第4話 契約結婚の申し出
最初、何を言われてるのか春道には理解できなかった。頭の片隅にもなかった提案に、情けなくも唖然としてしまう。
一体この女性は何を言ってるんだろう。これから先、ずっと演技でもしてくれと頼んでいるのだろうか。
だとしたら冗談じゃない。はっきりと春道はそう思った。
出番を焦がれる小劇団の若手役者じゃないのだ。そんなくだらない真似をするのはごめんである。
「父親の真似事をさせたいんなら、俺に似てて、売れてない俳優でも探してきたら」
しつこくせがまれても面倒なので、あえて突き放す言葉をぶつける。
「え? い、いえ、違うんです」
少しのあいだキョトンとしたあと、慌てて松島和葉は首を左右に振った。
「私がお願いしてるのは、本当の父親になってほしいということです」
説明を受けて、今度は春道がキョトンとする。さっきからお互い代わり番こに驚きあっている。
「本当の父親って、まさか……」
「はい。私と結婚してほしいんです」
突然すぎる、それも女性側からのプロポーズだった。生まれてからこれまで、異性から告白された経験なんて数えるほどしかない。
そんな春道が極上の美人に結婚を申し込まれたのだ。嬉しくないわけがない。
これが普通の状況だったならば。
「結婚って言われても、簡単に決断なんてできないし、大体ほとんど初対面みたいなもんじゃないか」
言われなくとも百も承知とばかりに和葉が頷く。その目を見れば、相当な決意だと理解できた。
嘘から出た実なんて言葉が存在するが、前方にいる女性は現実にそれを行おうとしてるのだ。さすがに春道も戸惑いを覚えた。
結婚してほしいと言うからには、どんな理由であれ前夫との夫婦関係は消滅しているのだろう。だからと言って、簡単に結婚の二文字を口にしてくるとはまさに想定外だった。
もしかしてこれは美人局の一種なのではないかと、本気で春道は相手の母娘を疑うまでになっていた。
どれだけ娘を溺愛してるのかは知らないが、自分がついた嘘で傷つけたくないからという理由で求婚する女性がいるとは信じられない。
これ以上この母娘には関わるな。
春道の本能が大声で叫んでる気がした。
「こ、この話はま、またの機会に」
さりげなく席を立とうとしたのだが、動揺がまともに言葉に出てしまった。
春道の様子から莫大な不信感を持たれたと察したのか、またも大慌てで松島和葉は首を左右に振った。
「結婚だから籍は入れてもらうんですけど、別に変な意味はないんです」
そうは言われても、この状況で相手の真意を勘繰らない方が無理というものだ。
「少なくとも、詐欺とかの類ではないと?」
「そのとおりです。私を変な女と思っているでしょうが、誰彼見境なく求婚したりはしません。あくまで娘のためなんです」
これは困った事態になった。
相手に嘘をついてる気配が一切ないのだ。何度か親バカと呼ばれる人種を見てきたが、ここまでの本物に出会ったのは初めてだった。
娘のためになるのであれば、法に触れない限りは何でもしそうである。いや、最悪の事態になれば犯罪だったとしても――。
そこまで考えて春道はゾッとした。自分は今、ストーカーよりも質の悪い女に目をつけられてしまったのではないか。
「夫婦として本気で愛し合いたいとは思っていません。それに現代では熟年離婚なんてケースも珍しくはないですから」
その説明で、相手の意図を春道はようやく少しだけ理解した。
「要するに、あの女の子が自立するまで、俺に父親になってほしいってことか」
「はい。要約するとそのとおりです」
躊躇いもせずに松島和葉が言い放つ。初対面時は物腰柔らかな大和撫子のごとき印象を抱いたが、今や粉々に打ち砕かれていた。
ある程度のおしとやかさは外見どおりに所持しているみたいだが、同時にこうと決めたら譲らない頑固さも持っていると見て間違いない。本音を言えば、あまり関わりになりたくないタイプである。
「もちろんタダとは言いません。そちらの貴重な時間を頂くわけですから。
けれど、ご覧のとおりの家に住んでるくらいなので、巨額の金銭をお支払いする能力はありません」
ならば身体で支払うとでも言うつもりなのか。
危険な臭いはするが、はからずも長年童貞を守り通してきた春道にとっては魅力的な条件である。
ドキドキする鼓動に比例して、顔面が赤くなっていくのを感じた。断るのがベターなはずなのに、断りきる自信がない。
密かにピンチを迎えてる春道の正面で、美女は真剣な眼差しのまま会話を続ける。
「一度の巨額の金銭をお支払いできない代わりに、日常生活の保障をしたいと思います」
「日常生活の保障?」
想像していた報酬内容と違い、ガッカリしてしまったが、どこか春道はホッとしていた。
「そうです。家賃等の生活費はすべて私が負担します。その他にも毎月少額ですが、現金のお支払いも約束します。恐らく五万円程度になると思います」
言葉で条件説明をしたあと、どうですかと視線で松島和葉が答えを求めてきた。
腕組みをして春道は思案する。よくよく考えてみれば悪い話ではないからだ。今まで生活費だった金額を自由に使用できる。さらに月々五万円も貰えれば、貯金するのも難しい話ではなくなる。
「料理や洗濯についても、私が面倒を見させて頂きます。その代わり、この家に引越してもらいますが、使用していない二階を全部自由にして頂いて結構です」
松島和葉の話では、この家は元々二世帯住宅として建設されたみたいで、二階にも洗面所やトイレが別途存在しているらしかった。さすがに風呂はひとつだけのようだが、そういうことなら生活環境としては申し分ない。
言わば家政婦付きの家に無料で住めるのだ。相手も春道に無理な要求をしてるだけあって、いたれりつくせりの条件である。
どうせ結婚を予定してる相手もいない。だが重大な問題点がひとつだけあった。
「悪いけど、俺は子供が苦手なんだ。あの子にとっていい父親にはなれそうもない。逆に彼女が傷ついてしまうかもしれない」
高校時代に学級委員を一度だけ経験したが、当時みたいに選ばれたから気軽にやりますよと返答するわけにはいかない。春道は自分の性格を正直かつ丁寧に説明した。
「それでも構いません」
気は進まなかったが、自分を悪く言っただけに相手も提案を取り下げるだろうと思っていた。ところが、予想に反した言葉を和葉は返してきたのである。
「あくまでこちらはお願いしてる立場ですので、無理な対応をしてもらうつもりはありません。父親でいてくれるだけでいいんです」
益々怪しい雲行きになってきたなと、春道は思った。何かと騙しあいが多い現代社会において、裏のないウマい話など皆無に等しい。
もちろんゼロではないだろうが、どう考えても相手に不審を抱かざるを得ない。それがわかったのか、真剣な眼差しで和葉が慎重に言葉を選ぶ。
「貴方が怪しむのはわかります。もし私が逆の立場だったなら、即座に断っているかもしれません」
無茶なお願いをしてるというのは、相手側も重々承知してるようだった。
ならば何故に、こんな提案を持ちかけてきたのか。
春道が率直に聞いても、返ってくる答えは「娘のためです」の一点張りだった。
またも腕組みをして春道はしばし考える。相手が提示してきた条件を本当に約束してくれるのなら、これほど待遇のいい話はない。
もっとも愛情がないだけに、葉月が成人したり、父親がいらない年頃になったらすぐに和葉は離婚届を持ってくるだろう。好条件はそういう事態になっても、春道を納得させるためと考えて間違いない。
春道の人生を何年とわからず拘束されるのだから、それなりの見返りはあって当然である。メリットとデメリットを頭に入れたうえで計算してみる。
どう決断すればいいのか、なかなか決められる案件ではないというのに、優柔不断な春道にしては珍しくすぐに答えを出した。
「わかった。その話を引き受けるよ」
その言葉を聞いて、和葉の顔がパッと明るく輝く。
どうせ結婚する予定などしばらくない。一度形だけでも結婚しておいて、両親や周囲の親戚を安心させようとも考えたのである。
それに父親をやってるうちにしっかりと貯金しておけば、いつ放り出されてもそれなりに余裕を持った生活が送れるだろう。
ここまで考えての決断だった。予定は未定とよく言われるだけに、突然のアクシデントにより契約が途中で破棄されるかもしれないが、その時はその時である。
どう転んでも、自分が損をする可能性が低いと春道は踏んだのだ。万が一新手の美人局だったとしても、最悪ノートパソコンだけでもあれば仕事道具としては充分なのである。あとはインターネット環境さえあればどうにでもなる。
「それじゃ、いつから始めればいいのかな」
「そうですね。早いうちに籍を入れてしまって、形だけ夫婦になったらすぐにでもこの家で一緒に暮らしましょう。結婚式は不要で構いませんよね」
「こっちはそれで構わないよ」
「ありがとうございます。では他人行儀な言葉遣いも止めにしましょう。どのくらいの期間かは不明ですが、一応は本当の夫婦になるのですから」
「そうだな。そうしてもらえると、こちらとしても有難い」
最初からとても丁寧とは言えない言葉遣いだったが、それでもどこかしらの遠慮が春道にはあった。共同生活をするだけに、いつまでもそんなものがあるとさすがに息が詰まりそうになる。
春道と和葉の話し合いが終わると、タイミングよく居間の外からバタバタと忙しない足音が聞こえてきた。恐らく宿題を終えた葉月が向かってきているのだろう。
「私からそちらの生活に干渉することはまずありません。ですから――」
「こっちからもあまり干渉しないでほしい。それと夜の夫婦生活はないってところだろ」
「理解してくださってるのなら結構です」
美しい容姿に似合わず、なかなかキツい性格の持主でもあるらしい。喋り方や、話の内容をストレートに伝えてくるところからそれが窺える。
この分ならほぼ確実に、ひとつ同じ屋根の下にいながら、お互いに不干渉な生活を送れそうである。しかも食費や家賃はあちら持ちで、春道は小遣いまで貰える約束になってるのだ。
内心でニヤリとしていると、元気にドアを開いて松島葉月がリビングに飛び込んできた。
「よかった。パパ、まだいてくれた」
「当たり前でしょ。葉月のパパなんだから」
ニッコリと心からの笑みを和葉が娘に向ける。先ほどまでの話し合いでは、決して春道に見せてくれなかった表情である。
「やっぱり、パパはパパなんだよね」
母親が春道――父親の存在を認めたことで、和葉以上の笑顔で葉月が走り寄ってきた。
「今日からパパもこの家に住むんだよね」
期待に満ちた視線を向けてくる少女に対して、春道は静かに首を左右に振った。
「残念だけど、まだやることが少しだけ残ってる。同居するのはそれからだ」
瞬間、残念そうにした葉月だったが、近いうちに春道と暮らせるようになるとわかると表情が一変した。
「それじゃ、今日のところはもう帰らせてもらうよ。仕事も残ってるんでね」
「わかりました。ではまた明日、どこかでお話をしましょう」
とても夫婦とは思えないほど、春道と和葉のあいだに重い空気が充満していく。
ひとりニコニコしてる葉月はとにかく楽しそうだった。春道と和葉の雰囲気に気づかないのか、それとも気づいておきながらあえて場を和まそうとしてるのか。それはこの少女にしかわからない。
和葉から名刺を渡されたので、春道も多少は作っていた名刺を手渡し、別れの挨拶としたのだった。
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