第108話 柚の涙と笑顔

 柚が学校へ来なくなった。


 その事実は葉月にとって何よりも衝撃的だった。

 またねと挨拶して別れたけど、こんなことになるなんて予想もしていなかった。

 運動会を思い出して、色々とお喋りしたかったのになと残念な気持ちになる。


 最初は単純に風邪で休んでるのかと思ったが、どうやらそうではないみたいだった。友人の実希子が、父親からそれとなく聞いた事情を葉月にも教えてくれた。


 柚の両親が経営している不動産業が上手くいっておらず、資金繰りが悪化した。


 小学生の葉月には難しい言葉が並んでいるので、詳しく説明されてもよくわからず、実希子に「どういうこと?」と聞くしかなかった。

 すると彼女もあまりよくわかっていないらしく、首を捻りながら「さあ……」と言ってきた。


「要するに、柚ちゃんのお家にお金がないってことよ」


 見かねたように、今井好美が口を挟んできた。


「そうなの!?

 じゃあ、葉月の貯金を柚ちゃんにあげたらいいのかな」


「アタシのも加えると、なんとかなるかも」


 葉月と同様に、実希子も本気で助けてあげたいと思ってるのが伝わってくる。

 だからなのか、余計辛そうに好美が顔をしかめた。


 最近では柚も含めて女子4人で過ごす機会が多くなっていただけに、3人しかいないとなんだか違和感がある。

 早くまた皆揃って遊びたいのに、グループの中でもっとも頭が良い好美は「多分、無理じゃないかな」と話した。


「どうして?」


 納得のいかない葉月が質問する。


「柚ちゃんはもう学校に来ないの?」


「私にも正確にはわからないけど、なんだかそんな気がするの。お家が貧しくても、学校に来てる子はたくさんいるでしょう?」


 葉月は「うん」と頷く。それを見て、好美が言葉を続ける。


「だけど、柚ちゃんは登校すらしなくなってしまった。明らかに普通とは違うもの。なんとかしてあげたいけど、子供の私たちじゃ……」


 そこで好美が言葉を詰まらせた。彼女自身も現状をとても悔しく思っているのが、机の上に置いている拳の震え具合でわかる。

 これまで何か困った事態になれば、必ずといっていいくらいに好美が助け舟を出してくれた。だけど今回は、悲しそうに俯くばかり。

 葉月にも、自分や実希子のお小遣い程度で、どうにかなる問題じゃないのは理解できた。


「じゃ、じゃあ……どうすればいいんだよ」


 焦ったように実希子が言う。


「どうにもできないわよ。悲しいけれど、黙って見ているしかないわ。なんとかなりそうなら、もう行動を起こしているもの」


 好美になんとか反論しようとしていたけれど、最後まで実希子は効果的な言葉を見つけられなかった。

 やがて悔しそうに、机を叩いた。結構な音が鳴ったものの、休憩中の教室は皆のおしゃべりなどで賑やかなため、あまり注目はされなかった。

 諦めの雰囲気が漂う中、葉月は2人に提案する。


「とにかく、学校が終わったら、柚ちゃんのお家に行ってみようよ」


   *


 放課後になって、葉月は好美らと一緒に柚の家を訪ねた。

 なかなか反応がない中、諦めずにいると、ようやく家の中から柚の母親が出てきてくれた。


「あら……葉月ちゃんたちだったのね。

 いらっしゃい。柚を心配して、来てくれたんでしょう?」


 そのとおりだったので葉月は頷き、柚がどうしているのかを尋ねる。


「少し体調を崩しているの。皆に移したら困るから、お見舞いは大丈夫と言っていたわ。せっかく来てくれたのに、ごめんなさいね」


 それだけ言うと、柚の母親はドアを閉めてしまった。笑顔こそ浮かべてくれてはいたが、疲れ切っているのは子供の葉月たちから見てもわかった。

 ただならぬ雰囲気も察知しており、あれ以上粘ることすらできなかったのだ。

 仕方なしに葉月たちは、柚の家へ背を向けた。


 自然と足が近くの公園に向き、3人はすることなく、同じ数だけ並んでいるブランコに座った。


 太陽が夕日になるまで、無言でブランコをこいだ。

 キイキイという軋むような音だけが耳に響く。

 友達と遊んでいるのか、時折、男の子たちのと思われる元気な声が届いてきた。

 楽しそうな感じが、葉月の胸を切なくさせる。

 どうして自分たちは、あんな風に遊べないのかと思ってしまうからだ。


「……帰ろうか」


 徐々に沈もうとする夕日を背に、好美が呟くように提案した。

 家を訪ねてみても、柚にも会わせてもらえずに追い返される。

 考えても良い案は浮かばず、時間だけを浪費している状況だった。

 誰も好美に反論できず、このまま現地解散しそうになった時だった。

 遠くから誰かが「葉月ちゃん!」と叫んだ。


 しょぼくれて俯いていた葉月が驚いて顔を上げると、視線の先には見慣れた少女が立っていた。反射的に「柚ちゃん!?」と声が出る。

 3人のもとに、公園へ現れた柚が駆け寄ってくる。


「ど、どうしたんだよ。具合が悪いんじゃなかったのか?」


 葉月と同じくらいに驚いてる実希子の問いかけに、柚は大粒の涙を瞳に滲ませながら首を左右に振った。


「両親に、家から出るなって言われてるの。

 でも……葉月ちゃんたちの声が部屋まで聞こえてたから、頑張って抜け出してきちゃった」


 そう言うと柚は、唇の隙間から小さく舌を出しながら悪戯っぽく笑った。


「出してもらえないというのは、どうして?」


 今度は好美が質問をする。


「詳しいことはわからないんだけど……こっそり、お引越しをしなきゃいけないみたい。きっと……逃げるのよね……」


「……そう」


 それ以上は何も言えないといった感じで、好美が口を閉じる。

 実希子も何を言えばいいのかわからず、ひたすらに狼狽する。

 改めて自分のお小遣いじゃどうしようもないと悟った葉月は、知らず知らずのうちに涙を流していた。歪む視界の中で、正面に立っている柚が笑う。


 どうして笑うの?


 なんとか尋ねた葉月に、彼女は「嬉しいから」と言った。


「皆が会いに来てくれて、本当に嬉しかったの。葉月ちゃんたちと遊ぶようになるまでは仲が良かった子たちも、噂を聞くと近づいてこないようになったし……」


 葉月は知らなかったが、どうやら以前から柚の家の事業がヤバいというのは学校で噂になっていたみたいだった。

 好美は知っていたらしいが、必要があるのなら柚から言ってくるだろうと、あえて知らないふりをしていたのだという。

 そのことについては、柚も葉月たちも責めたりはしなかった。それでも好美は泣きながら、何度も「ごめんなさい」と頭を下げた。


「気にしなくていいってば。

 それより、せっかく公園に来たんだから、皆で遊ぼうよ。ね?」


「……そうだな」


 最初に応じたのは実希子だった。

 服の袖で涙を拭っている好美が続く。

 けれど葉月だけは、その場から動けなかった。


 ただひたすらに泣き続けた。

 悲しくて悲しくて、心臓が張り裂けそうだった。

 何かを喋りたくても、口を開けば嗚咽ばかりが漏れてくる。

 そんな葉月の前に、柚の手が差し出される。


「葉月ちゃんも、遊ぼう。楽しく……笑顔で……ね? お願い……」


 泣きながら無理やり笑顔を作る柚を見て、ますます涙が止まらなくなる。

 それでも葉月は彼女の手を取った。

 もしかしたら、これが一緒に遊べる最後の機会になるかもしれない。

 子供心にも理解できていただけに、せめて笑顔で楽しい思い出を作ろうと考えた。


 遊んでいるうちにいつの間にか涙は止まり、全員が笑顔でおおはしゃぎした。

 やがて日が沈み、暗闇が葉月たちを包んだ。

 間もなく訪れるであろう別れの時を考えて、またしても涙が溢れそうになる。

 でも一番泣きたいのは柚だとわかっているので、葉月はなんとか我慢をした。


「皆……ありがとう。

 私、今日を絶対忘れないよ。

 ありがとう……。

 ありがとう……」


 繰り返される柚の「ありがとう」が、段々と聞き取れなくなっていく。

 皆で号泣し、何度も抱き合った。


 そして葉月たちは、それぞれの家へ帰った。


   *


 次の日からも、やっぱり柚は学校に来なかった。

 葉月たち3人は、意識的に彼女の話題を口にしなかった。


 時折、誰かが室戸柚の家の噂を口にした。

 そのたびに実希子が怒り、好美がなだめた。


 心の貧しい人たちには、好きに言わせておえばいい。私たちは、私たちの思い出を大事にしていきましょう。

 そんなふうに言われては、さすがの実希子も怒りを堪えるしかなかった。

 葉月は今もまだ、泣きたい気分に耐えるので精一杯だった。


 そして数日後。


 ひょっこりと柚が登校してきた。

 教室に現れた柚に見開いた目を向ける葉月たちの前で、彼女は罰が悪そうに笑う。


「実は……お引越しをしなくてもよくなったみたい……」


 照れ臭そうにする柚に、葉月は言葉もなく抱きついた。

 もう会えないと思っていた友人の少女が、こうして目の前にいるのが夢みたいだった。


 葉月の突然の行動で、今度は柚が驚く番だった。

 うろたえる姿を見ているうちに、泣きそうだった実希子と好美が笑い出した。


「ちょ、ちょっと、笑ってないで、葉月ちゃんをなんとかしてよ。もう……」


 そう言いつつも、柚は満更でもない様子だった。彼女もまた、転校しなくて済んだ事実に安堵し、喜んでいたからだ。

 油断すれば涙がこぼれそうなのは、濡れている瞳を見ればわかった。

 心の底から悲しんだ分だけ、訪れた突然の幸運に誰もが楽しい気分になれた。


「けどさぁ……こうなると、あの公園で泣きながら笑って、皆で遊んだ思い出は何なんだって話になるよな」


「……ご、ごめんってば。

 あの時は私だって、まさかこうなるなんて思ってなかったんだもん」


 実希子にからかわれて、柚が申し訳なさそうに謝る。そのすぐ側で、好美が「まあ、いいじゃない」と笑顔で言う。


「そうだな。一生、からかえるネタを手に入れられたし」


「実希子ちゃんって、意外に性格が悪いわよね」


 唇を尖らせる柚に、葉月や好美だけでなく、からかった張本人の実希子も笑う。

 あまりにも元気にはしゃいでいるので、偶然近くを通りかかった和也が「お前ら、本当に仲いいな」と言ってきた。


「そうだよ。葉月たちは仲良しだもんっ」


 葉月の言葉に、他の3人も笑顔で頷く。

 和也は笑いながら、自分を待っている仲間のところへ歩いていった。

 再び周りには誰もいなくなったのもあって、葉月は浮かんできたばかりの疑問を口にする。


「ねえ、柚ちゃん。どうして、お引越しをしなくてよくなったのー?」


 葉月に抱きつかれたままで、柚は「私にもよくわからないんだけど……」と事情を説明し始める。


「一度は駄目になったはずの契約が、なんか急にまとまったらしいの。それで、当分は大丈夫になったんだって」


「そうなんだー。でも、よかったねー。また皆で遊べるよ」


 詳しくはわからなくとも、柚が転校しないで側にいてくれる。それだけで満足だった。


「ねえ。今日、学校が終わったら、あの公園で遊ぼうよ」


「あ、あの公園で?」


 柚が顔を赤くする。


「うんっ!

 きっと、この前よりも楽しいよ」


 葉月の提案に好美と実希子がすぐ賛同したので、柚が断りづらい状況ができてしまった。

 最終的に観念したように「いいわよ」と同意してくれる。

 すると知らない間に、葉月の頬に涙が流れた。心配する友人たちを前に、おもいきり笑ってみせる。


「えへへ。今度は嬉しくて泣いちゃった」


 正直な想いを口にした直後、柚が「ありがとう」と言ってくれた。

 あの日の公園で見たのとは違って、今日は彼女も笑っていた。

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