第3話 さよなら、令和
しかし琳は真っ直ぐ自宅には帰らなかった。今日は家に帰る前に寄らなければならないところがあるのだ。
大学や自宅からとても近いとは言わないまでも、同じ区内にある、行きつけの場所――泉熊野神社である。
神社やお寺に日が暮れてから行くのはよくない、というのもばあちゃんがたびたび口にする教えだ。今の時期は日が長いから、まあセーフだろう、と琳は思った。
今日中に行くことに意味があるのだし。
下り坂の先に、神社の入口、というか最初の鳥居が見えてくる。
一の鳥居は石で造られた、よく見かけるタイプの鳥居だ。熊野神社、と額が掲げられている。一の鳥居を潜るとすぐに二の鳥居がある。これはちょっと珍しい形かもしれない。
「縦の棒も横の棒も角ばってるね」
琳がそんなふうに言うと、彼女のばあちゃんは煙草臭い息を吐きながら孫の語彙の少なさを嘆いたものだった。
「何だい、縦の棒、横の棒ってのは。縦は柱だろ」
「あ、そうか」
そう言われてみればその通りである。
「じゃあ横は?」
「柱の間に渡してあるのが貫、上に乗ってるのが笠木っつうんだ」
「へええ」
十段もないぐらいの短い石段の先に、三の鳥居があって、これは鳥居の手前側と向こう側にさらに小さな柱をつけて支えているタイプだ。
三つ目の鳥居を越えると、石段の先に拝殿が見えてくる。その前に狛犬もいて、これがなかなかかわいらしいのだが、拝殿の近くにはもっといかつくて大きい狛犬も置かれている。
ばあちゃんは琳を連れてよくこの神社に来ていた。
「このいかつい狛犬、ちょっとばあちゃんに似てるよね」
って言ったら、もともといかつい顔にもっと皺を寄せていた。
琳のばあちゃんが癌で亡くなって、ぴったり一年が経った。
ばあちゃんは豪胆な性格の割に神仏を大切にする人なのである。特別信心深いわけでもない琳だが、初詣には行かなかったし、一年間はどこの神社にも参拝しなかった。喪が明けた今日、久々に泉熊野神社にやって来たのだった。
お賽銭を入れ、鈴を鳴らす。
二礼、二拍手、一礼。
きっちり作法を守って参拝し、心の中で住所と名前を言う。
「おかげさまで、無事に、一人で一年暮らせました。ありがとうございます。これからもよろしくお見守りください」
ゆっくりと顔を上げる。
ばあちゃんの声が蘇る。
「ここの神様はねえ、――っていうんだ」
「古事記でも一番最初に出てくる、全ての始まりの神様だよ」
その話を聞いた時の琳はまだ小さくて、神様の名前も覚えられなかったし、古事記が何かもわからなかった。
でも、「全ての始まりの神様」という言葉と、それを発したばあちゃんのきりりとした口許は妙に印象的だった。
ばあちゃんは、この数年間で何度か入院した。その間、琳はこっそりと泉熊野神社に通って、ばあちゃんのことを祈った。
彼女は薬学生だ。手術ができないと言われた時点で、ばあちゃんの病気が完治することはないだろう、とわかった。頭でも心でもちゃんとわかっていた。だから病気平癒は祈らなかった。せめて、少しでも長く、息苦しくない生活を送れますように、と祈った。ばあちゃんは肺癌だった。
ばあちゃんが亡くなってしばらくしてから、琳はふと思い立って古事記を読んだ。読んだといっても、例の大学図書館には古典文学は置いていないだろうと推測し、スマホで検索しただけだ。目的の文章はすぐに見つかった。
あめつちのはじめのとき、
たかまがはらになりませるかみのなは、
あめのみなかぬしのかみ、
つぎにたかみむすびのかみ、
つぎにかみむすびのかみ。
このみはしらのかみは、
みなひとりがみになりまして、
みをかくしたまひき。
古事記でも一番最初に出てくるということは、この名前で間違いないだろう。
アメノミナカヌシノカミ。
天之御中主神。
琳は心の中で唱えた。忘れないように何度も唱えた。
ばあちゃんと私を見守ってくれてありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
改めて今日、感謝と挨拶を捧げ、琳は神社から立ち去ろうとした。
拝殿に背を向けて、石で舗装された参道に一歩足を踏み出す。
その瞬間、どう、と風が吹き、鎮守の森の樹々が一斉に揺れた。
風に乗って、微かな声が聴こえる。
「ワレ、カミムスビノカミヲショウカンセリ」
その声は、琳の耳には届かなかった。
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