集中とか俯瞰とか
イヤホンで音楽を聴きながら、夕飯を食べるために食べ物屋さんに向かった。
曲が終わる前にお店の前に着いてしまった。
そのときかかっていたのが好きな曲だったので、最後まで聴きくためにお店の前を通り過ぎていくらか歩いた。
お店にたどり着くまでよりもお店を通り過ぎてからの方が、音楽が瑞々しく鼓膜に吸い込まれてくるように感じられた。
お店に着くまでの間にイヤホンから流れていた曲はあくまでもBGMでしかなかった。バックグラウンド、つまりは背景として、主張することを許されていなかった。
店を通り過ぎた後、歩くことは背景となって、反対に音楽が目的に成った。
やはり人間という生き物はそこまで器用ではないので、幾つもの事を同時にこなそうとすれば一つのことに集中しているときのようにはいかなくなってしまう。
人生そのものについても同じことが言えるように思う。
その日その日を生きるのに精一杯になってしまえば、生きることだけが目的になってしまって、楽しんで生きようという余裕は無くなってしまう。
逆に何か夢を成し遂げるためだけに精一杯になってしまっても、生きることがただの背景になってしまう。
どちらにしても、もう一方がなおざりになってしまえば幸せからは遠ざかってしまうように思う。
人間というのは、心と身体、どちらかだけでもダメになれば、もう一方もつられてダメになってしまう生き物だ。
視野を狭くして何かに没頭するのにはある種の中毒性を持った快楽のようなものが伴うもので、それに一旦魅せられてしまうと気づいたら心も身体もボロボロになってしまっていた、というようなことがよく起こる。
誰かが何かに夢中になっている様子というのも、見ているだけでそちらに引き寄せられてしまいそうなほどになんとも甘い匂いがするものだ。
若いうちはそういう香りが特に魅力的に感じられるし、そこに飛び込んでもしばらくやっていけるだけの体力や回復力があるために、何かに夢中になることこそが青春の宝だと思い込んでしまいがちである。
だけれども、いつまでもその毒に浸っていられるほど人間は丈夫にはできていないのであって、いつかは心も身体も蝕まれてしまう。
そういう中毒者達を煽らずに、適度なタイミングで引き上げてやったり、水をかけてやったりするのも、それらを経験した年長者の大事な義務の一つなのかもしれないと思う。きっと中毒者達からすれば随分な悪役にはなろうと思うけれど。
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