第43話 人格崩壊

 十月の第三日曜日。午前九時半頃に妻から電話があった。

「昼に会って話したい」

 そう告げる硬い声から、良い話でないことが何となく感じられた。

 前回と同じドーナツ屋で会うと、妻は周囲の目を気にしない様子で、

「娘に会わせないのは人権問題なんや!

 以前から、しかるべき機関に相談しているんや!

 担当者は市役所で場所を借りて話し合いの場を設けると言っているんや!」

 周りに聞こえる声で捲し立てた。

「会わせないわけではなく、週末は実家にいるから会いにきてほしいと以前から言ってあるやろ」

「私が会いやすい環境を用意していない! 実家は嫌なんや! 親の顔を見たくない!」

 お盆の謝罪は、すべて嘘だった。嘘で騙して騒ぎ立てることができる機関を探していただけで、やはりカウンセリングは陽動作戦でしかなかった。

 私と娘だけだと、また妻は娘が見ている前で大声を出す可能性がある。その形相を見て、また娘の挙動がおかしくなる恐れがあるため、「妹を入れて会おうか」と提案した。

「あの人は信用していない。私にメイちゃんが懐いていないと批判したから」

 嘘だ。そんなこと、妹から聞いていないし、批判する立場にもない。しかも、妹と会ったのは、妹に妻が謝りに行った時だ。謝りに来た人間に、批判の言葉を投げかける人間ではない。

「これは人権問題なんです!!」

 声を荒げるので、何度も静かに話すように頼んだ。

 しかるべき機関はどこかを聞いても、会話にはならない。

「しかるべき機関です!」

 そう居丈高に繰り返すだけだった。

 何度か尋ねた後に、ようやく法務局であることを明かした。間接的に話していてもどうにもならないので、法務局の担当者に直接連絡してもらうように伝え、腰を上げた。

「いつメイちゃんに会わせてくれるんや」

 店内でも構わず大声を出そうとする妻に、夕方五時に来るように伝えた。場所は公園を指定した。

 一度、自宅に戻り、すぐ妹に電話で確認する。

「懐いていないなんて言っていない。メイちゃんのお母さんに対する様子は知らないけど、これからは実家にも行って、義理の親が本当の親になるくらいの関係を作っていったほうがいいよとアドバイスはしたけど」

 完全に認識が歪んでいた。人の善意を悪意として受け取ってしまう人間だ。

 実家に帰り、両親と話して、義父母が一緒に来て、警察を呼んで大騒ぎになると困るから、何かあった時のために、両親には別の車でついてきてもらい、公園には妻と私と娘の三人で行く計画を立てた。

 五時に妻から「場所がわからない」と怒って電話がかかった。

「公園がどこかわからんのや!」

 繰り返し、怒鳴っていた。もう、完全に壊れていた。すべての演技をやめた本性が、これなのだろう。

 妻のいる場所を探して、私と娘が乗る車を妻の車の前に止めると、後ろほうに両親の車があることに気づいた妻から、恐ろしい剣幕で電話がかかった。

「なんや、あれは!何が来てるんや!

 なんで、こんなことをするんや!!

 こんなのが気持ち悪いんや!!!

 いい加減、親から離れろ!!」

 怒鳴り声を上げる妻は、もう尋常な人間であることをやめていた。自分は勤め先に父親に迎えに来てもらって、警察を呼んで大騒ぎした事実はどこへ行ったのだろう。

「あなたの親が来て、また警察沙汰になるのは困るから、来てもらっているだけで、公園までは来ない。公園へ行くから、ついてきて」

「どこへも行かん!

 ここで遊ぶんや!

 戻って来なさい!!」

 電話越しに大声を上げる。

 妻が道に迷っていた場所は中心市街地の大通りで、子供と遊べるような場所ではない。

「そんなところでは遊べないから、公園へ行く。そうじゃないなら、帰るよ」

「ここの道はわからんのや!」

 以前、結婚前に行ったレストランに行くように指示しても、無駄だった。

「そんな場所はわからない!」

 と大声でわめく。

 そのままUターンして戻って大通りの突き当たりで待つように伝えた。

「言われたところまで来たけど、駐車場がわからない!!」

 また、電話越しに大声でわめき立てる。

「子供じゃないんだから、少しは自分で判断しなさい」

 そう注意しても、わめき返すだけで、埒が明かない。

「まったく道がわからないんや!!」

 三十歳も半ばを過ぎた良い大人の発言とは思えない。どうしようもないから、車で向かい、直接止める場所を指示した。

 小学校のグラウンドの遊具で娘と妻が遊ぶのを見守っていた。夕日が沈み始める。暗くなってきたことを理由に、妻が娘を自分の車へ連れていこうとする。心配していた通りだった。

 レストランへ行くように話し、そこで閉店まで三十分遊んだ。

 店を出ると、それまでは、「また遊びにくるね」と言っていた妻が車に近づくにつれて、「メイちゃん、お母さんと帰ろうか」と誘い始めた。

「それは、あかんよ」と伝えると、「メイちゃんがうんって言ってるんや」と大声を出し始める。どうにもならず、その場で両親に電話して、近くで待機していた父に娘を連れて帰ってもらった。

 グラウンドの前の道で、妻は大声を上げた。人目も気にせず、わめき立てる。

「これは、人権問題です!!

 チョオー!テー!(調停)離婚です!

 このことワァ!、サイバンショで話します!!」

「カウンセリングを受けて、家に戻ってきて」冷静に伝えたが、人権問題であり離婚訴訟をすると、十分以上、大声で騒いで、私の腕を殴り、娘に持ってきた色鉛筆やお絵かき帳の袋を私に投げつけるなどして暴れた後で、妻は自分の車に乗り込んだ。

 すっかり暗くなり、道には人通りがなかったからいいが、よく警察を呼ばれなかったと思う。

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