飲んだくれが自称ランナーになるまで
ちーしゅん(なかむら圭)
上 ランナーの対極にいる男とは
一、持久力について
五十の声も聞こえてきた今となっては俄には信じ難いが、子供のときから俗にいう運動神経はそんなに悪い方ではなかったように思う。
いわゆるかけっこも確か結構速い方で、ただそれを唯一証言できるはずの両親が星になってしまった今となっては淡い記憶でしかないが、幼稚園のときから小6で初めてS君に負けるまでは徒競走はずっと一等賞だったはずである。
ちなみにS君というのは小6の時すでに毎朝のヒゲソリを欠かせない程の早熟だった。
ゆえに彼の肩あたりまでしかない私が見上げるほどの背丈だったこともあり、ある意味では負けて得心したような記憶がある。
しかし、これが長距離となると一転からきしで、校内マラソン大会でさえもオリンピック精神を貫くのがせいぜいであった。
それが奇跡的に小3の時に一度だけ校内マラソン大会で一等賞になったことがあり周囲や自分を驚かせたことがある。
ただ、それは例えが少々僭越ではあるものの、さしづめ競走馬が距離の全く異なる三冠レースを走るのに少し似ているように思う。つまり、ある程度の適性が完成するまでの若駒は長短問わずに絶対値で制することが結構あるのではないかと言いたいわけである。
やはり極めて僭越である。
しかし、それが証拠に私は中学に入るのを待たずして小6の時の校内マラソン大会では過半以下の順番にまで落ちた。
さらに中学では、順位はおろか決められた距離を私ひとりだけ走り切ることが出来ないというのもしばしばであった。
小5から入れてもらった少年野球では、地域の弱小チームとはいえ手前味噌ながらエースで首位打者だったが、それでも持続力の無さは益々顕著で、球技の中でも持久を要する運動量がとりわけ少ないと思われる野球の練習でさえも、最後の方は野球が好きだという嗜好の強さを押し退け、早く終わらないかといつも願うのだった。
ゆえに、中学校時代の夏休みの二部練などは最も象徴的で、それこそ地獄の時間となることも往々だった。
その当時、先輩が新入部員を鍛えると言えば聞こえは良いが、いわゆる「しごき」は日常であった。
その中でも私が一番に忌避していたのが当時『ダービー』と呼ばれていた練習メニューであった。
誰がそんなことを考えたのか恨むしかないが、新入部員およそ30人の一団が一斉にスタートする持久走が、勝ち抜けレースになっているのである。
例えば最初の3周で何人抜け、その後は1周ごとに何人抜けというように、すなわち持久走が苦手なヤツほど、さらにより長い距離を走らなければならない寸法になるという優れものであった。
ちなみに、その方式は走ることだけに留まらず『足上げ腹筋』や『ぶら下がり』など、これまた誰が考えるのか持続力を要する練習は多種多彩であった。
そして、私がそのいずれにおいても劣等組であったのは言うまでもなかった。
そんな調子なので、件のマラソン大会では中学校内最下位集団となり、戒めとして次の体育の授業で追試として再走させられる始末だった。
二、自堕落について(体型)
とまあ、持久走が苦手だという宣伝もいい加減この辺にしておきたいところだが、お言葉に甘えてもう少しだけダメ押しならぬ、ダメ出しを続けさせてもらおう。
高校では一転、俗に言う『無気力の美学』よろしく、懸命さを否定する年頃となり、中学校では一応キャプテンを務めていた野球部を続けることもなく怠惰な日々を送っていた。
しかし世の中とはありがたい。こんなヤツにでも拾う神がいるもんで、毎朝登校時に「バレー部に入れバレー部に入れ」と熱心に声を掛けてくれるT先生がいた。
恩人にこんなこと言ったらバチが当たりそうだが、まさにバレーボールの申し子のごときバレーボールのような頭をしたT先生は、聞くところによると若い頃、といってもまだ10年ぐらい前のことなのだろうか、国体に出て活躍した名セッターであったらしい。
そんな立派な先生とはいざ知らず《けったいな》おっちゃんやなと、ほとんど受け流していたが、それが1ヶ月近くも続くと気になるのが人情というものか。
そもそもが、さしたる意思表示も無い単なるノンポリのええ格好しいである私は先生の熱心さにほだされ、とうとうバレーボール部への入部を決めたのであった。
しかしそのあとがアカン。
またそれが私の私たる所以ではあるが、恩を仇で返す不届き者が、なんとかそこそこ真面目にやったのは僅か一年間だった。
出来ればアクシデントと言い訳したいが、自らの不注意で練習中に怪我をするとそれをいいことに、いわゆる幽霊部員となったのである。
にも関わらず恥ずかしげもなく、同級生のキャプテンに籍だけは置いておくように働きかけ、結果それ以降はほとんど部活には参加しなかったのである。
それで何が起こったかって?
自分で言うのもおこがましい愚の骨頂ではあるが、当時はちょっとだけ自信を持っていた180センチ65㌔、バスト1メートルウエスト68センチのスタイルは、そのだらしない生活から、これまた僅か一年間であっという間に見る影を失った。
もはや10㌔も増量したカラダでは、元々からっきしだった長距離はおろか、少しは得意だった短距離さえも全くフツーの人に成り下がっていたのであった。
しかし、それでもそんな生活は特に改善されることなく過ぎ、二十歳前後の頃にはバイトバイトに明け暮れる毎日に酒とタバコとくれば、それこそまさに鬼に金棒であった。
ただ、ますます自堕落に拍車がかかった十九の春(といってもバタヤンではない)に、なんとまたもや二度目の拾う神か、中学校の同級生からの声掛けのお陰で地元の野球チームに入部させてもらった。
これが自堕落の中では唯一の健康的な出来事になった。
またしても手前味噌だが、そのチームを称して『真面目な草野球』。
試合でしかメンバーが集まらない草野球チームが多い中、それとは対照的に練習の方がメンバーの集まりが良いという極めて珍しいチームでは、蝉も鳴くのをやめるような夏の日も、犬もこたつで丸くなるような冬の日もミッチリと練習した。
とりわけシーズンオフの冬の時期には、内野での一ヶ所ノックなどの基礎練習に時間を費やすという草野球では稀にみる真面目さであった。
ただ、練習熱心と相応に勝負にも結構なこだわりを持っていた。
それが証拠に、小さい小さいリーグではあったものの地区大会突破は何度かあったし、ついには一度だけではあったが、全国優勝という結果も手にしたことがあった。
それは自堕落を極める私が二十一の時のことだったと思うが、決勝戦の最終回ツーアウトツースリーから放った同点三塁打は、今も自分史に燦然と輝く、唯一の自慢話のネタである。
ただ、ものには一長一短がつきものということか。
このチーム、練習もミッチリだがその後の反省会の方はさらにミッチリでしっかり帳尻が合っていた。
そこがまた、私の愛する一長一短であったわけではあるが。
前置きが長いのは寅さんの専売特許とはいえ愚の骨頂である。
などと思いながら、もう少しもう少しとついつい書いてしまうところは、やはり自己本位の性格がなかなか治らないことの証左でもある。
さて、いくら若いといえども、毎日夜遅くまでのバイトの隙に週一の草野球だけでは重いカラダが簡単にスマートになるわけもない。
おまけに一長一短のミッチリがついているとなれば尚更であるのに関わらず、そこに更に輪を掛ける転機が訪れてしまった。
三、自堕落について(不摂生)
時は平成元年、バブルが弾けるほんの僅か前、なんとか職にありついた私だった。
しかし最初の配属先が予期しない東京では、やむなく生まれ育った故郷を離れざるを得ず『マジメな草野球』とも暫しか今生かは分からないものの、一旦は別れを告げること必然となったのである。
それにしてもヒトのカラダというのは精巧かつ正直に出来ているものである。
社会に出て仕事を始めると、一応こんな自堕落な私でさえも結構忙しく働かねばならず、『マジメな草野球』もなければますます運動とは無縁の生活を送ることになった。
その上、毎晩のミッチリだけは欠かさないのだから当然更なる大型化は不可避と思われた。
にもかかわらず、あろうことか体重が減っていくのである。
ほんの数年前にはあれほど減らしたいと思っても減らせなかったのがなんと皮肉なことではあるが、取り敢えず喜ばしいことではないか。
でも、体重はたしかに減ったもののこれが何故か冴えない。
もしやこれが俗に言う筋肉と脂肪の重さの違いというやつなのであろうか…
自分自身の感覚というかそれ以前に、鏡に映る我が身のシルエットからは、かつて唯一の自画自賛の拠りどころであった逆三体型が、すっかり影をひそめていた。
然るに、そこに立っているのは到底信じたくないが、いわゆる中肉中背みたいなだらしないおっさんであった。
そして、そこに更に輪を掛けたのが文明の利器「クルマ」であった。
通勤も営業の仕事も毎日の移動のほとんどがクルマクルマであり、アクセルとブレーキを踏むためだけの脚がどうなってしまうのかは推して知るべしである。
トランクに積みっぱなしのゴルフクラブがたまの出番をもらってもそんなの気休め、まさに焼石に水とはこのことであった。
誤解のないようにお聞き頂きたいが、数多いる私のようなアベレージゴルファーのそれは、残念ながら運動とは全く程遠い、どちらかというとレジャーの領域に分類されることが適当と思われる。
したがって例えば打ちっぱなしで2時間頑張ったところで筋トレ効果はおろかダイエットの期待さえも望むべくもないのが一般である。
おまけに朝イチからのべつまくなしに飲んで、しかもカートを使って回るラウンドに至っては、不健康極まりないまさに運動の対極と呼ぶべきものであろう。
さて、そうしていつの間にか顔だけで重さ20キロと周囲から揶揄されるようになり、そしてさらに昼メシ時には、決まってベルトの穴を緩めなければならない始末であった。
こうして、20代で無用に大きく成長してしまった我が身であった。
しかしながら30代では、むしろ大型化よりもさらに残念な変化が待っていたのである。
自堕落な日々を過ごしていたにも関わらず、30を迎えても不摂生について改善の意志はさらさらなく、むしろ改善どころか益々さらに拍車が掛かっていた。
また、30歳の手前で一時的に帰阪したことで復帰した『マジメな草野球』も2度目の東京赴任により完全に任意引退扱いになってしまっていた。
そして、いよいよ年に数回のゴルフだけがカラダを動かす唯一になってしまい、さらにクルマでの移動も相変わらずであった。
そして酒が主食のような生活の賜物か、はたまた人間の成長曲線の典型的な姿なのか、20代ではドンドン巨大化していったカラダが、30代半ばからはみるみるみすぼらしくなっていった。
「こんなはずじゃ…」自分でさえも情けない限りであったが、かつては手前味噌ながら逆三角形を誇示していたカラダ…
そう、スーツを買いに行けば「上着はいちばん大きいのを持って来てくれ」と言い放ちながらウエスト70センチ台のズボンをはくことで独り悦に入っていたその体型が、憐れミジメなことに標準的な既製品がピッタリ!やないか。
と思ったら何をか言わんや、ズボンの腹がキツくて入らんやないか…
こんなにもあっけなく上半身の筋肉、とりわけ肩や上腕のそれが見事に消え去り、腹巻き二枚に早変わりするとは。
そうして、元々太い方ではなかったとはいえその脚が、「おじいちゃんの脚」と呼ぶに相応しい鶏ガラに変貌を遂げたのは、まさにミゼラブルとしか言いようがなかった。
四、呑んだくれ(上)
にもかかわらずその当時、呑んだくれの不摂生は全盛を迎え、平日はほとんど午前様でその日のうちに帰宅することはほぼ皆無であった。
ごく稀に月に一度くらいであろうか、早い帰宅となった時には、あらかじめ連絡しなければ家人を驚かせてしまうような有り様だった。
ただ家人も、最初からそれを許容するような理解ある姿だったわけではない。
地方から初めて上京した田舎者が、頼る親戚縁者も友達もいない中で小さな子供二人を抱えるとなれば、いかな天然度合いの強い家人であっても、身勝手な連れ合いのいい加減に不謹慎極まりない生活、立ち振舞いには腹に据えかねるものがあったことは想像に難くない。
なのに、呑んだくれの手前勝手な理屈を恥ずかしげもなく度々振りかざすとなれば、家人とモメるのは当然のことであった。
しかしながら、互いに自分の立場を主張し合うだけのモメ事は不快で不毛な時間のムダではないかと、私の方からある提案をした。
提案といえば耳障りが良いが、それは半ば無理筋の屁理屈を力業で押し通したみたいな話であった。
しかしそこは、さすがは田舎者の家人である。
信じられないことに見事に交渉が成立したのである。
その提案とは、「休日は家庭▪家族サービスに全力投球するから、代わりに平日の仕事には一切口を出さない」というもの。
無論、仕事とは夜のお務めのことである。
その結果、大義名分を得た私の生活が益々加速度的に悪化していくのは言うまでもないことであった。
とはいえ通常の経年疲労▪劣化に加えそんな生活では、当然にカラダの具合も良いわけがない。
にもかかわらず「ちょっと調子がイマイチかな」と思えば逆療法▪ショック療法よろしくその薬は酒である。
血が争えない亡き父から私が唯一ほめられたのは、朝から酒を飲まないことだけであったが、夜に他人の何倍も飲んでたらそんなもん取るに足らない話である。
五、呑んだくれ(中)デビュー
ヒトのカラダには多少の個人差はあるのだろうが、やはり所詮絶対量というのは決まっているものだろう。
さしづめコップの水が溢れ出るようにどこかで限界を迎えるはずである。
それは、毎晩の生ビール10杯がルーティンだった30代も終盤戦に差し掛かる頃にいよいよ訪れた。
その晩も接待と称し、性懲りもなく日暮れさえも待ちきれない勢いで宴を楽しんでいた。
ビール党からはよく耳にする話だが、なんせ新陳代謝が旺盛でその典型象徴のような私は、30分はおろか10分間隔の手洗い奉公なんていうのも珍しいことではなかった。
その晩も何度目かの奉公に立ったときに「あれ?」、左足の先辺りにちょっとした違和感を感じ出した。
そんなときに、たわけたことを言っている場合ではないのだが、酔いが進み深まるに従ってその違和感も次第にマヒしていたのか、毎度の午前様帰宅のときにはいつものようにだらしなく眠りについた。
すると明け方、尋常でない足の痛みで目が覚めた。
寝ていられないのだが、かといって立ち上がってみても座ってみてもどうしても痛い。
どうやらこれは骨が折れたなと、半ば観念しながら不謹慎な昨晩の行状に記憶を巡らせてみる。
しかし、あいにく記憶が残っているような上品な飲み方が出来ないのは今に始まったことではない。
恐らく酔っ払ってぶつけたか?はたまた捻ったのか?痛みに悶えながらさらに記憶を辿るがやはり思い出せない。
しかし痛いのは足の先というか指の付け根のような感じがするので、もしや捻挫とか骨折の類いではないのではないか。と懐疑の中、依然悶えながら冴えない頭を必死で巡らす。
高校生の時分に部活で足首を骨折した古い話を思い出していたが、それに匹敵、いや或いはそれを上回る痛みにはさすがに不安になった。
そうは言ってもいきなり救急車というのには躊躇というかなぜか呵責があり、痛みに悶えながらも何とか朝を迎えた。
早く朝がきて欲しいなんて小学校の遠足か、やり始めのゴルフの前の日くらいしか記憶にないが、この時ほど朝が待ち遠しい夜はなかった。
そうこうしているうちにそろそろ家族も起きる時間がきたので、さも何事もないかのような振る舞いを試みた。
だがいかんせん、ただ叫ぶのをようやくこらえているのがやっとの痛みでは、さすがに家人に勘づかれないようにとの願いはあっけなく霧散した。
もはや歩けないのだから、よもやこのままの状態で仕事に行くのは諦めざるを得ず、かといって病院に行くにせよ最低限の身支度は必要である。
そう意を決して、叫び声だけは上げないようにゆっくりと真っ赤に腫れ上がる左足の親指に靴下をはこうとしたその瞬間…
ついぞ我慢していた叫び声が、家人の驚きと共に狭い我が家に響き渡ったのであった。
そして「なんでこんなんなったんか分からへんねんけど、痛うて歩かれへんから病院行くわ」と告げた。
「ゆうべもホンマにひどかったから天罰やわ」と罵る声も黙って聞くしかなかった。
幸いなことに、これまで大きな病気はおろか病院のお世話になるのは腰痛での整形ぐらいであった。
だから、掛かり付けのお医者さんなんて上等なものはないので、取り敢えず一番近くの病院に駆け込むことにした。
何せ痛いのでベランダで使っているペラペラのサンダルをはき、普通なら5分で行ける道を20分も掛けて何とかたどり着いた。
待ち合いで順番を待っている間も当然のように痛みは容赦ないが、身から出たサビと耐えるしかない。
ほどなく名前が呼ばれ、足を引きずり診察室に入った私に一目で下された診断は…
「はい痛風ね。」
その無機質な一言に、「自分だけは大丈夫」だという全く根拠のない思い込みは見事に打ち砕かれた。
かくして、不摂生の極みであろう「痛風」デビューを飾ったのは、果たして四十の声を聞いたまさにその歳であった。
ご経験者とまでは言わないまでも、数多の貴兄がよくご存知の通りであろう。
実はこの痛風というのは、その要因である尿酸値を抑えるための予防薬はあるのだが、ひとたび発作に見舞われた日には、残念ながら処方される薬はないのであった。
これぞ不摂生の報いである。
俗に「風が吹いても痛い」とも称される痛みには、取り敢えず処方される痛み止めもそれこそ焼石に水であった。
お医者さんによっては、「嵐が過ぎるのをじっと待ちましょう」なんて粋な台詞を贈ってくれる人もいるぐらいである。
さりとて、デビューを果たしたばかりの私にとっては終わりのない拷問にしか感じられないわけであるから、それは果てしなく長く思えたものである。
しかし、嵐が過ぎるまでとはよく言ったものでまさに台風一過、過ぎ去ったあとは本当に何事もなかったかのようにスッキリと痛みが消え去るのであった。
「喉元過ぎれば」という格言は人によって当てはまる度合いが違うのだろうが、私にとっては私のために誂えられたものではないかと自覚するしかない言葉である。
つまり台風一過の翌日に、あの壮絶な痛みを忘れ、早速の不摂生に身を任せることこそが、痛風への誘いを受けた必然的な因果なのなのに、である。
素人の講釈ほど耳障りなものはないが、今やすぐに手に入るネット情報の受け売りをここで垂れ流すことをご容赦願いたい。
痛風の大敵とされるプリン体なる物質は、酒の中でもとりわけビールに多く含まれている。
一方ウイスキーや焼酎など、いわゆる蒸留酒には比較的含まれないとされ、さらにワインには予防効果まであるとの説もあるらしい。
それを聞くと、さすが「酒は百薬の長」なんて思うのは大いなる誤解である。
その酒呑みの都合のよい誤解を盾に、プリン体が含まれていないとされる酒を飲むのが飲んべえの手前勝手な正当化なのである。
それにも増してタチの悪い私は、その実どんな酒にも尿酸値の精製を増長させる働きがあることも知っているのに酒を飲む確信犯であった。
しかも、「好きでやってるわけではない接待なのだ」という大義名分で、毎夜毎夜破滅的に飲み歩く。
正当化を通り越した被害者ヅラには全く呆れる限りである。
そんな調子だから当たり前の報いだが、それからもたびたび痛風発作に見舞われた。
さて「風が吹いても…」が痛風の語源であると先程書いたが、実は他にも諸説あるらしい。
真偽のほどは定かではないものの、「風のように場所をコロコロ変えて激痛が現れるから」とも言われるらしく、気まぐれにその場所を変えながら発作は出現するのであった。
そして模範的な痛風持ちを自負する私の場合は、足先から足の甲、さらには足首へと順当に発作経験を積み、僅か3年という異例のスピードで一人前の痛風持ちの登竜門「膝」にまでたどり着いた。
それなのに、「ビールは一生分飲んだから卒業した」などと恥ずかしげもなく吹聴しつつ、プリン体が少ないと言われる焼酎を性懲りもせず毎晩一本空にするような生活を続けていた。
その上、「毎朝一錠飲んだら大丈夫」などという、先輩貴兄の無責任なささやきを真に受け、何とかその魔法の薬を手に入れられないかと病院に駆け込んだりした。
あくまでも、強制的に数値を抑えるだけで根本的な治癒には生活習慣の改善が欠かせないわけであるにもかかわらず、である。
六、呑んだくれ(下)強制収監への序章
それでも、週末も私の朝は早かった。
普段は小さい子供から目が離せない家人をゆっくり寝させるためである。
というか、刺し違えに平日の午前様を認めてもらったのだから自ら蒔いた種である。
契約を結んだ以上「家庭に仕事に全力投球」なのだが、それなのに月曜の朝が待ち遠しいとはつくづく不純なオヤジである。
その週明けも、週末の疲れ?を癒すべく陽も傾かぬ前からそぞろであった。
ただその頃は、あるプロジェクトによる繁忙と環境変化も相まって、珍しく昼の仕事も結構忙しかった。
たしかその夜は、そんな状況の影響もあったのか少し熱っぽかったが、またもや「アルコール消毒や~」とのたまう全く自制のない刹那的な考えを肯定し酒宴に繰り出していた。
だが、いつもイヤイヤ付き合わされている仲間も真面目に心配するほど、その晩の私は明らかにおかしかったようである。
ほとんど飲まずしかもしゃべらず、時折目をつぶってしまう始末に、さすがに早いお開きとなったらしい。
ところが当の本人は泥酔して記憶を失う普段とは違う意味で、全く記憶がなく帰巣本能だけで辛うじて家に帰ったようであった。
そして翌朝の体温が40℃である。
年端のいかぬ子供ならまだしも、四十をとうに過ぎた大の大人がよもやそんな高熱を出すとは尋常ではない。
これにはさすがの私も観念した。
仕事を休むことにし、ただ休む以上は病院に行ったという既成事実も必要なので、掛かり付けなど持たない私は家族がたまにお世話になる個人のお医者さんに診てもらうことにした。
季節はたしか秋の声が聞こえてくる頃である。
まだ流行には早いがインフルエンザの検査もやってもらう。陰性だった。
さらに特段の異常も認められないとして、下された診断は「風邪」だった。
然るに一通りの薬と解熱剤を処方してもらい帰途に着いた。
しかしあまりの高熱に「これホンマにただの風邪か?」
朦朧とする頭がどこか腑に落ちない不安な心持ちに、支配されていた。
とはいえ、ここぞとばかりに日頃の不摂生を糾弾するであろう家人に対しては好都合だったので、「ただの風邪や、熱醒ましもうてきたで」位に流しておいた。
さしあたり家人の追及は免れたものの、一向に下がる気配のない高熱による不安と不機嫌さは隠しようがない。
ほとんどメシも喉を通らない。
いつも大抵のことは呑めば治るなどと乱暴な虚勢を張っている私でも、40℃を超える熱が続く2日目の夜を迎えさすがに不安が大きくなってきた。
なんせ汗をかくので頻繁に着替えたいが、高熱による朦朧感で自分の意思も体もまるでコントロールできない。
敢えて積極的に私に関わらず、却って気を楽にしてくれていた家人であったが、これほどまでに言うことを利かない頭と体では、そんな家人の手助けをもついに受けないわけにはいかなくなった。
そもそも無知な私は、汗を出せば熱が下がると単純妄信的に信じる一方、脱水によるダメージなどにはお構い無しであった。
それでも家人から水分補給せよと言われ、枕元に置かれた飲み物を口にしながら眠っていた。
いや、ひょっとして今眠っていたのか、
はたまた、覚めていたのかも判然としない。
恐らくそんなことを何度も繰り返しながら、朝が白むまでの時間が過ぎていったようであった。
そんな私には関わりなく家族の朝はいつも通り忙しい。
学校と幼稚園の支度をする子供に大声を掛けながら、家人が朝食を食べさせている音がする。
一応は風邪と診断された私は別の部屋に隔離されていたが、ウサギ小屋のような家では賑やかな声が響くのは当然であった。
さておき、3日目の朝を迎えてもやはり下がる気配のない高熱には、いささか異常を感じていた。
季節外れとはいえ、もしもインフルエンザならば昨日は潜伏期間だったかも知れない。
そんな可能性も考えられるので子供を送り出した家人とも相談の上、今一度昨日と同じ先生に診てもらうことにした。
外は日中は半袖、夜はちょっと羽織るものが欲しいぐらいの過ごしやすい気候のはずだが、なんせ目が熱くて重いので暑いのか寒いのかさえも分からない。
それでも熱があるから寒かったのか、たしか半袖シャツに結構厚手のジャンパーを着て自転車で向かったように記憶している。
医院までは200~300メートルしかないのだが、歩くより自転車を選んだ。
地元で長い間開業している女先生は信頼も人気もあるのか、その日も待合室は沢山の患者で溢れていた。
とりわけ多い年配者と小さい子連れの患者を差し置いて椅子に座るわけにもいかず、覚悟を決めて入口に近い壁にもたれて立っていることにした。
ちょっと大袈裟だが、覚悟を決めないと倒れてしまいそうな状態だったのであった。
漸く名前を呼ばれたのは1時間近くが経った頃だった。
「薬はちゃんと服用した?」
「食事は?」
と、通り一遍のことを聞かれ、熱はずっと下がらなかったことや痛みやダルさなどについて話した。
そして、昨日に続き検査棒を鼻に突っ込まれた。
診察待ちの時とは違い、比較的早く15分ぐらいで検査結果が出たのには救われた。
しかしまたもや『陰性』だった。
インフルエンザ間違いなしと見立てた女先生は、陰性の判定にいささか不服そうな様子であったが、かくして私に下された診断は昨日と同じ『風邪』だった。
翌日はたしか日曜日だった。
昨夜半から降り出した雨が、まどろむ朝にも降り続いていた。
テレビの中ではいつもの気象予報士が、このあと益々勢いを増し、とても秋雨とは言い難いような大荒れの天気になると得意気に喋っていた。
結局、昨日処方された同じ薬を飲んでいても、やはり40℃を超えるような熱が続き3日目を迎えていた。
さすがに生命の危険までは大袈裟にせよ、何か将来に影響を及ぼすようなことが起こっても不思議ではないと思い出した。
そうして不安が募り、気弱な方の自分は負けそうになる。
せめて敵の正体が分かれば立ち向かえるのにと、一方では思うのだが。
そんな頭でも、その日が生憎の雨の日曜日だったのを強く覚えている。
なぜなら、実は家人の母親が田舎からたまたま出て来ており、昼下がりから雨の中を遊びに行ったからであった。
自分はさておき、止む気配の無い大雨に、可哀想な気持ちで家族を送り出したが、それをあざ笑うかのように、雨は容赦なく降り続いていた。
定かではないが、ほんの少しまどろんでいたのだろうか。
腕時計を見たら家族が出掛けてから2時間ほど経っていた。
窓はもちろん、カーテンも閉めていても雨音が大きく聞こえた。
カーテンの隙間や少し短めの裾から漏れ入る光が、まだ夕刻まで時間があることを思わせた。
熱冷ましの頓服を飲んでも効き目が弱い。
数時間もまどろむことをも許さずぶり返す高熱に目を覚まされる。
にもかかわらず、喉や頭痛などのいわゆる風邪の諸症状が出ないことがかえって私を不安にさせていた。
さて、家族は田舎者の定番コースである銀座から有楽町辺りをぶらつくと言っていたので、帰って来るのは恐らく相当に遅いと思われた。
かえって静かなので、出がけに用意してくれた晩飯を食って眠れたら回復しないかな、などと考えながらうとうとしていた。
しかし、その期待というか切望は無情にもあっさりと裏切られた。
布団をかぶっても止まらぬ悪寒と、何とも表現しがたい倦怠感が、眠ることはおろか、まどろむことさえ許さない。
そしていよいよ不安が危機感に変わったのは、ちょうど夜の帳が降りてきそうな時だった。
「救急病院に行くしかない」朦朧とした頭の中だが、何故かハッキリと決意した。
そしてこれは全て自分の不摂生からなるものなので自分で解決すべきだと思い、出掛けた家人を頼るとか、よもや責めるなどとはお門違いも甚だしいのだと思った。
しかしそもそも、どこで救急受付をしてくれるのか?そんなことさえも分からない。
思考能力を奪われる高熱にうなされながら、
しかしこれが俗に言う火事場のクソ力なのか?なんとか救急病院を突き止めることが出来た。
時はまだスマホが世に出る前、そろそろケータイのインターネット利用が日常的になってきた頃であった。
しかし救急病院をインターネットで調べたのか、はたまたイエローページで調べたのか、今も全く思い出せない。
そんな不調法な状態ではあるものの、出掛けるならば一応は大人として身繕いぐらい必要だろう。
だが、いよいよ起き上がるのも難儀になってきてそれもままならない。
弱まるどころか、むしろ激しくなる雨の音がなおさら気持ちを萎えさせる。
ただ、「このまま居るとどうなるのか」という得体の知れない恐怖から抜け出さなければならぬと覚悟を決めた。
ペットボトルの水を持ち、出来るだけ雨を通さないようなジャンパーみたいなものをまとい家を出た。
覚悟は決めたはずなのに、嫌がらせかと思う程の雨に心が折れそうになるが、家のすぐ前の道にちょうどタクシーが居たことに救われた。
その救急病院が自転車でも5分ぐらいの場所にあることは私を一旦喜ばせたが、その反面、タクシーでは近すぎることに気付きかえって逡巡した。
傘をさして僅か数十メートルでもびしょ濡れになる雨を抜けタクシーに乗る。
頭がぶらつく中でも何とか「近くて申し訳ないんですが」と言って行き先を告げた。
それが心証を良くしたのかは知る由もないが、とても丁寧に車を走らせてくれた運転手さんには頭が下がった。
路面の水溜まりを跳ね飛ばしながら、もうすっかり夜の帳が降りた通りをタクシーは救急病院に向かって走った。
それでも途中で2度、信号に引っ掛かったので結局は自転車で行くのと同じか、むしろタクシーの方が時間を要したかも知れない。
5分程で到着した夜間救急病院は、思いのほか小さく相当な年季の入った建物だった。
どちらかと言うと病院よりも診療所と言った方が適当な感じのたたずまいである。
体裁だけのような駐車場から30メートル歩くだけでまた雨に打たれた。
私はこの段階でかなりの疲労感、脱力感を感じていたのだが、玄関の先にはそんな私に追い打ちをかける光景が広がっていたのであった。
芋の子を洗うプールの如く、待合室はおびただしい数の子供たちで埋め尽くされていた。他聞にもれず救急病院の勝手など分からない私は、しばらくその光景を呆然と眺めていたが、取り敢えず受付とおぼしき場所に子供たちをかき分け進んだ。
受付に近づくごとに、まるで戦場のような慌ただしさが伝わってくる。
ただそれとは関係なく不審そうな表情をした受付の女性がそんな私に向かってこう言った。
「あのー、ここは小児専門の救急ですよ」。
その衝撃の一言が、それでなくても朦朧とした私の思考能力を完全に奪っていった。
もはやこの現実を受け入れたくない、信じたくないという気持ちに強く支配され、それと同時に、そんな基本的なことを見逃していた自分への腹立たしさにほとほと嫌気がさしていた。
次の行動を取れずに呆然と立ち尽くしていた私は「大丈夫ですか?」という看護師さんの声で我に返った。そして絞り出した。
「あの…実は高熱が3日ほど続いているんですがどこか診てもらえるところはないでしょうか?」
藁にもすがるような(恐らく間違いなく)、それこそ子供のような目で哀願したに違いない。
「大丈夫ですよ、安心して下さい」
これをナイチンゲールと呼ばずして何と呼ぶのか。
正に戦場のような状況の中、手際よく調べて問い合わせてくれる姿に涙がこぼれそうになった。
そして程なく「総合病院はご存知ですか?」
「今夜はちょうど夜間診療をやっているようですよ。」
「今、電話でお願いしてみたら診てもらえるようですがどうされますか?」
ナイチンゲールにどうしますか?と聞かれて、「どう」も「こう」も、「はい」も「いいえ」もありまっかいな。
また涙がこぼれそうになり、声がちょっと詰まったが、何とか悟られないように、でも本当に心から「ありがとう」という言葉が自然に出た。
折からの雨は、未だ勢いを緩めることなく音を立てていた。
打ち付ける雨が跳ね上がる場所よりも、水溜まりの方が多くなる様相である。
総合病院の場所は、先ほどタクシーで来た道を戻り、家を通り越した500メートルぐらい先である。
ナイチンゲールの無償の優しさに多少の元気をもらったとはいえ、この状況でこの雨の中、歩いていけるわけがない。
さっきのタクシーはもうすでに走り去っていたが、頭が朦朧としてまたもや次の行動に移れず立ち尽くしていた。
そんな私の落胆が顔に表れていたのかも知れないが、
「今日はどうやって来られたんですか?」
「必要ならタクシーをお呼びしましょうか?」
再び聞こえた優しい声にはこらえられず涙が溢れたが、こぼれないように左の袖ですぐ拭き取った。
こんな雨の日曜日の夜なので、待たされるのかと心配したタクシーは思いのほか早く到着した。
相変わらず忙しく駆けずり回っているナイチンゲールには、会釈をするだけのお別れになったが、心の中では「天にも届く程」に叫び、「地面に穴があく程」に頭を下げていたのは言うまでもない。
総合病院に着いたのはそれでももう20時頃だった。
立地も良く普段から評判の良い病院が、夜間診療をやっていたのはとても幸運に思った。
ただ一方では、その評判ゆえに大きな病院に人が溢れ返っているのではと、もはや困憊の私を不安にさせていた。
これ以上待たされたら、しかも座る場所さえもなかったらもう立っていられない。
しかし、入口から中を見た瞬間に私の不安は杞憂に終わった。
指定日の夜間診療ではなかったからなのか、患者の姿はほとんどどこにもなかったのである。
そして安堵した私をさらに喜ばせたのは、かのナイチンゲールが予め私の症状や様子を伝えておいてくれたことであった。
そのお陰で、受付で名前を告げただけで瞬く間に診療に回してもらえることになった。
まずは採血ということで、少し離れた処置室に向かった。
普段苦手な採血も、よほど熱と虚脱感にさいなまれていたのか、気がつかないうちに終わったようだった。
よく覚えていないが、検査結果が出るまでは待合の椅子で殆どまどろんでいたように思う。
然るに名前を呼ばれた時には、どのくらいの時間が経ったのかさえも、にわかには判然としなかった。
七、呑んだくれ(追)ついに収監
この日の救急宿直医が内科の先生でないことは、ナイチンゲールに教えてもらっていた。
だが、診察室に座っていたのは、私の勝手な先入観をくつがえす若い女性の先生だった。
だからといって急に元気が出たりしたわけではないことは、一応申し添えておきたい。
それでも、困憊している私に妙な緊張感を持たせた先生の第一声はあまりにも唐突だった。
「このまま入院ですね。」
不摂生を重ねてきたにも関わらず生まれてこのかた四十数年、幸いにも大きな病気とは無縁だった。
病院のお世話になったと言えば腰痛と肩こりと高校生時分の骨折ぐらいで、到底病気とは呼べないものばかりである。
よもや入院など自分の身の上のこととは考えていなかったそんな私が、呆然自失の呆け状態になったのはむしろ必然であろう。
「大丈夫ですか?」と先生。
大丈夫なわけがない、ちゅうか大丈夫なら返事してるやん!
無論そうも言えない呆けた頭から出た言葉は、
「え?何のことかよう分からんのですが…」
と、やはり呆けたものであった。
「これはひどい炎症を起こしていますよ、いつからですか?」
子供に話すように優しい先生の言葉さえも理解出来ないまま、3日ほど前からのことを何とか説明した。
「それは大変でしたね」
相変わらず優しいが、
「でも今夜はもう帰らない方がいいですね」
とここはクールである。
素人の患者が反論するべくもないのは分かっていても、せめてもう少しは詳しく教えて欲しい。
そうでなければ、人生初となる「入院」という一大イベントを受け入れられへんちゅうもんやわ。
などと大層なことを考えながら
「え?風邪とちゃうんですか?」
と間抜けたことを聞いた。
優しい先生は"今から説明して上げるからちょっと待ってね"と、子供を諭すような目で私のことを眺めた。
そして採血の結果を手にこう言った。
「これ異常値ね」
この極めて簡潔な言葉が、細かい検査項目とあまりに対照的だったことが、却って私の不安を払拭し、不思議と十分な納得感を与えた。
「肝臓が完全に炎症を起こしてますね」
そう言って先生が指差したのは、肝機能の検査では最もポピュラーなγ-GTPであった。
そう、酒飲みが自分の不摂生をあたかも勲章の如く自慢し合う時に必ず用いられるアレである。
社会人になってすぐの健康診断で、再検査になったことを嬉しそうに吹聴していたかくいう私こそ、正に愚の骨頂であるが。
さて貴兄には釈迦に説法だが、γ-GTPの正常値はだいたい50以下である。
愚行を重ねる私のルーキーイヤーは100ちょっと。それ以降の約20年間も高め安定とは言え、200を超えるのはそう度々ではなかった。
それが「γ-GTPが1000超えてますよ」である。
敢えて努めて落ち着いた調子で先生が告げたのは、私を出来るだけ動転させないようにという心配りだったのだろう。
「え?ヤバいですね」
平静を装うわけでなく、あまりの結果に理解の範疇を超えてしまったというべきだろう。
どこか他人事のような感覚に陥った呆けた人のように、私は先生にそう尋ねていた。
「だからもう今日は帰れないって言ったでしょ」
と念を押されても尚、私には小心者的な心配事が頭をよぎっていた。
そう、こんな私でさえもやはり仕事のことが気になるのである。
日頃からロクに仕事しないヤツが既に3日も休んで挙げ句に入院とは。
しかもそれが肝臓の異常値だと知れたならば、周りの反応は言わずもがな推して知るべしである。
そう考えただけでも居ても立ってもいられなくなる小心者の私だが、
「しかし先生なんでこんなことになってるんですかね?」
とまたもや間抜けた質問をした。
内科専門ではない先生は確定的な言及は避けたものの、続けて
「明日会社行っても仕事になりませんかね?」
と言った私に対しては
「周りに迷惑かけるだけですよ」
とキッパリと答えた。
この先生の明快な一言により、いよいよ優柔不断な私の往生も決断されたのであった。
しかし、私にはとても長い時間に感じられたこのやり取りも、実はせいぜい5分かそこらの話だったのだろう思われたが、その僅か5分の間に、私の頭と心は激しい葛藤と逡巡を繰り返したのであった。
そしてさらに、是非はともかく原因が分かった安堵感に折からの高熱も相まって疲労困憊の極みとなったのであった。
ところで、日本人の平均寿命はこの何十年かで飛躍的に伸びたにもかかわらず、厄年というのは厳格に変わらないはずである。
それを肯定するかのように、私の身に舞い降りた人生初の入院は、計らずも四十二の秋、まさに本厄の真っ只中であった。
「ご家族に連絡は取れますか?」
その声にふっと夢から醒めたような感覚を覚えつつ現実に戻った。
「何て言ったらいいんですかね」
私はまた子供みたいなことを聞いてしまった。
でも朦朧としている頭から出た正直な気持ちだったので、不思議と恥ずかしいとは思わなかった。
すると意を汲んでくれたように、先生は私に丁寧に一枚の紙を渡してくれた。
それにはこう記してあった。
「まずは検査の結果、安静が必要であること。
詳しい病状は明日にならないと分からないこと。
最低3日分の着替えや身の回りの物が必要なこと。」
夜間診療とはいえ、もう待合には誰もいないようだったが、先生に促されるまま診療室から家人に電話した。
携帯電話がそろそろ一人一台の時代になっていたことで、外出先の家人に連絡を取ることが出来た。
日頃は電話嫌いで面倒臭がりの私であるが、この時ばかりは本当にホッとして、携帯電話に拝みたい気持ちになった。
電話の向こうの家人は、私の予想に反して落ち着いて受け答えをしてくれた。
「総合病院で診てもらったんやけどこのまま入院せなアカンねん」
「ホンマに申し訳ないんやけど来てもらわれへんかな」
「それはいいけど大丈夫なん?」
「まだ銀座やからちょっと掛かるけど待てる?」
たまたま上京していたお上りさんの義母の東京見物は、やはり定番コースのようだった。
「なんかいるものある?」
そのあとも、先生にお礼とかしなくていいのかなどと聞いてきた。
ここぞとばかりに不摂生を糾弾するのでは、と半ば恐れていた私はその声に救われた。
ただ高熱が続いていたとはいえ、よもや即入院とまでは想像していなかったのは家人も私と同様のようであった。
ゆえに少し不安に思うと同時に、その病人を置いて出掛けたことへの呵責を感じているようだった。
先生に家族が来るまでには一時間以上掛かりそうだと告げると、さしあたり診療室にベッドを用意してくれた。
そして左手首の内側あたりから点滴が入れられた。
点滴自体も初めてだった私だが、あまりの疲れに痛さなどは全く感じなかった。
家人が降りそぼる雨のなか病院に着いたのは、それから一時間半ぐらい経ったもう深夜と言った方がいいような時間だった。
確か22時を大きく回っていたが、何とも申し訳ないことに義母も一緒に来てくれた。
そして肩や足元あたりを濡らした二人の手には、傘のほか手提げかばんが2個提げられていた。
先生から教えてもらった3日分程度の着替えや、身の回りの物を慌てて詰めて来てくれたのだと思われた。
しかしこんな慣れないことに対しては、誰しもやはり念のためという心理が働くものだろうか。
手提げかばんには病院ではよもや必要でないであろう枕や体温計に加え、ご丁寧に氷枕まで押し込んであった。
珍しく家人の慌て振りが手に取るように分かり、これには私も口元が緩んだ。
家人から先生には丁重なお詫びとお礼をしたあと、病状や入院の目安などについて尋ねた。
いかんせん先生からは、やはりはっきりとした病名や原因などの説明はなかった。
ただそれは専門外の当直では迂闊には言えない、という以外の他意はないと思われた。
ということで、取り敢えず今夜はこのまま仮住まい的に病室に泊めてもらうことになったのであった。
そろそろ日付も変わろかという病院の中には人の気配は全くない。
とりわけ消灯時間から3時間も経った病棟のフロアは真っ暗だった。
そんな時間にも関わらず一緒に来てくれた先生とはここまでのようである。
「本当にありがとうございました」
家族と一緒に再度丁重にお礼をした。
「明日の朝には担当の先生が診てくれると思いますので、何も考えず安心してお休みくださいね。」
もう感謝しかない。
さぁ、ついに人生初の入院である。
無論、何もかもが初めてのことなので勝手が分からないが、看護師さんが優しく導いてくれる。
そういえば左手首には点滴が入ったままである。
それはコマのついたカートのような、スタンドからぶら下げてあった。
ちなみにあとで聞いたのだが、それはガードルスタンドというらしい。
そのガードルスタンドを引きずりながら、いやもしかしたら引きずられていたかも知れない程、私は長い一日に疲れ果てていた。
また看護師さんほどではないにせよ、手提げかばんを持った家人が優しかったことで安心し、すでに入院患者の体(てい)になっていた。
たどり着いた病室は、7台ほどのベッドがある大部屋だった。
この病院の建物自体が円形なので、自ずと窓側は角が無い造りになっており、とてもいびつなレイアウトになっていた。
当然のことながら、完全に寝静まっている他の患者さんの迷惑にならない入口すぐのベッドが私にあてがわれた。
「まだしんどい?」
「まあまあ大丈夫ちゃうかな」
「今日はこれで帰るけど何かあったら連絡ちょうだいね」
「ありがとう」
病室まで荷物を運び置いてくれたあと、家人が帰路に着いた時には日付にはすでに変わっていた。
「ありがとう」のあとに「気をつけて」の言葉も継げないほど疲れた頭で、私は雨が上がっていればいいなと願っていた。
廊下からの灯りが照らしてくれており、ベッドには思いの外スムーズに入ることができた。
ただ、疲れが優先し点滴の針の痛みは感じなかったが、点滴が抜けるのではとか、中身がなくなったらどうしようとか気になった。
また入りやすい一方で、入口の人の出入りの激しさが少し私を苛立たせた。
八、囚われて
それにしても病院の朝は早い。
なかなか寝付けなかったが、看護師さんに起こされたのだからいつの間にか眠っていたのだろう。
5時半に検温があり、看護師さんに体温を教えてもらったはずだがどうも記憶になかった。
ただ点滴のお陰で、自分の感覚的にはかなり熱は下がっていたように思われた。
とはいえ熱のせいなのか、ふと考えたらずいぶんトイレに行っていないことに気付いた。
昨夜、点滴が抜けはしまいかと格闘したベッドから慎重に降りると、ガードルスタンドを引っ張りトイレに向かう。
まだ勝手は分からないが、トイレの場所は大体相場が決まっているのか分からないなりにたどり着いた。
さて少々下品な話だが、出来れば医学的見地からお聞き頂きたい。
元々トイレの近いはずの私だが、やはり高熱による脱水のようなものなのか一向にオシッコが出ない。
しかし逆に言うと水分を取ってオシッコを出すことが解熱の得策だと思って集中する。
そして何とかその本懐を遂げた時、我が目を疑うほどの衝撃を受けた。
これをこげ茶色と言ったら大袈裟か?
事実は曲げてはならない、ましてや脚色など持っての外である。
と誓って見直したとしても、今まさに我が身から流れ出た液体の色は土色よりもまだ濃いこげ茶色というに他ならない色であった。
それだけでも、即日入院になるほどの症状だったことを容易に理解させられる事実だった。
ほとんど病気に縁がなかった私には尚のことであり、少しショックを引きずりながら病室に戻った。
しかし病院の朝は早い。
そしてお医者さんの仕事はホンマに大変過ぎる。
尊敬の対象という以外に言葉が見つからないほどである。
救急の昨夜も、遅くまで誠意ある対応をしてもらい涙が出るほど嬉しかった。
宿直の先生が専門外のため、確たる病名が示されなかったことさえも私を全く不安にはさせなかった。
その上こんな私のことを慮ってくれたのか、担当の先生が挨拶がてら回診に来てくれたのはなんと朝の6時半であった。
大部屋の名もなき一市井であり、ちょっと熱が出ている程度のさほど緊急性もなさそうな患者に対しても、こんなに素早く丁寧な対応をしてもらえることに驚いた。
そして感謝した。
「どうですか、お加減は?」
ありがたい問い掛けである。
年の頃はちょうど私と同世代ぐらいか。
角刈りまではいかないが、どこか武道家の雰囲気を感じさせる実直そうな男性の先生である。
その先生の名前は無論覚えてはいるが、ここでは明かさない。H先生としておこう。
特別に優しいとか丁寧というわけではないが、必要なことを適切に話してくれるというのがまさに誠実な印象である。
それが、素人のくせに厚顔無恥な理屈を言いたがる私のような人間にも、信頼感や安心感を与えてくれた。
「突発性のウイルス性肝炎ですね」
と先生は言った。
九分九厘宣告されるであろうと覚悟していたアルコール性でも、酒が蓄積した慢性でもなく、ウイルス感染によるものだという。
にわかに信じられない私は恐る恐る先生に尋ねてみた。
「自慢じゃないんですが、私毎日毎日酒ばっかり飲んでるんですが、それホンマに関係ないんですか…?」
先生はキッパリと言った。
「今回の炎症は酒は一切関係ないです」
その瞬間、こげ茶色のこともぶっ飛んだ懲りない私の心は、なぜか不謹慎にもほくそ笑んだ。
なぜならこの先生の言葉により『死刑宣告』を免れたからである。
酒呑みの私にとって酒を飲まないということは文字通り酒呑みではなくなり、つまりそれは生きる価値や意味さえ失うに等しいわけである。
ただ、先生はそのあとの言葉を継ぐことを忘れなかった。
「あくまでも今回の炎症自体の直接原因は、っていうことですよ」
「無論、これまでの酷使により疲労していた肝臓が抵抗力を失っていたのはいうまでもないでしょう」
まぁ、当然の話ではある。
そしてさらに先生は厳しい一言を私に言い渡した。
「2日間は絶食ですね、水分もね」
やはり世の中そんなに甘いもんではない。
不摂生の代償は簡単なものではなかったのである。
2日もの間、何も飲み食いしないなんて経験はなかなか無いと思うので、それがどれほど辛いのか想像するすべもない。
ましてやこの3日3晩高熱に冒され、ロクに何も口にしていないとくれば尚更である。
「3日ぐらいでかなり回復すると思いますよ」
という先生の言葉も、絶食が前提条件のものだったと知り、やはり簡単なものでないと思い知らされた。
九、監獄暮らし
期せずして始まった人生初めての入院生活だが、『小心者サラリーマン』である私の心配事は病状ではなく、会社での評価や立場が大部分を占めていた。
幸いにもA型B型などと違い、深刻な重症化には至らない『急性ウイルス性E型』らしいとほぼ判明はしたものの、さりとて肝炎であることには変わりはない。
よもや、この肝炎が酒とは一切無関係であるなどという説明を、額面通り信じてくれるような人は会社にはほとんど皆無だろう。
然るに、言い訳をするほどその信憑性が疑われることも容易に想像がつき、私のこの小さな胸を否が応にも締め付けた。
ましてや、かつて流行した「5時から男」を地でいく私を、良く思わない向きは多いだろうと思うと気が重くなるばかりだった。
その上、点滴のお陰なのかだいぶん熱が引き楽にはなってきたものの、これから水も飲めない絶食が2日間も続くと思うと考えるだけで力が湧かないのであった。
そんな中、会社の上長への言い訳メールを打っているところに家人が来てくれた。
ただ、私の運命を左右するかも知れないこのメールだけは早く打ち終えなければならなかったので、談話室という呼び名の休憩室に家人を先に行かせた。
それから程なく、点滴をぶら下げて休憩室に向かう私を待ち構えていた家人は、心配もさておき病状や病名のことを矢継ぎ早に聞いてきた。
私は今朝先生と話した通りのことをそのまま伝えたが、
「肝臓ってお酒に決まってるやん」
「もうホンマにお酒やめた方がええよ」
家人から発せられた言葉はまさに予想通りの台詞だった。だが、
「酒は全く関係ないねんて」
先生からの墨付きをもらっていた私は胸を張って言い放った。
そして、先生から受けた説明の詳細を、自己弁護と自己正当化に彩られた内容に脚色しつつ、朗々と語ったのであった。
しかし家人はすかさず、理屈ではない強烈な感情の塊を投げ返してきた。
「そんなん絶対に信じられへんわ!」
懲りない呑んべえが一週間近くも高熱に苛まれた挙げ句「肝炎」の診断を下されたのである。
誰がみても、家人の主張の方が断然正論に決まっているのだから「ちょっとは控えます」ぐらい言えばいいものを、いうに事欠いてこう言った。
「ほな、今日の午後に先生から話があるから一緒に聞いてみたらええやん」
これこそが酒飲みの性なのか?
我ながら、殊勝になれない自分にさすがに呆れつつも始末に負えない対決姿勢である。
かくして、午後の先生との面談には家人と二人で臨むことになった。
絶食中の私を慮った家人もお昼を取ることなく、指定されたナースステーションの一角にある部屋に向かった。
ドアを軽くノックしたら、すぐに「はいどうぞ」という声が聞こえた。
その声に少し恐縮しながら「失礼します」と丁寧にドアを開けて中に入る。
何はともあれ、家人と二人で御礼の言葉を述べ感謝の意を表した。
事前に看護師さんを通じ了解をもらっていたので、先生も自然な感じで我々夫婦を迎えてくれた。
にもかかわらずである。
御礼の言葉までは良かったのだが、その行き掛けの駄賃でもあるまい。
「先生、聞いてください、この人ひどいんですよ」
「毎晩毎晩飲み歩いて毎日午前様なんですよ」
「今回のも絶対お酒ですよね、バチが当たったんですよね!」
羞恥心のカケラもないとはまさにこのことである。
普通ならばまずは「先生、どんな感じなんでしょうか?」と、最初に先生の説明を聞くのが常識というか礼儀であろう。
それがこともあろうにこの恥ずかしげもない物言いには恐れ入ったが、さすがに先生は落ち着いたものである。
家人とは対極にいるかの如き口調でこう言った。いや言い切ってくれた。
「奥さん、今回の急性肝炎はお酒は全く関係ないんです。いやご主人のことを心配される奥さんのお気持ちはよく分かりますが…」
なんという完璧なまでの大人の対応であろうか。
私は胸と瞼が熱くなり思わず涙ぐみそうになった。
そしてその横で家人が苦虫を噛み潰していたのは言うまでもなく、しかしそれと同時に、かくして私の「酒呑みライフ」の継続が保証されたのであった。
その時、私の方を見た先生が目でうなずいたように見えたのは、果たして私の強い想いによる錯覚なのか?
結果として、私の「酒呑みライフ」を救うことになった先生の一言ではあったが、先生にとってはそんなことはどうでもよく、ただ純粋に医師の矜持を守るための当然の一言だったわけだが。
いずれにせよ、そんなことさえも先生には余計なお世話、つくづく手前勝手な解釈である。
さて、先生との面談は今後の予定に話が移り、二日間の絶食を終えた段階において症状の改善が見られるかどうかで「入院の期間や治療内容を決めましょう」ということになった。
「先生、だいたいでいいんですが、どのくらいの入院期間になりそうなんですか?」
やはり仕事、というか会社での居場所が気になる小心者の私は先生に尋ねた。
「まぁ、うまくいけば3~4日とちゃいますか」
「ホンマですか?」
「せやからまずは絶食頑張りましょう」
勇んで聞く私をたしなめるように、先生はそう言って力付けてくれた。
15分ぐらいで面談は終わり、家人とともに頭を下げて部屋を出た。
そのまま談話室で少し話をしたが、すっかりおとなしくなってしまった家人がさすがに心配になって、
「先生はあない言うたけど、まぁちょっとは控えるわ」
と殊勝に告げた。
十、報い~絶食
しかしたった2日間とはいえ、水も口に出来ないことはこれほどまでに辛いものか?
繰り返しになるがこの3日3晩高熱に冒されロクに何も口にしていないとくれば尚更である。
点滴は死なない程度に必要なものは補給してくれているのだと思うのだが、かといって喉の渇きを潤してくれるわけではない。
よもや空腹を和らげてくれるはずもなく、そこにあるのは、ただ飲みたい食いたいという欲望との戦いのみである。
まだ丸一日経つかどうかなのに、もはや寝ても覚めてもそのことしか頭に浮かばないと言っても過言ではないのである。
例えばテレビを観たり本を読んだり、はたまた音楽を聴いたりという普段は何のストレスもなく過ごしている時間さえも、全く目にも耳にも入って来ない。
なぜこんなにも時間が経つのが遅いのか、自業自得の果ての報いにも関わらず逆恨みをしてしまう自分が情けなかった。
ただベッドの位置を、急ごしらえの入口付近から窓際に移してもらえたことは、絶食のイライラを少し和らげてくれた。
朝昼夕の検温に朝だけは採血があった。
本当に有難いことに体温は順調に下がり、2日目の朝にはほぼ平熱になっていた。
だが一方、肝臓の状態を表す数値がなかなか改善せず私を少し憂鬱にさせていた。
なぜなら、これで絶食が継続になりはしないかと考えると余計に不安で、空腹が堪えるような気がしたからである。
実際にもしあと2日間延長とか言われたら、精神と肉体のいずれもが、ほぼ確実に盗み食い出来る状態に整っていたはずである。
知る由もないのだが、点滴というのは喉を潤してはくれないくせに、厄介なことに尿意だけは催すのである。
ベッドに横たわって空腹と格闘するだけでも大概な私に、その点滴を引きずってトイレに行けとはやはり当然の報いなのか。
それでも入院当初はまさに土色だったオシッコが、熱が下がるのと歩を合わせて平常の色に近づきつつあったことは救いだった。
然るに、これを頑張れば「絶食の解禁と希望通り3~4日での退院の報を手に出来るのだ」と午後の先生の回診を心待ちにしていた。
果たして、診察の結果は一勝一敗だった。
つまり絶食の解禁は告げられたが、退院についてはさすがのH先生も歯切れが悪かった。
「検査の数値なんですけどね」
とH先生は切り出した。
「だいぶ下がってきてるけど、下がり方がちょっと緩やかなんですわ」
やはり入院延長か?
「うーん、せっかくやからやっぱり正常値になるまで様子見ましょか」
これで入院延長確定である。
私なんかが言うのもおこがましいが、医者の仕事というのは大変重たい責任を背負っている。
ともすれば自身の判断ひとつで人の生き死にを左右するわけであるから安全、慎重を期すのは当然のことであり、我々は往々にしてその言動に救われるのである。
ただ一方で、敢えて誤解を恐れずに言うと、責任が重たいがゆえにリスクを全く取ろうとせず、いたずらに治療や入院を長引かせるケースもあるのではないか?そんな不謹慎な邪推をする自分がいるのもまた事実である。
ただ、今回のH先生への私の信頼は全幅と言っても足りない程だったので、入院の延長もプラスに受け止めることが出来ていた。
そして、何と言っても嬉しかったのは絶食の解禁である。
早速、その日の夕飯から私にも食事が配膳されたが、メニューは三分粥だった。
それがなんと美味い三分粥なのか。
普段の健康時だったら、美味さどころか恐らく味さえも感じないようなお粥さんが、私にみるみる力をみなぎらせるようだった。
体調は順調に回復してきていたが、いかんせん肝臓の数値の改善だけがゆっくりなのである。
そんな調子で4日経ち、5日が過ぎてもH先生の口からは退院の二文字が聞こえないまま、入院してからいよいよ一週間を迎えようとしていた。
その日は久しぶりに家人が来てくれたので談話室で少し話をしていた。
凡そ10日ほど前に発熱し、絶食を経験するまでの体調不良が嘘のように回復した私は、うっぷんを晴らすかのごとく元気な声でしゃべっていた。
さすがに家人にたしなめられて、ちょっと大人しくなったところにH先生が通りかかった。
普段からとても忙しく動き回っているH先生だが、珍しく足を止め声を掛けてくれた。
「あーKさん、えらい元気有り余ってはるみたいですねー」
H先生は神戸の人で、そのイントネーションには何とない丸みと温かみがあった。
先日の面会のこともあり、わざわざ声を掛けてくれたのかと思いその気遣いも嬉しかった。
そして敢えて、緊張気味の家人に優しく丁寧に話し掛けてくれた。
「夕方の数値が良かったら明日は大丈夫ですね」
「えっ?」
思いがけない先生の言葉に、話し掛けられた家人ではなく、私が思わず声を出した。
これはついに、解放の切符をほぼ手中に収めたということなのか。
自業自得とはいえ、原因不明の高熱が続き、まさに生命の危険を感じるところまでいったのはついこの間のことである。
そしてその挙げ句、2日間の絶食を含む不自由な入院生活を余儀なくされたのである。
これは大した苦労もせず、また幸いにもそれまでほとんど病院のご厄介になったことのなかった私にとっては非常に辛い経験であった。
だが反面、戒めにもなる貴重な体験でもあり、夕方の検査を待つ心持ちはやや複雑で微妙な感覚を含んでいたように記憶している。
検査結果が出るまでの間に夕食が配膳された。
絶食明けの有り難さもさることながら、このときはもしかしたらそれ以上と思われる感慨と感謝の念が、私の心の中を満杯にしていたのだった。
食事が終わる頃を見計らって、H先生が病室まで足を運んでくれた。
さっきの話し振りからしてほぼ間違いなく退院許可が出ると確信していたので、逆に「これで最後か」と勝手に感傷的になっている自分を不思議に思いながら、H先生の話を聞いていた。
「おめでとうございます、明日帰ってもらっていいですよ」
とH先生の口からその言葉が出るや否や、私の目には涙が溢れ少しこぼれ落ちそうになった。
だが九ちゃん宜しく少し上を向いてこらえた。
「本当にお世話になりました。ありがとうございました!」
H先生と看護師さんの顔を見ながらそう言ったとき、心の底からそう思っていた私はいよいよ、こぼれる涙をこらえ切れなかった。
かくして退院の朝を迎えた。
家人は来れなかったので、感慨とはうらはらに一人で無機質な感じで病院を後にしたのであった。
忙しいH先生からの指示は『向こう一ヶ月の禁酒』という厳しいものだった。
しかし、これまでの『呑んだくれ生活』のカラダとココロのリセットだと、前向きに捉える自分がそこにはいた。
そして一ヶ月後、何食わぬ顔で『呑んだくれ生活』を再開したのは言うまでもない…
第一章 結了
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