運んでくれた2人の雰囲気が、聞かなくとも教えてくれた。


 口を開けば余計な発言をしてしまいそうなので、あえて春道は無言を貫こうとする。しかし、上座に座っている泰宏が、空気の読めなさぶりを発揮して、いきなり笑い出す。


「はっはっは。春道君はもてもてだな。羨ましいよ。どちらが本妻で、どちらが愛人なのかな」


「心臓に悪い冗談はやめてください。いくら妻の兄でも怒りますよ」


 春道に睨まれると、泰宏は「おお、怖い」と肩をすくめた。

 呆れたように和葉がため息をつき、料理を綺麗にちゃぶ台の上に並べてくれる。


「春道さんと結婚してるのは私なのですから、今さら本妻も何もないでしょうに」


「それなら、私が愛人でも構わないですよ。今だけですけど」


 あっけらかんと祐子が言う。


「……面白くない冗談は、周囲の反感しか買いませんよ?」


「それが冗談ではないんですよ。とりあえず愛人の座で我慢しつつ、隙を見て本妻になるつもりですから」


「あら、どうやってですか?」


 料理を並び終えた2人が同時に立ち上がり、春道のすぐ近くで視線をぶつけ合う。


「もちろん、現在の本妻と離婚するように持ち込むんです。葉月ちゃんも、私がママの方がいいわよね?」


「パ、パパー」


 急に話の矛先を向けられた葉月が、泣きそうな顔をして春道のところまで逃げてくる。胡坐をかいている春道の足にちょこんと乗り、どうしたらいいのかとばかりに首を小さく左右に振る。

 すると春道が何かを言うより先に、泰宏が口を開く。


「はっはっは。葉月ちゃんにまで迷惑をかけたら駄目だぞ」


「……他人事のように言ってるけど、そもそもの原因を作ったのは兄さんよね」


 怒りの宿った瞳を実の妹から向けられ、さすがの泰宏も「すまん、すまん」と謝罪する。


「夕食の場を和ませようと思ったんだがな。なかなか上手くいかないものだ」


 顎に親指と人差し指を当てて、思案するようなポーズを作る。

 何回会っても何を考えているかわからない。


 あまり気にしない方がいいと考えた春道は、とにかく食事にしましょうと提案した。膝の上に乗っている葉月がすぐに賛成してくれたので、全員でひとつのちゃぶ台を囲む。結構大きめなので、全員分の茶碗やおかずを乗せてもまだ余裕があった。


「それにしても、このちゃぶ台だけは昔のままなのですね」


 夕食をとりながら、和葉が泰宏に話しかけた。


「まあな。どんなに稼いでも、このちゃぶ台だけは親父が変えなかったからな。何か大事な思い出があるんだろ」


「だから兄さんも、まだ使ってるわけね」


「ああ。こんなのが親孝行になるかどうかはわからないがな」


「……きっとなってるわよ。私と違って――

 いえ、何でもないわ」


 仲違いしたまま今生の別れを迎えてしまったのを、和葉は今も気にしてるのだろう。父親への怒りが薄れるほど、彼女の中で後悔が強くなるのかもしれない。

 こればかりは時間が、心の傷を癒してくれるのを待つしかなかった。


「親父は頑固だったからな。そして和葉は親父似だ」


「まあ、それは春道さんも大変でしょうね」


 急に祐子が話題に参戦する。


 「その点、私は違いますよ」


 意味ありげな視線を向けてくるが、春道はまともに取り合わずにご飯を食べ続ける。なおも祐子が色々喋っていると、そのうちに和葉が応じる。

 あっという間に夕食の席は賑やかになり、泰宏は笑いながら「大勢の食事は楽しいな」と呟くように言った。


「親父もきっと喜んでる」


   *


 翌日になると、地元の名家である戸高家は大忙しだった。

 普通は集まりがあっても近しい親戚だけだと春道は思っていたが、遠い親戚まで来てるんじゃないかというくらいに、続々と人がやってくる。

 泰宏の妻の祐子はもちろん、実妹である和葉も一生懸命に動き回る。


 春道は和葉の夫ということで、泰宏と一緒に仏間に座って来客の相手をした。側には葉月もいる。


「こちらが、妹さんの旦那さんと娘さんですか」


 初対面の人に話しかけられれば、即座に葉月が頭を下げて自己紹介をする。


「はじめまして。高木葉月です」


「これはご丁寧にどうも。さすがに躾が行き届いてますな」


 褒められて、嬉しそうに葉月が笑う。状況をよく理解しながら、嫌味のない笑顔を浮かべられる。これは一種の才能だ。

 それゆえに春道は、葉月と出会った当初に大人びた印象を抱いたりもした。

 事実、子供にもかかわらず、他人の心情をよく理解するすべに長けている。

 もっとも、恋愛になると話は変わるみたいだが。


 だいぶ広い仏間が人で埋まり、ガヤガヤし始めた頃に、昔から戸高家と付き合いのあるお坊さんがお経をあげにやってきた。

 それが終わると、今度はお坊さんをまじえての食事会になる。

 ここでも祐子や和葉は、客人のお酌をしたりなどで忙しそうだった。邪魔をしたら申し訳ないと思ったので、葉月と一緒におとなしく食事を楽しんだ。


 当主である泰宏も色々な人たちから話しかけられ、春道や葉月に気を遣っている余裕はなさそうだった。戸高の血を引いている和葉ならともかく、親族の人たちも春道に興味はないだろう。


「ちょっと、外で遊んでくるか?」


 春道が問いかけると、すでに食事を終えていた葉月が元気に「うんっ」と頷く。

 泰宏にひと声かけてから、仏間をあとにする。外へ出るために廊下を歩いていると、数人の中年男性と遭遇した。立ち話中で、こちらには気づいていない。

 見えているかどうかは不明だが、失礼にならないよう一礼だけして通り過ぎようとした。


「戸高の当主は大丈夫か。ずいぶんと頼りないぞ」


 白髪交じりで強面の男性が、イラついた様子で声を荒げた。


「そう大きな声を出すな。どこで誰が聞いてるかわからない。それに、あいつが頼りないのは、前々からわかっていただろう」


 応じたのは髪の毛をオールバックにしている男性だ。同じ中年でも、白髪交じりの強面男性よりかは若く見える。小太りで身長の低い男性も加えて、3人で話をしているのがわかった。


「それにしても、度が過ぎる。先代と比べれば、物足りないにもほどがある。あれでは会社は持たない」


 他の2人に比べて、だいぶ頭髪が寂しくなっている小太りの男性が、やや甲高い声で喚くように言った。盗み聞きをするつもりはないが、立ち話にしては声が大きいので、どうしても聞こえてきてしまう。

 なんだか近づくのも躊躇われ、春道は無意識に足を止めてしまった。


「親族の大半が本家の会社に関係しているからな。経営を失敗されたら、たまったものじゃない」


 白髪交じりの男性が言う。


「いざとなったら、隠居願えばいいだろう。あんな若造、どうとでもなる」


 フンと鼻を鳴らしながら言ったのは、オールバックの男性だ。

 ろくでもない話をしてるのは明らかだが、部外者も同然の春道に何かを言う資格はない。すると、そこを丁度、和葉と祐子が通りかかった。


 春道たちと玄関までの途中で男たちが立ち話をしているが、その近くに台所へ通じるルートもあった。そこからやってきたのだ。ある程度の話は聞こえていたらしく、泰宏の実妹の和葉は明らかにムっとしていた。


 3人の中年男性は和葉たちの足音が聞こえると、話をすぐにやめた。

 足音の主を確認すると、途端に下衆さが滲み出るような笑みを浮かべる。


「やあ、これは当主様の奥方ではありませんか。お疲れ様です」


 芝居がかった口調で、オールバックの男が祐子に話かける。他の2人はニヤニヤしながら見物中だ。


「頼りのない男性が夫では大変でしょう。なんなら、我々が色々と面倒を見てさしあげましょうか?」


 とことんまで下衆な連中だ。祐子の側にいた和葉もそう思ったのか、文句を言ってやろうとばかに口を開こうとした。しかしそれを片手で制したのは、他ならぬ祐子だった。


「若造の主人を常日頃から支援していただいて、ありがとうございます。これからも、よろしくお願いしますね」


 笑顔でそう言ったあと「失礼します」と頭を下げて、祐子はその場から移動した。慌てた様子で和葉も彼女に続く。

 あとに残された男たちはしばらく毒気が抜かれたように呆然としていたが、やがて懲りずにまた泰宏の文句を言い始めた。

 これ以上はここに立っていても時間の無駄だ。春道は手を繋いだままの葉月と一緒に、男たちの横を通り抜けて玄関へ向かった。


   *


 夜になって来訪者も全員帰宅したあと、春道たちも手伝って後片付けをなんとか終わらせた。

 昼食もとっていなかった和葉たちと一緒に夕食をとり、なんとかひと心地ついたところだ。食後の緑茶を飲みながら、和葉がふーっと長い溜息をつく。


「せっかく来てもらったのに、こき使う形になって悪かったな」


 申し訳さなそうに、泰宏が和葉に謝る。


「仕方ないわよ。戸高姓でなくなっても、私は兄さんの妹だもの。来る前から覚悟はしていたわ。腹が立つことは、多々あったけどね」


 和葉が例として挙げたのは、春道たちも遭遇した3人の中年男性とのやりとりだった。主にオールバックの男性と祐子が会話をしただけだったが、強く印象に残っている。


「これだけ若くして親父の跡を継いだからな。助けてくれる人もいれば、妬む人間もいる。それは仕方ないさ」


 現実は、ドラマなどよりもずっと醜いからなと付け加えた。

 企業のトップにいれば、否応なしに権力争いを意識させられるのだろう。春道には決してわからない苦労が泰宏にはあった。


「それにしても……祐子さんが、きちんと奥さんをしていたのが意外でした」


 やや表情を崩した和葉が、横目で祐子を見る。


「心の中では、気取った顔に熱々のお茶を浴びせてやりたいと思ってたけどね。あとは禿げた頭にとか」


 3人組の特徴を口にしては、見事なまでの毒舌を披露する。よほどストレスが溜まっているみたいだが、祐子は今日1日、最後まで泰宏の妻としてきちんと振舞った。だからこそ、和葉も見直すような発言をしたのだろう。


「腹は立っても私は泰宏さんの妻ですもの。

 それに……生まれてくるこの子のことを考えれば、苦労のうちに入らないわ」


 途端に穏やかな目になった祐子が、自身の腹部を優しく撫でさする。彼女が見せたのは慈愛に満ちた母親の顔だった。


「フフ。やはり兄さんと祐子さんはお似合いです」


 笑う和葉の言葉に、春道も「そうだな」と同意する。


「どうやら俺は振られてしまったようだ」


「えっ? あ、あの、ええと……」


 戸惑いを隠しきれない祐子が、慌てたように目をきょろきょろさせる。


「いつもからかわれてるからな。たまには逆のパターンもいいだろ」


「それなら、今度は俺が春道君に対抗して、妻は俺のものだとか言えばいいのかな」


 春道と泰宏のやりとりに、和葉だけでなく葉月までが笑う。

 その中で祐子ひとりだけが、恥ずかしそうに顔を赤くしていた。

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