1-4.穏やかなとき

『天河のこと、なんか放っておけないんだよな』


 ──ちょき。

 ちょき、ちょき、と。

 時に軽快なリズムを取るように栗色の髪が切られていく様子を聖鞠は鏡越しに眺めていた。


 入社した頃はショートヘアだったが、この三年でよく伸びたなぁと思う。

 髪を伸ばす前までは短い髪が好きだった。だから出来るだけ綺麗に伸ばそうとヘアケアにも力を入れて、香りもよく洗い上がりの評価も良い少し高めのシャンプーを買ったりもした。

 それが今、砕けた恋心の欠片を払うようにちょきちょきと切り落とされていく。

 胸下まで伸びたこの髪も、元彼との思い出のひとつだ。


『天河といると落ち着くんだ。お前のほうが年下なのにな』


 切られていく髪に重ねて、思いを断ち切る。

 掛けられた甘い言葉も、今、全て捨てるのだ。


『俺、天河が……いや、聖鞠が、好きかも』


 落ち着いて振り返った今なら言える。


(────好きかも・・って何だよ、かもって!!)


 天河聖鞠という人間は、つくづく男運に恵まれていないようだった。

 

 そんなこんなで、バスローブを身に纏い現実世界あっちと同じように鏡に座り、髪がはらりと落ちていく様子を見守ること約一時間。

 髪切師のぴょこんと生えた猫耳が自信ありげにピンと立った。


「さあ、出来たよ! とっても素敵になっただろう?」


 施術はあっという間だった。

 切り落とされた髪の毛をエイルが壷のようなもので回収している中、聖鞠は鏡に映る自分の仕上がりを心ゆくまで堪能する。


 歩けばいつもさらさらと首周りを撫でていたものがなくなって、頭を振れば毛先がふわふわと顎筋をなぞる。

 異世界で髪を切ってもらうのは当然初めてのことだったので、伝えた要望通りになるかどうか心配だったが杞憂だったようだ。

 ワンレングスのロングヘアからショートボブになって、随分と首周りがすっきりした。異世界の美容師もなかなか良い仕事をする。


「ありがとう! すごい、すっきりしたー!」

「ふふん、当たり前さ! アタイはこの道二十五年のベテランだからね!」


 聖鞠の満足げな笑顔に胸を張って応えてくれたのは猫耳女性だ。彼女がエイルの手配ですぐさま駆けつけてくれた髪切師である。誇らしげに揺れる尻尾が今すぐ撫で回したい欲求に駆らせてくるが、猫耳はあっても相手は猫ではない。


 レアスには人間ヒューマ族を含めた六種族が暮らしている。大浴場に案内されるまでの道中でアストライアから聞いたことだ。

 髪切師の女性はマオ族という、猫の獣人だ。手先が器用で身軽なマオ族たちはとにかく明るく楽しいことが大好きで、踊り子や劇団員として、または器用さを活かし芸術家を目指すものが多くいるそうだ。


 他にはドラゴンのような鱗を持ったドラコ族や、翼を持つハーピィ族なんていう種族もいるらしい。

 先程聖鞠が喚び出された広間にもいたと思うが、観察する余裕などなかった。


 異世界にいればそのうちちゃんと会えるのかもと思いつつ、ここに滞在するには聖女という大役を務めなければならないので安易に考えてはならない。


「ヒマリ様、どうぞこちらにお着替えください」


 ご機嫌な様子で帰っていった髪切師を見送ったあとエイルからここぞというばかりに差し出されたのは、澄んだ空を思わせる色のドレスだった。


 ぱかっと開かれた胸元を飾るセーラー風の衿に、すっきりとした上半身に腰のあたりから徐々に広がっていくシルエット。スカートの部分には透き通ったオーガンジーが重ねられ、シンプルながらも上品な華やかさがあった。


 聖鞠が着ていたオフィスカジュアルコーデ──カーディガン、シャツ、スキニーパンツは雨でぐっしょりだ。正直、さっぱりした身体でもう一度纏うには遠慮したい有り様で、着替えを用意してくれたのはありがたかった。

 だが、これぞドレスというような品性に溢れたものを差し出されて少々気後れしてしまう。


(生まれて初めてのドレスがまさか異世界で叶うなんてね……)


 それが自分なんかに似合うのか不安だったのだが、エイルに手伝われていざ着てみれば細部に渡って施された見事な刺繍に気持ちまで引き締まる。

 自分で言うのもなんだが、鏡に映った自身を見てなかなか悪くないと思った聖鞠であった。


(……着心地がすごくいい……!)


 まるで高級シルクのような肌触りに包まれて、聖鞠の心は踊りっぱなしだ。ちなみに高級シルクを着たことはない。


 着る前は不安だったというのに、初めてのドレスに聖鞠のテンションはたちまち上がっていく。単純思考な聖鞠ならではの切り替えの早さであった。


 ちょっと動けば、シフォンのような裾がひらひらと揺れる。まるで世界中に愛される子供アニメ映画のプリンセスになった気分だ。

 女はいくつになってもお姫様になりたい生き物である。ドレスを着てテンションが上がらない訳がないのだった。


 それに異世界の下着の素晴らしさも聖鞠の気分を上げるのに一役買っていた。

 見た目は素朴なデザインで色も地味なベージュだったのだが、身に着けると不思議なほど身体にフィットするのだ。

 小さいほうなのでぶかぶかだったらどうしようかと思ったのだが、そんな心配もなくささやかな膨らみをそっと支えてくれる。

 特別な縫製をされているのだろうか、正直元の世界に持ち帰りたいくらいの良さだった。


 失恋の痛みを忘れられるほどに聖鞠の気分は上々であった。

 今度は王子とご対面だ。食事を一緒に、ということでエイルの先導のもと裾を踏まないよう気をつけながら城内を歩く。


 髪の長い聖鞠しか知らない者からすれば、突然髪が短くなったのを見ればそれは驚くだろう。

 そうなるとアストライアの反応が気になってくる。

 あくまで言葉の通り気になるというだけだが。絵に描いたようなキラキラ王子様を前にするなら、自分もそれなりに綺麗だと思われたい、そう思うのが普通。ただそれだけのことであり、決して他意はない。


 ドキドキしながら通された食堂で少々緊張していた聖鞠を出迎えたのは、僅かに目を見張り驚いた様子のアストライアだった。


「ほんの少しの間で、随分と雰囲気が変わられましたね。ヒマリ様」

「えっと……変?」

「いえ、そんなことありません。短い髪も素敵です」

「ありがとう」


 おずおずと尋ねてみれば、にこやかな微笑みと共に褒められた。

 褒められる感覚もまた久しぶりで、胸の奥がそわそわして落ち着かない。聖鞠は短くなったばかりの髪先をくるくると指で弄りながら微笑む王子に笑みを返した。

 美しさが眩しい王子に素敵だと言われて悪い気はしないものだ。例えお世辞だとしても。


「ヒマリ様にはこの色が似合うと思っていました。思った通り可愛らしい栗色の髪が映えて素敵です」


 例え、お世辞だとしても。


「──それに首の細さが際立ってとても綺麗で、ドキッとしてしまいました」


 こっそり聖鞠にだけ聞かせるように囁かれたならば、これが王子の本心なのだと思ってしまうだろう。

 これはお世辞、社交辞令だと自分に言い聞かせても、体温の上昇を止められない。

 しかもドレスを手配したのが王子自身だとは思わなかった。


(異世界のイケメンやばすぎでしょ……)


 日本の男なら絶対に言いそうにないセリフを、いとも簡単に言ってのける。

 頬が熱いのは湯上がりのせいだということにして、聖鞠は案内された席に着いた。

 王子の目配せで壁際に並んでいた給仕係によって食事がどんどん運ばれてくる。

 まさにご馳走、といった料理の数々があっという間にテーブルの上いっぱいに並べられた。

 正面の席にはにこにこと聖鞠を見守る王子の姿。

 自身の前には並べられた銀のカトラリー。


(あ、ある程度マナーは知ってるつもりだけど、大丈夫かな……?)


 ナイフとフォークを持とうとする手がぷるぷると震える。


「ヒマリ様」

「──っひ、はい?」


 不意に声を掛けられた。驚いて危うくナイフとフォークを落とすところだった。

 声も裏返ってしまいさぞ変に思われたことだろうと、聖鞠はおそるおそる正面の王子に目を向けた。


「実はここのところ独りで食事をすることが多かったんです。────だから、今日はヒマリ様と一緒に楽しくご飯が食べられたら……、幸せだなって」


 これは気遣って言ってくれているのだとすぐに分かった。一人称が“私”から“俺”に変わり、口調も砕けたものだったから。

 それが彼の普段の言葉遣いなのだろう。にこやかな微笑みも印象が変わって見える。

 その変わりようにドキッとしたが、おかげで緊張は解れた。


 そうして穏やかに食事は始まった。


 アストライア王子に会話をエスコートされ、聖鞠が住む世界──地球についてたくさん話をした。

 人間以外に種族はいないことや、魔法はないがインターネットという便利なツールがあること。

 暗記するのが難しいくらい、大きな国から小さな国までたくさんあること。

 そして聖鞠の家族についても。聖鞠が赤ん坊のときに離婚したため父はいないこと、母は十五のときに亡くなっていることを言うとアストライア王子は痛ましそうに眉を下げた。


 実は彼も早くに母親を、二年前に先王である父親を亡くしているのだと言う。そこで聖鞠と同い年であることを知り、親近感が湧いた。

 それから話が一番盛り上がった。水の都で造られたという酒を振る舞われ、心の距離も緩み、気を良くした聖鞠は自分からも色々と話し始める。

 聖鞠の仕事、営業先で出会った最悪な顧客や一番嬉しかった出来事や、果ては恋愛事情まで。酒も入って勢いが出た聖鞠は止まることなくペラペラと。


「それは……辛い経験をしたね。ヒマリを弄ぶだなんて、酷い人だな」

「でしょう? あーあ……私も何であんな人を好きになっちゃったんだろう……」


 アストライア王子は聖鞠がどんな話をしようとしっかりと耳を傾け、うんうんと頷いてくれる。

 つい最近の失恋について、彼も少々怒りを顕わにしていた。大いに同情してくれたらしい。自分が抱いた感情や辛さに理解を示してくれるのが嬉しい。


 ──そこでふと、聖鞠は気になってしまったのだ。


「そういえば、王子は? 良い人いるの?」


 この場でこんなことを馴れ馴れしく聞けるのは別世界からやって来た聖鞠だからこそだろう。

 締めのデザートを戴きながら聖鞠は向かいに座る彼に直球を投げた。何と言う果実なのかは分からないが、口に広がる甘みが程よくて美味しい。


「…………」


 聖鞠のストレートな質問に、彼は悲しそうに眉を下げ黙ってしまった。

 これには上機嫌だった聖鞠も流石にまずいと思った。


「ごめん……。王子様にこんなこと不躾に聞いちゃだめだったよね」

「──あっ、すまない! 違うんだ……」


 アストライア王子は慌てて否定はするも、その表情はどこか暗い。

 影が落ちた俯き顔に聖鞠もしょんぼりとデザートを食べ終えた。


「…………」

「…………」


 沈黙。

 鳴る音は食器を下げるエイル含む侍女たちの気配だけ。


「……ヒマリ、よかったら外に出てみない?」


 この沈黙をどうしようと考え始めたところで王子の提案。

 俯いていた顔を上げて彼に目を向けると、真摯さを帯びた夕焼け色が聖鞠を見つめていた。


「そこからバルコニーに出られるようになっているんだ。……この国の景色を見ながら────話が、したい」


 意を決したような言い方に断る理由などなかった。

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