第3話 三日月
「片倉小十郎景綱、参りましてございます」
平身低頭し、主の隣席を待つ。
ここは米沢城の表、謁見の間である。
庭を背に、姉の喜多が同じように頭を下げ、平伏している。そして板戸側の斜め後ろには、鬼庭綱元---。
居心地の悪さも頂点に達する頃、当主の輝宗が、小姓と共に姿を見せた。
上座の円座(わろうざ)に落ち着くと、小姓を下がらせ、喜多に短く、―人払いを---―と言う。
喜多は、黙したまま、廊下に面した障子を次々と閉ざす。
ひとあたり作業を終え、密室を確認したところで、輝宗が、おもむろに口を開く。
「面を上げよ。」
「は---」
小十郎は、あくまでも厳かに、主の命に従う。
その目に映った主の顔は---いささか複雑な表情を浮かべていた。
―報せたか---。―
いくら荒唐無稽に思えても、主に真実を隠すわけにはいかなかった---らしい。視界の端にいる喜多の顔は、心なしかやつれて青ざめていた。
「先のこと---大儀であった。」
輝宗は静かに言った。
「褒美を取らせねばならぬな。」
「有り難く勿体なき仰せなれど---それには及びませぬ。」
小十郎は、再び、おもむろに頭を下げ、続けた。
「某は、何も致しておりませぬゆえ---」
笛を一曲、奏しただけだ。それ以外には何もしていない。
輝宗は、じっ---と、眼前で平伏している若者を見た。
喜多から、事の顛末は聞き知っている。自分の世嗣ぎの身に龍が宿りした---と言われても、にわかには信じ難かった。が、首の付け根に残った鱗のようなもの---そして、その所作と言動に、昨日までの少年のそれとは違った、何か得体の知れない『変容』を感じとっていた。
この男はそれについて、一切語ろうとしなかった。いや、再び顔を上げたその視線は、「語ル ベカラズ」と言っているようでもあった。
―秘事である―という意識は、祝(はふり)である小十郎の方が強い。相手は未知なるモノである。畏敬と警戒は必須だ---と小十郎は知っている。
「そうか---」と輝宗は小さく頷いた。
「だが、あれより梵天丸は、少々塞いでいてのぅ---」
いきなり片目を失ったのだ、無理はない---と小十郎は心の中で呟いた。
「そなたの笛が聞きたいとて、しばしば、喜多を困らせてのぅ---」
龍が求めているのか、少年自身が求めているのか、何れにせよ、無役の身分の低い小十郎が、おいそれと世子の側に上がるわけにはいかない。姉が乳母であったとしても---だ。
輝宗も、これには困った。それゆえの今日の召し出しであった。
「その方に、梵天丸の近習として仕えて欲しい」
輝宗は、率直に言った。
「当面は、鬼庭を傅役とするが---然るべき時に、そなたの力が借りたい。」
「は---」
然るべき時---が何を意味するか、は小十郎には解っていた。つまり、尋常でない時---がままあるのだろう、と小十郎は思った。小十郎はある意味『経験者』なのだ。推して知るべし---である。
そこで、綱元がおもむろに口を開いた。
「言っておくが、傅役に付くのは、わしではない。父上だ。」
ぐ---と小十郎は言葉を詰まらせた。己のが母を離縁した男---が、罪滅ぼしに父代わりになろうというのか---と。いや、それ以上に、鬼庭左月は伊達家の重臣である。職務は多忙である。つまりは---
―任せる―
と言われたようなものだ。
小十郎の困惑を察しているらしく、綱元が、しれっと言った。
「わしも、手を貸しても良い。」
―逃げるな---―
という、いわば脅迫のようなものだった。
「しかしながら---」と小十郎が言いかけた時、パタパタパタ---と小さな足音が走ってきて、なんの前振れもなく、からり---と障子が開いた。
「喜多、喜多、何処におる。我れが呼んでおるのに---」
あの少年だった。右目に巻かれた包帯が痛々しい。心なしか、あの時より癇性が強くなったような気がする。表情が暗い。
―無理もないか---―
平伏して、心の中で呟く小十郎の頭上で、喜多が優しく少年を諭す声が聞こえた。
「梵天丸さま、喜多は何処にも行きませぬよ。それより、梵天丸さまが、聞きたがっていた笛の主が参りましたゆえ、後で一曲、奏していただきましょう。梵天丸さまのお部屋で---ね。」
「わかった。」
少年が短く答えた。キレイな声をしている---が何か曇り気味な印象は、その気分が沈んでいるからだろう。
「その方、名はなんという?」
小十郎の間近まで近寄ってきて、顔を覗き込むようにして、少年は訊いた。
「我れは梵天丸じゃ。そなたの名は---?」
利発な子だ---と小十郎は思った。
「片倉小十郎景綱---と。」
小十郎は、つ---と少年の方に身を向け、お辞儀をした。
「こじゅうろう---か。」
少年は口の中で、その名を反芻すると、当主の輝宗の方にくるり---と向き直った。
「父上、この者を梵天にくだされ。」
は----??
と小十郎が思う間もなく、輝宗がにこやかに応えた。
「良かろう。いずれ---な。」
「いずれ、とは何時じゃ。」
少年の問いに、父である当主は、少し考える素振りをして、答えた。
「学問を嫌がらなくなったらな。」
「我れは嫌がってなどおらぬ。」
口を尖らせる少年に、当主は、少し笑って言った。
「これ、宗乙の目を盗んで、逃げてきたのであろうが---」
言われて、少年は顔を真っ赤にして、返した。
「購読はひとりではつまらぬ。誰ぞ、一緒に読んでくれるものを探していただけじゃ。」
「ならば、この小十郎をお連れなさいまし---」
喜多が、ころころと笑って言った。
―げっ---―
―姉上、何ということを---―
反駁する間もなく、少年の小さな頭がこくりと頷き、小さな手が、小十郎の藍色の直垂の袖を掴んだ。
「行こう。」
この状況で、その小さな手を振り切れる訳もなく、小十郎は仕方なしに、当主に一礼して立ち上がった。
小さな手に引かれて、しぶしぶと廊下に出る背中に綱元の声が飛んだ。
「かの名僧、虎哉宗乙の教えを受けられるんだ。しっかりお供いたせよ。」
してやられた---とは思いはするものの、必死なくらい小十郎の袖を握りしめている少年の小さな手を振り切れるわけもなく---観念するしかない小十郎の傍らで、チチチ---と小鳥が嘴を震わせていた。
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