第76話 愛妻の苦悩~兆候~

 戸高家で過ごした三が日がいい思い出となり、春道たちは戻った自宅で普段の日常へ溶け込みだしていた。


 もう少し冬休みが残っているらしく、葉月は友達と遊びに行っている。

 さすがはしっかり者の和葉の娘というべきか、すでに冬休みの宿題はすべて終えているみたいだった。

 葉月と仲が良いらしい今井好美という少女も、なかなかできるらしく、共にあとは始業式まで自由に遊べる身分になっている。


 だが日頃一緒に過ごしている仲良し三人組のもうひとり。空手をやっている佐々木実希子という女児が、ほぼ手付かずで宿題を残しているらしかった。

 そこで葉月や好美が、遊びがてらに陣中見舞いをしてるはずだ。先日、ノートを写させてあげないのかと春道が尋ねたところ「自分でやらないと駄目なんだよー」と、実に優等生な回答が返ってきた。


 優しげでありながら、意外に頑固な面も母親譲りであり、どれだけ実希子が拝み倒しても、葉月が顔を縦に上下させる可能性はないに等しかった。

 実希子が若干憐れではあるものの、どちらかといえば葉月の言葉が正論だけに、当人も面と向かって反論ができないはずだった。

 小学生らしい微笑ましいやりとりを頭の中で想像すれば、何とも言えない穏やかな気分になる。


 けれど春道としても、あまり自室でまどろんではいられない。休暇をとっていたのは五日――つまりは本日までなのだ。PCに電源を入れて、いざ仕事へ励もうとするが、どうにもやる気がでてこない。完全に作業ペースを見失っていた。

 だからといって「できません」では、社会人として失格なので、どうにかこうにか作業してるうちにお昼を過ぎていた。


「昼飯でも食べに行くか……」


 ここが松島家だった頃は、和葉が逐一食事を運んでくれていた。

 廊下にある小型の冷蔵庫を開けば、三食分の料理が用意されていた。

 思わず懐かしい気分に浸る春道の視界には、該当の冷蔵庫が今も廊下で鎮座している。

 中に入っているのはドリンク類ばかりで、おかずが入っていたりすることもない。高木家に変わってからは、リビングに下りて食事をとるようになっていた。


 冷蔵庫の中におかずが入ってるのは同じだったが、場所が変わるだけでずいぶんと印象も異なる。

 当初こそ戸惑ったりしたが、今ではだいぶ慣れていた。春道も家族の一員になれたからだろうか。自分勝手に、そんなことを考える。


「ただいまー」


 冷蔵庫の中には二人分のおかずが用意されていたので、葉月も自宅で昼食をとるのだとすぐにわかった。

 一旦お昼には帰宅して、食事をとったあとで、午後からまた遊びに行くのだろう。小さい頃は、春道もそうだったので、気持ちはよくわかる。


「あれ、パパがいるー」


「……人を希少生物みたいに言わないでくれ」


 仕事に没頭すると、朝食のみならず、昼食も夕食も一般の人とは違う時間になる。

 わざとそうしてるのではなく、時間の経過に気づけないのだ。最初は和葉も待ってくれていたが、呼ばれても無反応なぐらい集中しているため、途中で家族揃っての団欒は頓挫した。


 時間が合えば一緒に食事するということになり、現在に至っている。

 そんな状態なので、戸高家で三食一緒にとれていた愛娘は、普段よりも大はしゃぎしていた。

 そうした姿を見るたび、一緒に食事をしようと決意するのだが、なかなか実現させられないのが不甲斐ないところだ。何せ今日みたいに、お昼だと気づく方が珍しいのである。


「昼飯の準備はできてるぞ。手は洗ったか?」


「うんー。途中で、きちんと洗ってきたよー」


 足音で大体判別ついてはいたが、帰宅時の手洗いは大事なため、念のために確認した。

 こうした配慮ひとつとっても、気軽に出てくるようになってきた自分自身が、まさしく父親みたいでなんだか気恥ずかしくなる。

 自分のを用意するついでに、向かいの席の前に葉月の分を並べておいたので、その気になればすぐに食事できる。


「えへへー。パパと二人だけで、お昼ご飯を食べるのって、凄く久しぶりだねー」


「そういや……そうだな」


 戸高家での食事は、常に和葉や泰宏もいた。

 そう考えると、愛娘と二人きりというのも、確かに久方ぶりだった。

 変な感情など抱くはずもないが、何故だか妙に照れ臭くなる。


「あ、そうだ。ママね、今日、きっと遅くなるって言ってたよー」


「本当か?」


 尋ねた春道に、葉月が「うん」と頷いてみせる。

 常日頃から忙しく仕事に追われている妻が、年末から家族のため、立て続けに休みをとっていた。

 春道には有給休暇が溜まっていたからと言っていたが、そのせいで相当に仕事が溜まってるのは想像に難くない。家族を第一に考えて、苦労を背負い込んだ愛妻には頭が下がる。


 加えて、春道への待遇も未だに持続されていた。

 現在はどうであれ、この生活に引き込んだ責任があるからと、生活費はすべて和葉が支払っている。

 さらには御小遣い制も継続されたままであり、毎月春道に一定の金額が支払われる。


 偽装ではなく、本物の家族になったのだから、そこまで甘えられない。当然のごとく、春道は和葉へそう訴えた。

 しかし、頑固な愛妻は最後まで、春道による生活費の支払いなどを了承してくれなかった。


 ――その分、お仕事を頑張ってください。


 決まって最後に、穏やかな笑顔でお決まりの台詞を発して口論を締めくくる。

 この分では何を言っても無駄と、とりあえずは相手の好きにさせておくことにした。

 よくよく考えれば、春道にとって、損は何ひとつないのである。


「だからねー。今日の晩御飯は、葉月が作るねー」


「……何で?」


 せっかく妻が愛情込めて作ってくれた料理を、危うく吐き出しそうになるのを懸命に堪え、ようやく春道はそのひと言だけを搾り出した。


「ママ、朝早くに仕事へ行ったから、晩御飯までは作っていけなかったのー。それでね、葉月にパパへ渡しなさいって、お金をくれたんだー」


 事情はわかったが、どうして葉月が夕食担当になるのだけは、どうしても理解ができない。何より、春道は身の危険を覚えた。

 明らかに夕食は二人で、外で食べてきてという意図なのに、どういう理由か愛娘は歪んで捉えている。


「だったら、パパと一緒にレストランでも行かないか。葉月の好きなものを、頼んでいいんだぞ」


 レストランという単語に、少女の口角に涎が溜まる。誘惑されてるのは、一目瞭然だった。

 もうひと押しと考えた春道は、さらに言葉を続ける。


「葉月は、パパと一緒にお出かけするのが嫌か? それだったら、仕方ないけどな」


「う、ううん。そんなことないよ。葉月、パパと一緒にお出かけするっ」


 ――パパこそ、葉月の手料理を食べるのが嫌なのー?

 この発言だけを恐れていた春道にとって、愛娘の反応は歓迎すべきものだった。


 結局、葉月が友達と遊び終えて帰宅したら、一緒に外出するということで話はまとまった。

 午後からも好美や実希子と遊ぶ予定が入っている葉月は、慌しく昼ご飯を食べると、食休みもそこそこにまた出かけた。

 少しは妻の手助けになるようにと、春道は二人分の食器を洗ってから、二階の仕事部屋へと戻った。


   *


「うーん……とりあえずは、ここまでにしておくか」


 一段落ついたところで、PCの電源を落とし、伸びをする。

 単純なストレッチだが、凝り固まった肩をほぐすのに、意外と効果を発揮してくれる。


 本来なら深夜まで仕事をするところなのだが、今日ばかりはそうできない事情があった。

 愛娘と外食するために、早めに仕事を切り上げた。丁度いいぐらいの時間だろうと思っていた春道に、なんとも言えない視線が突き刺さる。


「……お腹……空いた……」


「は、葉月っ!?」


 奇妙なプレッシャーを感じた方へ顔を向けると、部屋の隅で壁に背をもたれさせながら、体育座りしている少女がいた。

 もちろん葉月であり、若干の恨みがましそうな目で春道を見ている。

 もしかしてやってしまったのかと焦り、時計を見ると時刻は午後七時三十分だった。

 春道には平気な時間でも、育ち盛りの娘には遅いくらいである。


 急な用事が入った時のために、最近ではリビングに春道の部屋の合鍵が用意されている。

 家族しか知らない隠し場所なので、誰かに盗られたりする心配もない。その合鍵を使って、いつの間にか春道の仕事部屋へやってきていたのだろう。だが、まったく気づいてなかった。

 それも不満だったに違いない。無言のまま、頬をふくらませている。


「わ、悪かった。で、でも、声をかけてくれれば……」


「何回もかけたもん。パパ、ちっとも気づいてくれなかったよ」


 小さく「うっ」と呻いたきり、春道は何も言えなくなった。

 集中力を高められるのは良いが、そうなると葉月はもとより、和葉の声ですら耳へ入らなくなる。

 これまでも同様の状況を何度も発生させては、家族から怒られていた。

 懲りない春道に向けられるジト目が、余計に精神を追いつめてくる。

 とりあえず、愛娘のご機嫌をとる必要がある。


「お、お腹が空いていると、ご飯も美味しくなるんだ。パ、パパは葉月のためを思って……」


「……わーい……嬉しいなー……」


 駄目だ。弁解をすればするほど、泥沼へハマっていく。かくなる上はひたすら謝り、外食をするために春道は着替えるのだった。


   *


「美味しかったー」


 出かけるまでは色々あったが、レストランで食事を終えて出てくる頃には、葉月の機嫌もすっかり直っていた。

 代償として、夕食前にぬいぐるみを買わされてしまったが、今回は春道に責任があるので、仕方ないと諦めがついている。

 問題は安いぬいぐるみとはいえ、その存在を和葉に知られた場合である。嫌味のひとつや百個は、当たり前に飛んでくる。


 お土産のプリンで、どこまでご機嫌がとれるかは不明だが、とにかくこの一手にかけるしかない。そんな思いを抱きながら、春道は葉月とともに帰宅する。


 鍵を閉めたはずなのに、ドアが開きっぱなしになっている。

 最悪な展開が頭をよぎったものの、玄関には見覚えのある靴がひとつだけちょこんと存在していた。

 妻の和葉が帰宅しており、その際に鍵をかけ忘れたのだと考える。

 もしくは、すぐに春道たちが帰宅すると判断して、気を遣ってくれたのかもしれない。リビングにいるであろう愛妻へ「ただいま」と声をかける。


 だが出迎えに来てくれる雰囲気はなく、明らかにいつもと違っている。

 ある種、特殊な空気を敏感に察知した葉月が、少しだけ心配そうに「ママー?」と言いながら、リビングへ続くドアを開けた。


「え……? あ、ああ……お帰りなさい」


 食卓に座っている和葉は、テーブルに肘をついて俯いていた。

 帰宅した葉月に気づいて顔を上げたものの、浮かべた微笑は驚くぐらいぎこちない。尋ねるまでもなく、何かアクシデントが発生したのだとわかる。


「晩御飯……食べてきた?」


「う、うん……」


 明らかに元気のない母親の姿に、葉月も戸惑っている。

 何も聞かないで的なオーラが放出されているが、放っておけるはずもない。意を決して、春道は口を開いた。


「どうか……したのか?」

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