第2話 民宿マキノ
時は戻って、神社の境内。
「――つまり僕は十日間、きみの手足になればいいってことか?」
確認すると、ヒイロは小さく頷いた。
「わたしは陽向町の土地神です。町に住む人たちが日々健やかに暮らせるよう、見守るのが役目です。だけど、それは裏を返せば見守ることしかできないということ。直接手出しができなくて、歯痒い思いをしたことは数えればきりがありません」
「だから僕に遣いをやれっていうわけか」
意図は理解した。けれど、神の身では干渉できないあれこれを、ふらっと現れた旅人に託すというのはいかがなものか。
「そんな大役を任されるほど、僕は信用されているのか?」
「不思議に思われますか」
「ああ。なんなら祟りか何かで強制されたほうが自然なくらいだ」
「じゃあ今からでもやっときます?」
そんな気楽なノリで祟られても困る。
「大丈夫ですよ」
ヒイロは悪戯っぽく笑う。
「夜高さんはそういう人じゃありません。それに、願いを叶えてもらえると聞いては断るわけもありません」
「まだ願いが何かも聞いていないのにか」
「尋ねずとも分かります。神様とは、そういうものです」
確かにいちいち声に出さないと願いが聞き届けられないというのなら、黙って祈る参拝の形式はすべて無駄ということになる。心の内で思っていることは、少なくとも神前では筒抜けでなくてはならない。
理屈で神様を語る是非は、この際置いておくにしても。
「僕の願いは、叶うんだな?」
訊かないわけにはいかなかった。僕の願いもその理由も、何もかもがお見通しなのだとしたら。僕が僕を語らなくとも、これまでの苦悩を理解し承認してもらえるのなら。
僕は十日間どころか、一生を捧げたって構わない。
ヒイロの返事は微笑だった。神のみぞ知る、といったところだろうか。そんな曖昧な反応であっても、僕は期待せずにはいられなかった。
僕が願うことには理想論と妥協案の二つがあった。最初に思い浮かべたのが理想論。旅の末に果たす予定だったのが妥協案。本来なら前者は実現不可能で、それこそ神の施しがなければ叶うはずもない夢物語だった。
そこに都合良く現れた神様。
ヒイロの言うとおり、僕には断れるはずがない。
「分かった。僕の時間を十日分捧げるから、願いを叶えてほしい」
「契約成立ですね」
不意に僕の手を握るヒイロ。この寒さで手袋もつけていないのに、彼女の柔らかい手には朝の日差しのような温かさがあった。
「たった今から夜高さんはわたしの下僕です」
「他に言い方はなかったのか」
「よろしくお願いしますね」
「ああ、よろしく」
純真で無垢な、少女の姿をした太陽。
ずっと笑っている神様だな、と僕は思った。
*
夕飯の支度が出来たと連絡が入り、階段をおりると宿のフロントに子どもが立っていた。
見た目は小学校高学年か、中学生くらい。身長は僕よりも二回りほど小さく、ぶかぶかの青いジャージを羽織っている。特徴的だったのがアーモンドのような目で、それが僕の顔をじっと見つめていた。
何か言おうかと思ったが、社交性に乏しい僕には適当な言葉が思いつかない。今晩の客は僕しかいないと聞いていたから、おそらくはこの家の子どもなのだろう。
立ち止まってしまったために無反応でやり過ごすこともできず、僕は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった。
しばらくの沈黙のあと、先に声を発したのはその子のほうだった。
「……澤口、夜高さんですか」
無理やり喉をすぼめたような声だった。声変わり前の少年が大人の真似をしたらこうなるという感じ。
「食堂まで、案内するので」
僕の返事を待たないまま、その子はすたすたと廊下を先行していく。慌てて僕もその後を追った。
宿泊施設としての機能があるだけに、一般的な家よりも奥行きがあって廊下も長い。途中で見かけた幾つかの戸には浴室や洗面所と書かれた看板がぶら下がっていた。ジャージの子が何も説明してくれないので、各部屋の配置は自分で見て覚えろということだろうか。
そんなことを考えているうちに、食堂に着いた。中には純二さんが居て、ちょうど配膳をしているところだった。
「お待たせしました、澤口さん。
珠希と呼ばれた子どもがこくりと頷いて、純二さんの隣へ移動する。
「うちの子が失礼をしませんでしたか」
「ええと――」
ほんの一瞬、珠希少年が僕に鋭い視線を送ってきた気がした。
「――いいえ、全然そんなことはなかったです」
「それは良かった」
純二さんはそう言うと珠希少年の頭を撫でた。珠希少年は迷惑そうにしながらも、手を振り払ったりはせずに大人しくしている。ごく普通の、信頼関係のある親子だ。
そのごく普通を、僕はあまり直視しないように目を伏せる。
「食事にしましょうか。そちらの席にどうぞ。よければ旅の話を聞かせていただけると嬉しいです」
人当たりのいい笑みを浮かべて、純二さんは着席を促す。僕が座ったのを見てから、純二さんと珠希少年が慣れた様子で席に着いた。
食卓に並んだ料理はどれも手が込んでいた。特に山菜の煮物は味付けが絶妙で、数あるおかずの中でも真っ先になくなってしまった。こんな美味しいものを普段から食べているとしたら、ここの家庭で育った珠希少年はとても恵まれている。
「この料理は純二さんが作っているんですか?」
これまでの旅の経緯を当たり障りのない範囲で話した後、気になって僕は訊いた。
「全部ではないですよ。仕込みは妻がしているものがほとんどですし、この子が手伝ってくれたものもあります。野菜を切るのなんかは慣れたもので」
「父さん、やめて」
誇らしげに話す純二さんを、珠希少年が冷淡な声で遮った。
「俺が料理してること、余所の人に言わないで。恥ずかしいから」
「あ、ああ」
和やかな空気が途切れる。ややあって、場を繕うように純二さんが話しだした。
「そういえば澤口さんは大学生なんですよね。一人暮らしをされているんですか?」
「まぁ一応、下宿してます」
「春休みのうちにご実家に帰られたりは?」
「しません」
「……そうですか」
僕の即答に、純二さんは察した様子で言及をやめた。
純二さんが悪いわけじゃない。誰にでも振られたくない話題があって、それがたまたま僕の場合は実家の話だったというだけだ。どうしたって楽しい会話にはならないのだから、最初から拒否を示したほうがまだ暗くならなくて済む。
ごく普通の家族。恵まれた家庭。
僕にはそういうものが、妬ましくて仕方がない。
父のような人間が嫌いだった。
僕は物心ついた頃から、父の無様な姿を見ながら育った。父は勤め先での大失敗が原因で退職勧告を受け、その後は定職に就けず家族を養う力を失った。
それでも父は平気なようだった。能天気に職を転々として、非正規労働の賃金で家計を支えているつもりになっていた。だがその裏では母が切り詰めて生活費のやりくりをし、姉が日夜アルバイトに出ていたからこそ、家庭は壊れずに済んでいた。
生きていればなんとかなるさ、とよく父は口にしていた。生きてさえいれば苦しい日々の中にも喜びを見つけられるし、失敗しても巻き返しが図れる。人間万事塞翁が馬。良く言えばおおらかな人だった。
でも、そんな人に頼っていられるほど現実は甘くない。
初めに異変が訪れたのは姉だった。当時高校生だった姉は、唐突に停学を言い渡された。高校生にふさわしくない労働に従事している、というのが学校側の言い分だった。やむなく姉は停学を受け入れたが、結局は自主退学という形で高校を辞めさせられることになった。
次に母がパート先で倒れた。もともと身体が強いほうではなかった母は、以後過労による疾病と後遺症を抱えながら生活することになる。それでも在宅でできる仕事を続け、少しでも家計の足しになるようにと働き続けた。
僕も高校へ進学せずに就職しようと考えた。だが真っ先に反対したのが母だった。どんなに家計が火の車でも、母は僕に勉強の機会を失わせたくはないと繰り返し伝えた。現に姉は退学した後も仕事の合間を縫って通信制の学校に通わせてもらっている。それが将来のためになると思ってのことだと、母は言っていた。
一方で父は相変わらずだった。仕事のない日でもふらっとどこかへ出かけたり、外で酒を飲んだのか酔っ払った真っ赤な顔で帰ってきたりした。そんな父を介抱する母の悲しそうな顔を、僕は一生忘れない。
母にあんな表情をさせる父を、僕は憎んだ。元はといえば父が職を失ったのがすべての始まりだ。父がもっと必死に会社にしがみついていれば辞めさせられることもなかったかもしれない。退職しても何とかなるという楽観的な思考が、今の苦境を生んだのだ。
けれど何より僕を苛んだのは、そんな父でも血の繋がった家族だということ。何度見捨ててしまおうと考えても、親子の情とは鉄線のように硬くて断ち切れない。まるで鉄条網のごとく、僕から選択肢を奪い続ける。
高校三年の冬、僕は国立の理工学部を受験し、合格した。ほぼ満額に近い奨学金を借り、逃げるように一人暮らしを始めた。
その三年後。僕はまた、現実から逃げ出すことになる。
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