第10話 いじめ
「これは――」
書かれていた内容を知った和葉が、驚きに満ちた声とともに目を見開いた。
「こんなの……あの子、一度も……」
成熟した女性らしく、色っぽい唇がショックでわなわなと震えている。
「いじめられてるなら、ひと言相談してくれてもよかったのに、どうして黙って……」
「心配をかけたくなかったんだろ」
春道には葉月の気持ちが、痛いほどよくわかった。
「どうしてそんなことがわかるんですか」
「俺も同じだったからさ」
相手から視線を外し、少し俯き加減で呟いた。それは春道の中で、あまり思い出したくない出来事の部類に入るからだ。
「小学生の頃、いじめられた経験があるってだけだけどな」
いまいちピンときてなさそうだった和葉に説明の言葉を付け足した。
どう返したらいいのかわからず、困ったような、それでいて悲しそうな顔をしている。ポーカーフェイスな彼女にしては珍しい反応だった。もしかしたら同情しているのかもしれない。
「そんな目で見るのはやめてくれ。昔の話だ。それより、娘の現状をどうにかするために知恵を絞らないといけないんじゃないか」
「わかりました。この情報を教えてくださって感謝します」
そう言うと松島和葉はテーブルの上に千円札を一枚置き、そのまま立ち去ろうとする。
春道が「オイッ」と慌てて声をかけた時には、すでにバタンと音を立ててドアが閉まっていた。
部屋にやってきた当初から床に座らず、立った状態で会話をしていたので、行動に移る速度がかなりのものだったのである。
本意ではないが、こうなってしまっては仕方がない。松島和葉はいなくなってしまったが、一応お礼を言ってから春道は千円札を手に取った。
*
翌日は午前中から松島母娘はいなかった。葉月は学校へ行っているので当然なのだが、和葉は珍しかった。いつもなら掃除をしている音や、洗濯機の音が聞こえてきたりする。
それがない理由はただひとつ。外出しているのだ。今日に限ってシフトが朝だったのかどうかは不明だが、とにかく家にはいなさそうだ。
仕事が一段落したおかげで、昼夜逆転の生活を元に戻すのに春道は成功していた。現在時刻は午前十時。春道からすれば立派な早起きである。
例によって冷蔵庫から食料を取り出していると、玄関のドアが開く音がした。和葉が外出しているのであれば、きちんと鍵をかけているはずなので、合鍵を持っている母娘のどちらかが帰ってきたのだろう。
昨夜、改めて必要以上に関わるなと忠告されているので、朝食を持った春道は気にせずに自室へと戻る。
腹も減っていたので早速ガッついていると、廊下から足音が聞こえてきた。葉月はこれまで二階へ来たことはないので、どうやら帰宅したのは和葉だったようである。
ドアがノックされ、春道が入室を促すと、現われたのは予想どおりの女性だった。
「美味しく頂いてるよ」
食事中だった春道は持っていた茶碗を軽く掲げ、私室にやってきた和葉に声をかけた。
「お口にあってるのでしたら、何よりです」
「味には満足してるよ。料理が上手なんだな。で、今日はどうした」
「はい。今朝、学校へ行ってきまして、担任の先生にいじめの件についてお願いしてきたところです。高木さんにはお世話になったので、一応ご報告をと思いまして、失礼ながら伺わせていただきました」
相変わらず事務的な口調で告げたあと、話はそれだけですと言い残して、足早に退室していってしまった。
娘がいじめられている情報を提供したのが春道だけに、経過を報告する義務があると判断したのだ。大手企業の役職者らしい律儀な性格である。
朝食を平らげたあと、食後の缶コーヒーで食休みをとる。
放っておけと言われただけに何もするつもりはないが、恐らくいじめは止まらないだろうと考えていた。
もしかすれば――。
そこまでで、春道は思考するのを止めた。手出ししない人間が、あれこれ悩んでもしょうがないからだ。それに和葉が選択した対応策で、いじめがおさまる可能性もある。
松島母娘のことを頭から放り出し、春道は仕事の合間に得られる数少ない休日を堪能しようと決めた。
*
午前中からDVD観賞に精を出し、昼ごはんを食べてからは、ゆっくりと好きな作家の小説を読んでいた。
平和な生活が続くはずだった午後に、突然の異変が訪れた。
この家は田舎にあってなお、商店街から少し離れた場所に建っているので、周囲の喧騒が気になったりなどほとんどない。なのに、今日に限ってはやけに外で子供たちの声が響いているのだ。
何事だと思って窓から玄関前を覗いて見ると、ひとりの少女が複数の男子小学生に追われているところだった。
遠くからでは判別しにくいが、恐らくは小石を投げつけてくる相手に怯えながら、追われている小学生の少女は急いで松島家の玄関の鍵を開け、家の中へと逃げ込んだ。いじめられていたのは、この家の住人である葉月だった。
まだいじめ足りないとばかりに、ランドセルを背負った三人の男児は、家の周りをウロウロしながら何事か叫んでいた。
せっかくの休日を楽しんでいる春道にとっては、うるさいことこの上ないのだが、松島家の問題にタッチしてほしくないという和葉の意向は無視できない。
男児たちを放置したまま観察していると、篭城した葉月を外に引っ張り出すのは難しいと判断したのか、最後に何事か捨て台詞を叫んで帰って行った。
嵐が去って多少は恐怖が和らいだのか、ようやく一階から物音がし始める。
多分部屋にこもって泣いたりするんだろうなと思ってると、意外にも葉月は二階へと向かってきているようだった。シンとした状況で読書していただけに、室外の様子がはっきりとわかるのだ。
「……パパー」
さすがにいつも変わらない調子で呼ぶのは無理だったようで、その声には少女が本来持ってる明るさはなかった。
「……こっちの部屋にいる」
一瞬どうしようか迷ったが、無視するのもかわいそうなので、一応用件だけでも聞いてやろうと呼びかけに応じた。
春道の声が聞こえたのか、真っ直ぐ少女は私室へと向かってくる。遠慮気味にドアが開かれ、葉月が部屋に入ってきた。
「あ、あのね……」
「――悪いけど、少し休憩してるだけで、すぐに仕事へ戻らないといけないんだ。用があるなら和葉――ママが帰ってきたら伝えておいてくれ。そうすれば後で聞く」
用件を切り出す前に春道からこの場で聞くつもりがない旨を告げられ、少女は絶句してしまっていた。
かわいそうな気がしないでもないが、家主である和葉の指示だけに、不用意に相談に乗ってやるわけにもいかない。
それでも何事か言いたそうにしていたが、春道が目もあわせないでいると、やがて蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」とだけ口にした。
部屋に来た時よりも、暗く沈んだ顔で退室する少女を春道は黙って見送る。これでいいんだという気持ちと、彼女への同情心が春道の中で対立して激しい渦を巻く。
だが戸籍上は本当でも、真実の意味で自分は本当の家族ではないのだ。そう言い聞かせて、なんとか気持ちを落ち着かせる。
それにしても、やはり和葉の選択した方法は逆効果だったようだ。半ば予想していたので、結果に驚きはしなかった。
恐らくは和葉に抗議を受けた担任教師あたりが注意したのだろうが、いじめっ子たちはそれが気に入らなくて葉月に報復を開始したのだ。
実情を知らない男子小学生たちは、松島葉月が教師に告げ口をしたと思っているに違いない。
チクるなんて生意気な奴だと、いじめはさらに教師の見ていないところで、巧妙さを増しつつエスカレートしていくはずである。
何故ここまで詳しく想像できるのかと言えば、他ならぬ春道自身の経験談だからだ。
いじめをなくすには常に一緒にいて、共に戦ってくれる親友を作るか、いじめっ子たちを味方につけるかのどちらかしかない。
突き詰めれば他に方法は沢山あるのかもしれないが、春道の人生経験に基づいた解決策だった。ちなみに春道の場合は前者のパターンでいじめを克服しており、その友人とは未だに親しくしている。
和葉が娘のためにと選んだ対応策は、決して間違ってはいない。成功する可能性が必ずしもゼロではないからだ。
しかし、教師に口頭で注意されたぐらいでおさまるのなら、昨今のいじめが社会問題になったりはしない。むしろ逆効果になってしまうパターンがほとんどだ。
仮に熱血教師が、体罰で心と体の痛みをいじめっ子側に教えようとしても、現実にそんな真似をすれば、凄まじい速度でPTAやら何やらが学校に乗り込んでくるだろう。昔と違って、教師が校内のいじめを抑えるのはかなり難しくなっている。
それなのに教師を頼ったということは、よほど和葉は平和な学生時代を送ってきたのだと簡単に推測できた。
三十路まであと少しなのに、すっぴんでもあれだけの美貌である。きっと幼い頃から学校のアイドルとして、周囲からもてはやされてた可能性が高い。
加えて、今の歳にして大手企業で役職をもらってるのだから、学歴もあれば能力も確かなのは明らかだ。
こんな人間をいじめようと考える人間はまずいない。仮にいたとしても、強固な意志を持っている女性だけに、己の力だけで解決したりしても不思議ではない。
いじめても面白みがない人間に対しては、いじめる側もすぐに興味を失う。加害者がいじめをする理由は単純だ。もっとも多いと思われるのが、楽しいからなんて理由だろう。
次にありそうなのが、好きな異性に対するちょっかいから、次第にエスカレートしてしまうケースだ。原因が後者であれば、ふとしたきっかけでおさまる場合がある。
春道は葉月に関しては、最悪のパターンではないと予想していた。楽しいだけの理由だとすれば、もっと葉月を困らせる要求をするはずだ。例えば金銭なんかも該当する。
葉月の様子を見ていると、結構長期間いじめられてそうなのに、金銭を要求されたりはしてなさそうである。
されていれば、とっくの昔に小遣いでは間に合わなくなり、最終的に親の財布から抜き取ろうとする。
見るからにしっかり者の和葉が、お金にルーズだとは考えにくいため、そんな真似をしようものなら一発でバレること間違いなしだ。
そこまで切羽詰まってる状況になってたら、とてもじゃないが父親をどうこうと言ってる場合ではなかったはずだ。
とはいえ、このまま放置しておいても大丈夫とは決して言えない。現に葉月は憔悴しきった表情をしてたし、いじめっ子グループもわざわざ自宅まで追ってきたのだ。
俺はいつから、こんなにお節介な性格になったんだろうな。
気づけばもどかしい気持ちを抱いて、悶々としてる自分自身に春道は苦笑する。この家に住ませてもらってから、何度同じことを自問自答しただろう。
わかったのはどれだけ孤独を愛してたとしても、そう簡単に人間は情を捨てられない事実だった。
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