時計
俺が彼女と出会ったのは、100均の棚だった。
彼女は、たくさんのカラフルな時計たちの中から、どういうわけか何の洒落っ気もない黒の目覚まし時計を——俺を、選んでくれた。
嬉しかった。
社会人生活と同時に一人暮らしをスタートさせ、希望にキラキラと瞳を輝かせる彼女に選ばれたことを、俺は誇りに思った。
その日から、俺は自分の持てる全力で、彼女のために時を刻んだ。
一分も狂わぬように。
二度と戻ってこない、彼女の大切な時間を——一秒一秒。
俺のアラームを消した後に再び寝込んでしまい、遅刻ギリギリで部屋を飛び出していった朝。
会社で大きなミスをしたと、泣きながら帰ってきた夜。
自分へのご褒美に、人気のケーキ店のスイーツを買って幸せそうに頬張っていた週末。
子供のような泣き顔。弾けるような笑顔。
何かを思い描く微笑み。
困難を乗り越えるたびに大人になってゆく眼差し。
彼女と一緒に積み重ねていくその一瞬一瞬が、俺の幸せだった。
ある日。
彼女が、部屋に恋人を連れてきた。
背が高く、笑顔の優しい青年だ。
——やがて、彼女が彼と一緒に選んだ新しい掛け時計が、部屋にやってきた。
明るいオレンジ色をした、美しい音色を奏でる掛け時計。
その日から——
どういうわけか、俺の針はぴたりと動かなくなった。
そんなつもりなど、全くなかった。
なのに——
どうやっても、俺の身体は俺の言うことを聞かなかった。
自分の役目は終わった。
俺の針は、馬鹿な俺の脳ミソよりもずっと早く、それに気づいたのかもしれない。
彼女は、泣いてくれた。
俺の全身を掌で撫でながら、何度も「ごめんね」と繰り返して——幾つも涙を落とした。
俺は、世界一幸せな時計だ。
最後まで、あなたにこんな風に愛してもらえて。
俺の針は、もうあなたの時間を刻むことはないけれど——
できるなら——もう少しだけ、あなたのそばにいたい。
ちょっと埃っぽいこのカラーボックスの上で、あなたを見守っていたい。
その笑顔を、泣き顔を。
そしてまた笑って……そうやって、あなたが日々を歩いていく姿を。
ずっと捨てないでくれ、なんて言わない。
俺が、本当に無意味なガラクタに戻るまで——
もう少しだけ、あなたを見守らせて欲しい。
そして。
どうか、とびきり素敵な時間を重ねていって欲しい。
これからも、ずっとずっと。
心から愛する、あなたへ。
もう時を刻まない、ポンコツ目覚まし時計の独り言だ。
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