第112話 縁日の夜

 1学期の期末テストも終わり、娘の高月は夏休みへ突入していた。

 どこかへ連れていってほしいとおねだりされるのを見越し、春道はなんとか夏の間は忙しくならないようにスケジュールの調整をした。

 遠距離移動などはあまり得意ではないが、家族と一緒に出掛けるのは密かに楽しみだったりもする。


 妻も娘もリビングにいるだろうし、自分も行こうかな。

 そんなふうに考えて仕事部屋のドアを開けると、1階にいるはずの和葉の大きな声が、2階の廊下にまで届いてきた。


「我儘を言うのは、いい加減にしなさいっ」


 娘を誰よりも愛しているがゆえに、和葉は普段から葉月に厳しい。

 時には過保護な面もあったりするが、それでも一般的な母親と比べれば、あまり甘やかしてはないように思える。

 そんな和葉が声を荒げたのだから、これは一大事だ。

 大慌てで廊下へ出ると、階段を下りてリビングへ直行する。


「一体、どうしたんだ」


 春道がドアを開けて現れると、和葉と葉月は揃ってこちらを見た。

 2人とも最初は驚いてたが、やがて娘が先に口を開く。


「ママがね、葉月を虐めるの」


 駆け寄ってきた葉月が、春道の両膝に抱きつく。背中越しに見ている母親を、あかんべーでもしそうな勢いで睨みつける。


 この母娘でも喧嘩はするんだなと、ひとり場違いな感動を覚える。

 愛娘は春道が自分の味方をしてくれると信じ切っているが、事情を知らなければ対処のしようがない。そこでまず、妻に説明を求める。


「私が大きな声を出したせいで、春道さんのお仕事を邪魔してしまったみたいですね。申し訳ありません」


 丁寧に頭を下げたあとで、和葉が事情を教えてくれる。


「たいしたことではないのです。そろそろ近くの神社で縁日が行われるのですが、その時に着る浴衣が欲しいと我儘を言ってきただけです」


「我儘じゃないもんっ」


 母親の説明に、葉月が抗議の声を上げる。


「我儘でなければ何なのですか? 縁日へ皆で遊びに行くからといって、浴衣でなければいけない決まりはないでしょう」


 春道にとって、それは意外な回答だった。

 無尽蔵に物を買ってあげるタイプでないとはいえ、和葉の性格上、おねだりをされれば浴衣くらい買ってあげそうに思えたからだ。

 女の子用の浴衣について、春道は何も知らない。

 もしかしたら、驚くほど高価だったりするのだろうか。


「子供用の浴衣というのは、そんなにするものなのか?」


「大体、1万円もあれば買えるとは思いますが……」


 和葉の回答はどうにも歯切れが悪い。理由として考えられるのは、彼女が今現在は専業主婦をしているということくらいだ。

 春道だけの給料で生活をしているので、あまり必要のない出費は抑えたいのだろう。もしかすると、生活のため以外に使うのを申し訳なく思うのかもしれない。


 少し前までは和葉もきちんと働いており、下手をすれば春道よりも収入が多いくらいだった。おかげで余裕のある生活を送れていたが、とある事情で職を辞してからは、同様の生活水準を維持するのは難しくなった。

 春道も頑張って稼いではいるのだが、当時の2人合わせた給料に届いているとは思えない。


 元々、春道の生活費はすべて和葉が負担するという約束で、奇妙な共同生活が始まった。

 仮初めではなく、本物の夫婦となった現在ではどうでもいいのだが、責任感の強い妻は、約束と異なる生活に身を置かせてしまったと後悔してるのかもしれない。

 そうした気持ちが節約を心がけさせ、愛娘のおねだりでさえ拒絶させる。

 ありえない話ではなかった。


 和葉が細かく家計簿をつけ、春道の収入を管理してくれているおかげで、なんとかやりくりできているのは確かだ。何不自由なくとまではいかなくとも、世間一般的に普通と呼べるくらいの生活はできている。

 それだけで春道は満足なのだが、妻は妻なりに色々と考えることがあるのだろう。葉月の将来や自分たちの老後について考えれば、ある程度の貯金も必要になる。


 浴衣ひとつと言えなくもないが、和葉があそこまで頑固に拒否をするのだから、それなりの理由があるのは明白だ。

 しかし愛娘に浴衣は買ってあげたい。そうなれば、春道がとるべき方法はひとつしかなかった。


「じゃあ、俺が買ってやるよ。2人とも、それでいいな」


 葉月が嬉しそうに頷き、これで万事解決になる。

 そう思っていたが、危惧していた展開に突入する。妻の和葉が、厳しい表情で反対を表明した。


「春道さんのお小遣いを犠牲にしてまで、葉月の我儘を聞いてあげる必要はありません」


「大丈夫だって、俺にも少しのへそくりはあるんだし」


 なんとか妻をなだめようとするが、生憎と春道の言葉に効果はなかった。

 そういう問題ではありませんと、一刀両断されてしまう。


「おねだりされたからといって、何でもかんでも買い与えていたら、我慢のできない、金遣いの荒い大人になってしまいます。今のうちから、将来の訓練も兼ねて、我慢を覚えさせる必要があるのです」


 確かに和葉の言うことも一理ある。

 とはいえ、今にも泣きそうな顔をしながら、春道らのやりとりを見ている葉月を思えば、浴衣の一着くらいは買ってあげたくなる。

 親バカと呼ばれるかもしれないが、誕生日などのイベント以外に大きなプレゼントはしていないのだから、今回はおねだりを聞いてあげても罰は当たらない。


「和葉の言いたいこともわかる」


 妻の言い分を認めた上で、春道は言葉を続ける。


「けど、葉月は普段から我儘をあまり言わない子だ。それが、今回はこれだけ欲しがるんだから、理由があるんだろ」


「それはわかります。一緒に縁日へ行く子たちが、皆、浴衣を着るからという説明を受けていますので」


「だったら……」


 言いかけた春道を、和葉が片手で制止する。


「皆が持ってるからという理由で物を買い与えていたら、際限がなくなります」


「大丈夫だよ。葉月だって、むやみやたらに、あれもこれも欲しいとは言わないだろ。そうだよな?」


 春道に問いかけられると、極めて真面目な顔つきで葉月は「うん」と頷いた。


「ごめんね、ママ。でも……葉月も浴衣、欲しい。仲間外れは……嫌だもん……」


 春道が出会った当初の葉月は、年齢の割に大人っぽく、周囲の顔色を窺うような一面もあった。きっとそれは、彼女の生い立ちが関係していたのだろう。

 だが最近になって、少しずつ我儘を言う回数も増えてきた。

 家族へ対する甘えみたいなものだから、春道は良い兆候として受け取っていた。子供は子供らしいのが一番だ。


「家計費に関係なく、俺が支払いをするんだ。今回は和葉が折れてやれ」


「……仕方ありませんね。今回は春道さんの顔を立てましょう」


 呆れたようでいながらも、和葉は笑顔を浮かべた。

 そのあとで葉月に向き直る。


「よかったわね、葉月。パパが浴衣を買ってくれるわよ。きちんとお礼を言いなさい」


「うんっ。パパ、ありがとうっ」


 満面の笑みでお礼を言われると、1万円の出費も惜しくなくなる。

 これが葉月の魅力なのかなと考えたところで、春道は表情を曇らせる。

 このままの調子で成長していったら、娘は魔性の女と呼ばれるタイプの女性になるのではないかと。


   *


 そして縁日の日。

 夜に子供たちだけでは危険だからと、春道が保護者として神社まで同行することになった。


 子供とはいえ、小学生にもなれば、自分たちの世界ができている。そこへ大人の春道が参加しても、ウザがられるだけではないのか。

 そんな心配をしていたが、娘の葉月は一緒に縁日へお出かけできると大喜びだ。


 好美らと合流したあとも、たいして邪魔者扱いはされなかった。

 葉月と好美の他には、実希子と柚がいる。いわゆる、いつもの仲良し4人組だ。

 春道を見るなり、一緒に来ると思ったと笑い、歓迎してくれた。

 最初は春道にべったりだった葉月も、徐々に友人らと一緒に、数多く立ち並ぶ出店へ夢中になる。


 金魚すくいや輪投げ、射的など定番なのが多いものの、縁日というのはいくつになっても胸が躍る。神社には大勢の人がいて、顔見知りもあちこちで見かける。

 この分なら、熱心に保護者役をしなくても大丈夫だなと思っていたら、急に春道は誰かに肩を叩かれた。


 また知り合いの保護者かなと思って背後を見る。

 すると、そこに立っていた美しい女性の浴衣姿に目を奪われた。

 髪の毛をアップにしているだけで、普段とはまったく別人のように見える。そのせいで不覚にも、女性が和葉だとはすぐに気が付けなかった。


「あっ、ママだ」


 葉月の声で、一緒にいた友人たちも振り返った。

 それまで一生懸命に取り組んでいた型抜きの手が止まるくらい、和葉の浴衣姿は綺麗だった。

 誰かが「うわあ」と小さく、感嘆の声を漏らした。

 誰もが呆然と見つめる中、微笑んだ和葉が春道に「どうかしましたか?」と聞いてきた。


「い、いや……どうにもしませんですよ」


「……?

 変な春道さんですね」


 曲げた右手の人差し指の第二関節付近を、下唇あたりに押し当てて笑う姿も美しかった。見慣れたと思っていた妻の変身ぶりに驚きすぎて、春道はしばらく彼女を見つめ続けた。


「葉月たちは出店に夢中みたいですし、少しだけ私たちも楽しみませんか?」


 今の和葉に誘われて、拒否できる男なんてきっとこの世に存在しない。

 春道は勢いよく頷くと、浴衣姿の妻を連れて神社内を歩いた。

 出店を見て回っている間も、ひっきりなしに四方八方から視線を感じる。

 大半が最初に和葉へ注がれる。おっと歓声を上げたあとで、隣を歩く春道に気づいて落胆する。そんなパターンばかりだった。


「綿菓子の出店もあるのですね」


 アニメキャラクターの袋に入った綿菓子を見て、どこか懐かしそうに和葉が呟く。子供時代の記憶でも、思い出してるのかもしれない。


「ひとつ買っていくか」


 春道が屋台へ近づくと、和葉は笑いながら「私にも奢ってもらえるのですか」と言ってきた。


「ああ。浴衣姿が似合ってる今の和葉になら、きっと何をおねだりされても買うと思うぞ」


「あら、そうなのですか? でも、浴衣を似合ってると言ってもらえただけで、私は満足です」


 楽しそうに笑う和葉を見てるだけで、妙に楽しい気分になる。購入したばかりの綿菓子を手渡すと、彼女は「ありがとうございます」とお礼を言ってくれた。


「うふふ。こうしてると、なんだか恋人同士みたいですね」


 とある事情によって春道と和葉はいきなり夫婦となったので、恋人として過ごした時間は皆無だった。今まで特に考えたことはなかったけれど、そういう関係もなかなか楽しそうだ。

 自然な動作で、和葉が春道の腕に手を回してくる。近づいた距離に全身が熱くなり、抱えている愛情が爆発しそうなくらいにドキドキする。


 限りなく良い雰囲気になってきたところで「あーっ」という聞き慣れた声が、周囲に木霊した。

 何事かと思って前を見ると、いつの間にかそこに立っていた葉月が春道たちを指差していた。


「ママだけずるいー。葉月もわたあめ食べるー」


 唇を尖らせながら駆け寄ってくる愛娘に、妻の和葉は悪戯っぽい笑顔を向ける。


「これはママが、パパから買ってもらったものだから、いくら葉月でもあげられないわ」


 するとむくれた葉月が、春道に自分の分も買ってほしいとおねだりしてくる。


「俺に頼まなくても、葉月には自分のお小遣いがあるだろう」


「違うのっ。こういうのは、パパに買ってもらうのが大事なのーっ」


「そ、そうなのか? よく意味はわからないが……じゃあ、待ってろ」


 綿菓子を売ってる出店まで戻ろうとすると、母親の和葉が手を回してる方とは別の、春道の腕を葉月が掴んできた。


「葉月も一緒に行くーっ」


「やれやれ。それじゃあ、他の子たちの分も、まとめて買ってしまうか」


 春道がそう言うと、葉月の背後にいた好美らが嬉しそうに笑う。

 結局この日は、出店が終わるまで妻と娘に両腕を引っ張られ続けることになるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る