似つかぬ双子

 榎本氏は八月に七十三を迎えた物腰柔らかな女性であった。世界的な画家がごく一般的な一軒家に住んでいるとは少々意外、そういうとカラカラ笑った。


「皆さん、そうおっしゃいますよ。昔から住んでいるので、近所の方は絵がうまいおばあちゃんくらいに思っています。はい、お茶をどうぞ」

「ありがとうございます」


 榎本氏の淹れてくれた緑茶は温かだった。カチ、カチと掛け時計が時を刻み、和モダンな雰囲気は妻・文香も大好きなようで、すっかり機嫌が良くなっていた。もっとも、仕草に現れることが無いので私以外はそれに気付かないだろう。

 榎本氏は自らも茶をすすり、問いかけた。


「マネージャーは基本的に私への取材の類を断っていましてねえ。これも私が拒否しているからなんですが、ニューロロボットでしたっけ? そのような分野の方の知見は刺激になるかもしれないからということでした。でも、本題はそれじゃないのでしょう?」


 緊張したのか、大人しくしていた桝田が襟を正し、脇に抱えていた33.3×22センチのキャンバスを取り出した。布を外して、恭しくそれを榎本氏の前に手渡す。


「これは私が六年ほど前に描いた画です。『白翠嵐の情景』とこれが瓜二つだと思いました。でも盗作したと言いたいわけではないのです。その画を見せたのは友人だけで、写真も存在しませんから有り得ないのです」


 私が事前に見た『白翠嵐の情景』と桝田のそれは、なるほど、恐ろしいほど似通っていた。現物は日本にないが、高解像の画像で詳細に見ることが出来る。ただ、芸術に明るくない私でも分かるくらいに、画力には開きがあった。結果として、見た者に与える印象も少しばかり異なるだろう。芸術に敢えて優劣をつけるなら、桝田のそれは完全に敗北していた。

 榎本氏は手に持ったそれを食い入るように眺め、絶句している。桝田は言葉を続けた。


「僕……失礼、私が知りたいのは『白翠嵐の情景』を描くに至った経緯、そして何を思いながら描いたのかということです。私はどうしても、それが知りたいのです」


 榎本氏は顔を上げ、ゆっくりと息を吐いた。戸惑い気味に、しかし目をランランと輝かせながら、また桝田の画を見つめた。


「タイトルはなんと名付けたのですか?」

「『傷つける優しさ』です」

「なるほど。いいタイトルだと思います。技術も悪くありませんし、保存状態もとてもいい」

「ありがとう、ございます」


 望外の喜ぶとばかり、桝田の顔が綻んだ。榎本氏は数秒目を閉じ、脳裏に画を描く自分を思い描いた。


「そう、キッカケは些細な物でした。こんなに悪者扱いされるこれに、もし感情があったらどう思うだろうか? これを題材に選んだ一番の理由です。悪くないと分かっていても、憎しみを向けられる。やがて自分が消えると分かっていても、世界は悠然と存在し、それはきっと"白翠嵐"にも見えていたはずです。私は白翠嵐の幸せを願ったのかもしれません。だからこの画になりました。構図も神経質に調整していたのに、ここまで似るなんて。桝田さんの『傷つける優しさ』についても教えて頂けますね?」


 もちろんですと、大きくうなづきゆっくりと言葉を紡いでいく。私たち夫妻も熱心に聞き入っていた。


「友人間で画を見せ合おうと言うことになっていました。共通テーマは風景で、何でも良かったのです。友人が夏祭り、小川など題材にする中、私はいまひとつ決めかねていたのですが、そのさなかこれがありました。天上天下唯我独尊、人間なんて敵わない強大な存在。ヒトなんて無知で愚かな生き物です。手のひらにある有難さを自覚するのに、恐怖や傷を必要とする者は実際多い。だからこれは一種の優しさでもあるのではないかと思って、描いたのです」

「そう。そうなのね」


 私に言わせれば桝田のインスピレーションは浅はかであった。若者らしいガタガタの観察眼である。これを榎本氏はどう受け取ったのだろう? 私に置き換えるなら、同じ研究テーマを掲げた同志だと思っていたら、まったくもって餓鬼の如くであったということ。さぞかし失望することだろう。

 しかし、さすがは榎本氏である。私とは違うらしい。


「異なる解釈から同じ絵を導く。奇跡……いいえ、これは神秘。私たちの内にある心象風景は多岐にわたります。そしてこれが最適解となる感情もまた、数多い。面白いものを見せていただきました。こんなもので満足かしら?」

「はい、貴重なお時間を割いて頂き、感謝に堪えません!」

「まあまあ、こんなおばあちゃんに、そうかしこまらないで下さいな」


 その時、腕時計に着信があった。『Purple Haze』は富岡からの着信の時にしか鳴らない。うっかりマナーモードにするのを忘れたことに対し、妻からの視線は暗色の侮蔑一閃。しかし榎本氏も桝田も出るように促してくれた。自らの責任を富岡に転嫁するような悪態を心の中で呟きながら、着信に応じた。

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