第34話 父親

「パパ、遅いねー」


 和葉が異変に気づいたのは、愛する娘である葉月にそう言われた時だった。

 昨夜から引き続いての訪問客の相手や、段取りを消化するのに一生懸命でそこまで気が回っていなかった。確かに遅すぎる。


「葉月、呼んでくるねー」


 止める暇もなく、葉月はパタパタと走っていってしまった。知り合いもいないに等しく、幼い少女にとってはかなり心細いに違いない。

 けれど、仕事相手との商談なら長引く可能性もある。電話をしている最中に葉月がまとわりつけば、高木春道に迷惑をかけてしまう。

 ただでさえ、和葉はみっともない姿を見せているのだ。これ以上の失態はさすがに避けたかった。


 ひとまずの作業を終えたところで残りを泰宏へ任せ、和葉もまた娘を追って春道を探しに行く。恐らくは車の中で電話をしてるはずだ。

 和葉が玄関から外へ出ると、今にも泣きそうな顔の少女がひとりで周辺をうろうろしていた。


「葉月、どうしたの?」


 名前を呼ばれてこちらを向いた葉月は、涙を両目からこぼしながら駆け寄ってくる。


「パパがいないのー」


 慌てふためいていた娘の行動から、大体の察しはついていた。

 和葉はまず葉月を優しく慰める。


「きっとお車で電話してるのよ。きちんと探してみたの?」


 言われて初めて、葉月は「あっ」という顔をした。どうやら春道の姿だけを探していたようである。


「そっかー。さすがママだね」


「フフ。それじゃ、ママと一緒に探そうか」


「うんっ」


 元気に頷いた娘と手を繋ぎ、和葉は戸髙家の敷地内にある車を停められるスペースへと向かう。

 他の弔問客の車もあるだけに、春道が使用するとしたらそこしかない。


 だが和葉の予想は見事に裏切られた。戸髙家に来てるのは年配の方が多いだけに、春道のようなスポーツカーがあればおおいに目立つ。それを見逃したりするはずもない。念のためにもう一度確認してみるも、やはり該当の車は存在しない。


 なら別の場所だろうか。和葉は葉月の手を引いて歩きだす。


「ママ……」


 時間が経過するたびに、娘が悲しげに顔を歪める。

 どこを探しても、春道の車が見当たらないのだ。

 それでも戸髙家へ戻る気にはなれず、ひたすら葉月と二人で周囲を探索する。

 そうこうしているうちに、泰宏も玄関から外へやってきた。


「どうかしたのか」


「パパが……パパがね、いないの……どこにもいないの」


 泣きじゃくりながら、必死に泰宏へ葉月が訴える。

 それを聞いて兄も吃驚したみたいだった。


「それなら、電話をかけてみたらどうだ」


 至極まっとうな提案が泰宏からされた。

 そんなことにも気づけないなんて、もしかしたら和葉は自分が思っていた以上に慌てていたのかもしれない。


 とりあえず三人で家の中へ戻り、和葉はバッグの中から自分の携帯電話を取り出す。アドレス帳から春道の番号を呼び出し、ディスプレイに表示させたところで発信ボタンを押す。


「パパ、どこにいるの?」


 横から葉月が、しきりに和葉の服の袖を引っ張ってくる。

 相当に心配している様子だが、娘を喜ばせられる返答はできそうになかった。何度電話をかけても通話中になってしまうのだ。


「もしかしたら……」


 電話をかけるのを諦め、発信を終了させたあとで和葉は口を開いた。


「急ぎの仕事が入って、先に家へ戻ってしまったのかもしれないわ」


「そうなの?」


 葉月が小首を傾げる。可能性としては否定できないが、確率はかなり低い。そうはわかっていても、娘へ正直に告げたりはできなかった。そんな真似をすれば、すぐに自分も帰ると言いだしかねない。


 いくらねだられたところで、それだけは応じられなかった。和葉自身も気にならないといえば嘘になるが、散々迷惑をかけてきた手前、こういう時ぐらいはしっかりと兄の泰宏を手伝ってあげたかったのである。


「けど、それだったらいくらなんでもひと言ぐらい――」


「――言う暇もなかったのよ。それに現代には携帯電話という便利な道具もあるわ。後からでも、好きなだけ連絡をとることは可能でしょう」


 葉月を安心させるための言葉を並べつつ、和葉は視線で泰宏に余計なことを口にしないよう釘を刺す。

 意図が通じたらしく、兄はすまないといった感じで軽く頭を下げてきた。


「少しだけパパのことは我慢してくれる? 葉月だって、お祖父さんへ会いに来てくれたんでしょう」


 そう言われると何も反論できないらしく、不満げな表情ではあるものの葉月も納得してくれた。とにかく、今は父の供養をする方が先なのである。


 嫌な予感を覚えつつも、それからは忙しく時間が過ぎていった。

 そうして気づけば、外では太陽と月が主役を交代していた。

 といっても、厚い雲のおかげで月明かりが窓を照らしたりすることはなかった。


 春道が行方不明になったことでグズるかと思っていた葉月も、悲しそうな顔を見せずに和葉の仕事を手伝ってくれた。おかげで現在は、だいぶ状況も落ち着いている。


 親戚の叔父さんたちが見知っている客の相手をしてくれているので、和葉たちはこうして父親の部屋の整理に専念できていた。明日になれば火葬場へ行き、その翌日に葬儀となる。


 本当は早く自宅に戻りたいだろうけど、説明を受けた葉月は「ママと一緒にいる」と言ってくれた。和葉にはそれが何より嬉しいと同時に、申し訳なさを覚える。


 少しでも不安を解消してあげようと、父親の部屋へ来る前に再度春道の携帯電話を呼び出してみたが、結局話し中のままだった。

 これにはさすがの和葉も怒りを覚えた。家に戻るなら戻るで、ひと言くらい残していくのが普通なのだ。


 何故、そんな当たり前のこともできないのか。

 もしくはする気がなかったのか。

 だとしたら――。


 あまり望ましくない解答へ辿り着いたところで、和葉は小さく首を左右に振る。娘の心情を考えても、頭の中に浮かんだ展開にだけはなってほしくなかった。


「おい、和葉。これ」


 急に泰宏が慌てた声をだした。何事かとそちらを見れば、兄の手には遺言書と書かれた封筒があった。わずかに特徴のある大きくて力強い字。間違いなく父親の書いたものだ。幼い頃から何度も見ているだけに、確かな自信が和葉にはあった。


 戸髙家の次代当主となる泰宏が、代表して封を開く。中には薄い紙が一枚だけ入っていた。書かれている内容を兄が声をだして読む。


「自分の死後、財産を息子の泰宏と娘の和葉にそれぞれ譲るものとする。娘が拒否した場合は、孫である葉月に権利を与える」


「え……?」


 思わず和葉は素っ頓狂な反応をしていた。あの父親のことだから、てっきり勘当した娘は他人であり、遺産相続の権利はないぐらいのことを書いててもおかしくないと考えていた。


「ど、どういうこと……?」


 まだ状況がよく理解できず、和葉は泰宏に尋ねる。遺言書の内容はそれだけだったらしく、顔を上げた兄は該当の紙を手渡してきた。

 震える右手で受け取り、紙に書かれている文字をひとつひとつ両目で確認していく。泰宏が気を遣って発言したわけではなく、紛れもなく遺言書の内容どおりだった。それが和葉には納得できない。


 戸髙家にそれなりの資産があるのはわかっていたが、最初から父親の死後に遺産を貰おうなんて思っていなかった。勘当された以上、それは当然である。むしろ要求する方がどうかしているのだ。


「ママー。お祖父さん、葉月を孫だってー」


「ああ、そうだな。きちんと和葉のことも娘って書いてある」


 何がなんだかわからず、無言の和葉に代わって泰宏が葉月に言葉を返していた。

 本来なら喜ぶべきことなのかもしれない。けれど、素直に「ありがとう」なんて口にできなかった。何故、今さらそんな遺言を残したのか。疑問ばかりが浮かんでくる。


「口ではなんやかんや言ってたけど、やっぱり心の底から和葉を勘当したりできなかったんだろうな」


 感慨深そうに泰宏は呟くが、それは当事者ではなかったからこそ言える台詞だ。証拠に、とても和葉にはそんなふうに思えない。


「……気まぐれに決まってるわ」


 ひねくれていると思われても、そう簡単に割り切れるほど、家を出てからの年月は楽なものではなかった。


「違うさ」


「どうして断言できるのか、私にはわからないわ。証拠でもあるのかしら」


「あるよ。ほら」


 そう言って、泰宏がひょいと和葉へ何かを投げてよこした。相手の突然の行動に戸惑いつつも、飛んできた物を両手でなんとか掴む。


「これは……」


 自らの両手の中身を確認した和葉は、瞬間言葉を失ってしまった。兄が投げたのは、和葉名義の預金通帳だったのである。


「見てみろよ」


 泰宏に促され、震える指先で通帳をめくる。そこには和葉が勘当された日から、毎月一定の金額が振り込まれていた。先月まで休みなく継続されており、相当な金額が貯まっている。


 何故。

 どうして。


 そんな言葉ばかりが浮かんできては、ぐるぐると和葉の頭の中を駆け巡る。まったく意味がわからなかった。


「……これが、せめてもの罪滅ぼしだったとでもいうの……」


「いや、違うだろう」


 またも和葉の呟きに対して、兄の泰宏が否定の言葉を返してきた。どうして断言できるのか、やはり疑問に思いながらも、相手の次の台詞を待つ。


「単純にお前がいつ帰ってきても、頼ってきてもいいように貯めておいたんだろ。そんな場面になってたとしても、どうせ適当な理由をつけて怒鳴ってただろうけどな」


「……わからないわ。私には……」


「親父の心は親父にしかわからないさ。けど親父は確かにお前を愛してた。それじゃ、納得できないか」


「できないわよ!」


 これまでの苦労も思いだされて、たまらず和葉は叫んでしまっていた。幸いにして家の中にいる他の人間には聞こえなかったらしく、騒がしく誰かが乱入してくるような事態にはならなかった。


「……じゃあ、なんで勘当なんかしたのよ……この家で……葉月を育てさせてくれなかったのよ」


「……なあ、考えたんだけどさ。お前がもしこの家に残ってたら、色々な誹謗中傷に晒され続けなければいけなかったんじゃないか」


 和葉は何も答えない。わざわざ肯定する必要もなかった。現実に出て行くまで、ずっと後ろ指を差されていたのだ。


「どれだけ親父や俺が守ろうとしても、陰口は決してなくならない。最終的にいたたまれなくなって、お前は家を出たんじゃないだろうか」


「……そうかも……しれないわね……」


「本当にお前を娘と思ってないなら、違法な手段まで使ってまで望みを叶えたりはしない。本来なら、無理やり諦めさせればいいんだ。親父にはその力があった」


 確かにそのとおりだ。それに万が一事態が露見すれば、当事者である父親も無傷では済まない。自分のことで精一杯だったけれど、和葉以上に相手はリスクを負っていたのだ。


「わざわざ勘当することで、お前が出て行きやすい環境を作った。そうは考えられないか? 仮に葉月が戸髙家の養女になっていたら、事情を知る人間がたくさんいるこの土地で幼少期を過ごさなければいけなかった」


 兄の言いたいことは和葉にもわかった。そうなっていれば、恐らく葉月はこの間まで受けていたいじめより、もっと辛辣で酷い目にあっていた可能性が高い。


「誤算があったとすれば、二人とも頑固だったってことだけじゃないか。片方は援助したくてもそれを言い出せず、もう片方は頑ななまでに頼ろうとしなかった。難しいな、人の心ってのはさ」


 やはり和葉は何も言えない。胸に預金通帳を抱いたまま、その場に両膝を突く。何もかもが衝撃的すぎて、そう簡単には自分の中で整理できなかった。


 そんな和葉の肩がポンポンと誰かに叩かれた。顔を向けると、そこにはこれまで無言だった葉月が満面の笑みを浮かべて立っていた。


「やっぱり葉月のおじいちゃんだったね」


 意味が通ってそうで、通ってない台詞なのに、何故か和葉の心は温かいものに包まれる。


「……そうね」


 頷いたあとで、和葉は父親の死後初めて涙を流したのだった。

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