愛すべき不思議な家族
桐条 京介
第1話 26歳童貞、見知らぬ少女に「パパ」と呼ばれる
「パパー」
背後からそんな声をかけられたのは、今は少なくなりつつある銭湯でサッパリとしてから外に出た直後だった。
今年の誕生日を迎えれば、生まれて二十六年となる。
隠し子という事態もあり得ない。女性と肌を重ねる場合は特に避妊に気を遣ったとかではなく、単純に春道はそういった経験がないのだ。つまりは三十を前にして、未だ童貞なのである。
別に女性嫌いなわけではない。道を歩いていて、美人が通り過ぎれば思わず振り返ってしまう。どちらかと言えば、自分は女好きだと思っていた。
人並みにアダルト雑誌も読むし、自慰行為だってする。健全な成年男子だ。
女性がまったく見向いてくれないほど、容姿が悪いわけではない。
学歴は高等学校までで終わっているが、学生時代は何回か女子からも告白されたし、何人かと付き合ったりもした。
何の自慢にもならないが、セックスの経験はなくてもキスの経験はある。
仕事はフリーのプログラマー。収入も生活するので精一杯な程度しかなく、とても愛人なんて囲う余裕はない。従って「パパ」などと声をかけてくる人間に心当たりはない。
「パパー」
呼ばれたのは自分ではないだろう。春道はそう判断して、声を無視して歩き始めたが再度同じ言葉をかけられた。
耳によく通る声だ。大人ではなく、相手は子供だとすぐにわかった。
勘違いだと恥ずかしいので、一応左右は確認する。春道以外に人はいない。
近くに地元のスーパーとはいえ、大型店があるので午後六時と言えば、もっとも人通りが多くなる場所だ。なのに、銭湯が面する繁華街へと続く道路には何故か人っ子ひとりいない。
パパと呼ばれてるのは自分だと確信した春道は、相手の間違いを正すために振り向く。
そこにいたのは肩口まで髪の毛を伸ばした五、六歳程度の小さな女の子だった。濡れた前髪が額に張りついてるのを見ると、彼女もまたお風呂に入っていたのだろう。
となれば母親がいるはずだと春道は思った。いくらしっかりしてる子供でも、小学校に入学してるかどうかの年齢で、ひとりで銭湯にやってきたとは考えにくいからだ。
関係者の子供なら可能性もあるが、番台に座っているオバちゃんに子供はいない。六十歳過ぎてのひとり暮らしはやはり寂しいのか、
君は誰だ。
とことこと近づいてきて、上衣の裾をギュッと掴んだ女児に春道が問いかけようとしたところ、女湯の入口からひとりの女性が出てきた。
女児と同じく髪を乾かしてないようで、なびく黒髪から水飛沫が飛ぶ。
春道は思わず息を飲んだ。瞬間的に横顔を見ただけで、ドキリとするほどの美人だとわかったからである。
その美女がこちらを向いた。春道の顔を見たあと、足元にちょこんと居座っている女児を見つけて、慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
「
どうやら美女はこの子供の関係者らしい。意味不明な現状から抜け出せると、春道はホッとした。
それにしても自分と同年代程度の、目の前にいる女性は綺麗だった。風呂上がりだけに化粧はしてないのだが、必要のないほど肌はきめ細やかで美しかった。
今時の女性にしては珍しく眉毛も剃っていない。身だしなみとしてある程度整えてはいるが、書いたりしたものではなく、自前の眉毛である。
切れ長の目に、細く整った鼻。薄い唇はルージュが塗られてなくても、
湯上がりの首筋からはかすかに湯気が昇っている。乾ききってない髪の毛先は柑橘系のシャンプーの香りで溢れており、無意識のうちに匂いを嗅いでしまっている自分に春道が気づく。
生まれてからこれまでに出会った女性たちの中で確実にナンバーワンだった。仮に春道じゃなかったとしても、十中八九そう感じることだろう。
「葉月、パパを見つけたんだよー」
少女に目線を合わせるべくしゃがみこんだ美女に、葉月と呼ばれた女の子が胸を張って告げた。
先ほどから似た台詞を幾度となく聞いてたため、春道は驚いたりしなかったが、少女の保護者らしき女性は別だった。
慌てて立ち上がった女性は、すぐに春道へと頭を下げてきた。
「どうやら娘がご迷惑をかけたようで、本当に申し訳ございません」
ある程度事情を察してくれたのだろう。深々と顔を下に向けたまま謝罪の言葉が並べられる。
女性は少しゆったりめのTシャツにジーンズをはいている。下半身はともかくとして、春道にとっての問題は相手の上半身だった。
重力に引っ張られたTシャツの首周りが露になり、春道の視界には美女の白い胸元がくっきりと映っているのだ。
風呂上がりのせいかブラジャーもつけてなく、もう少しでピンクの頂まで見えてしまいそうだった。
健全な男子がそんな状況を味わい続ければ、股間が獣化するのも当然である。
そんな格好悪い姿を初対面の美女に晒すのはごめんなので、まだ覚醒しきってない息子へ春道は落ち着くよう心の中で必死に呼びかける。
「あの、どうかしましたか」
しっかりとした反応を見せない春道に対して、美女が少しばかり不審そうな顔を向けてくる。間違っても、貴女の胸元を注視するので一生懸命でしたとは言えない。
何でもないと答えようとするも、焦るほどに口がうまくまわらなくなる。これではやましいことを考えてましたと説明するようなものだ。
かすかに生まれる沈黙。それを打ち破ってくれたのは葉月という名前らしい少女だった。
ややこしい事態に巻きこもうとしてくれた子供だけに好感は持てないが、今この時点においての彼女の行動は有難かった。
「パパはパパなんだよねー」
答えを急かすように、少女がシャツの裾を何度も引っ張ってくる。結構な力だけに、肩口が外からも見えてしまう。
もっとも相手の美女は春道と違って、異性の肌に注目したりはしない。ただ困惑したような、心配そうな視線で葉月と呼んだ女児を見ている。
「いい加減にしなさい、葉月。この方が困ってらっしゃるじゃない」
少女と目線を合わせながら、諭すような口調で美女が話しかけた。
「嘘じゃないもん。ママが教えてくれたのとそっくりだもん」
納得するどころか、女児はブンブンと首を左右に振って反発する。
「困った子ね」
そう呟いた美女だったが、本当に困ってるのは春道だった。何せ、事情が何ひとつわからないまま、騒動に巻き込まれてしまっているのだ。
会話から置いてけぼりの春道にようやく気づいてくれたのか、美女は再び春道に頭を下げた。
「突然この子がすみませんでした。私は
「そんなの知ってるよねー。葉月のパパなんだもんね」
よほど春道を父親にしたいのか、何度も女児はそう念を押してくる。とはいえ、簡単に頷いてあげたりはできない。
春道は少女に突然パパと呼ばれて、捕まえられたことを和葉と名乗った美女に説明する。
「本当に申し訳ありませんでした。この子、少し勘違いしてしまったみたいで」
迷惑をかけてしまった心苦しさを証明するかのごとく、相手は三度深々と頭を下げる。
「勘違いじゃないもん。この人、絶対パパだもん。葉月にはわかるんだもん」
半ば泣き叫んで子供が母親へ抗議する。
それにしても助かったと春道は思った。偶然人通りが少なかったおかげで、騒ぎを誰にも気づかれてないのだ。
これが春道の知ってるいつもの状況なら、凄まじい勢いで野次馬軍団が形成され、下手をすれば警察まで呼ばれて今頃は事情聴取さえ受けていたかもしれない。
幸運と言えなくもないが、望まない騒動の主人公に勝手になってしまっているので、不幸中の幸いというところだろう。
しかしながら、いつまでも訳のわからない騒動と遊んでるわけにもいかない。季節はもうすぐ夏とはいえ、夜はまだまだ肌寒いのだ。
濡れた髪でいつまでも外にいたら、いくら健康に自信のある春道でも風邪をひいてしまう。事態を収拾させるべく、春道はこうなった詳しい説明を美女に求めた。
松島和葉は一瞬悩んだのち、顔を上げて春道を見据えた。その目は本当は話したくないけれど、ここまで迷惑をかけてしまったのだから仕方がないと諦めてるようだった。
「実は今、父親が不在の状況でして、この子は父親の顔を知らないんです。私がいつも説明していた容姿に貴方が似ていたので、それでつい――」
「葉月は間違ってないもん。ママこそ、なんでパパにそんなことを言うの」
葉月という名の少女の瞳には大量の涙が滲んでいる。それだけ父親が恋しいのだろう。
無理もない。両親の間に大人の事情があったとしても、それを理解できる年齢ではない。
悲しみにくれる娘に、どう説明したらいいものやら母親は悩んでいるみたいだった。簡単には人に話せない複雑な事情があるに違いない。
「パパは葉月のパパだよね。そうだよね」
すがるような視線で下から見上げられれば、思わずそうだよと言ってあげたくなる。
春道は己でも自覚してるほどのお人好しなのである。これまでもお金の問題などで度々友人をなくしている。
春道が悪いわけではなく、お金を貸した途端にその友人は連絡がつかなくなってしまったのだ。
こんな難儀な性格をしてるだけに、一時は心無い友人たちから便利屋のごとく扱われていた。それが嫌で地元を飛び出し、自然以外ほとんど何もないような田舎町までやってきたのである。
フリーのプログラマーなんて仕事をしてるだけに、パソコンとインターネットに適応した環境さえあれば金を稼ぐには充分だった。
見てのとおり裕福な生活を送れるほどではないが、男ひとりそれなりに生きている。
そんな春道でも迂闊に首を縦に振ったりは出来ない。ここで嘘をついて少女を喜ばせたとしても、最初についた嘘をバレないようにするために新たな嘘をつかなければならない。
そうなれば泥沼だ。春道にとっても、葉月という女児にとっても得など何もない。
可哀相かもしれないが人生とはそういうものだ。だからこそ春道は人に見栄を張らないことを信条としていた。
「何で、何でウンって言ってくれないの。どうして葉月のパパだよって言ってくれないの」
駄目だ――もう見てられない。
春道は女児から視線を外した。このままでは情に負けてしまいそうだった。
仕方なしに春道は最終手段を実行しようと決めた。チラリと母親を見て、すまないと軽く頭を下げてから、くるりと二人に背を向けた。
「ど、どこ行くの」
涙と鼻水にまみれてるとわかる声が、ザクリと背中に突き刺さる。だが下手な真似をしても母娘を傷つけるだけだ。心を鬼にして春道は冷たい声を出す。
「悪いけど、忙しいんだ」
それだけを告げると、足早に現場を後にする。それとなく背後の様子を確認すると、こちらを追いかけようとした娘を、母親が必死になって押さえつけていた。心が痛むが、こればかりは春道にはどうにもできない。
もう会うこともないだろう。
いずれは夏の前に起きた珍しい想い出になる。ふと闇に染まった夜空を見上げると、元気を出せよとばかりに月が美しく輝いていた。
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