第39話 最後の皇帝
呉の最後の皇帝、孫晧は堂々とした様子で身体に縄を縛り付け、棺桶を用意し、降伏の儀を行い、建業に一番乗りをした晋の将軍、王濬を出迎える。王濬は孫晧のあまりに堂々とし、麗しく華美な姿に思わずひれ伏してしまう。生まれながらの王族である孫晧は臣下からなり上がったものとの格の違いを見せつける。どちらが降伏しているのかわからないと言った戸惑う様子を見せながら、王濬は彼の縄を解き、棺桶を処分させた。その陰から孫尚香はこの呉の終焉を見届けるべく、唇を噛み、涙をこらえ、印綬が晋の国の者にわたるのを見続ける。
これから孫晧は一族と共に晋の都、洛陽へと連行されることになった。孫晧は建業を離れる前に建初寺に訪れ、病身の康僧会を参りたいと王濬に頼んだ。王濬は快く承知し、彼の最後の願いであろうと十分な時間を与えた。
横たわる康僧会の側には孫尚香が佇み静かに見守っている。
「ああ陛下。いらしてくださったのですか」
起き上がろうとする康僧会に孫晧は、そっと制し「そのままでよい。無理をするな」と、再度横たわらせる。
「朕は洛陽に参る」
「そうですか。最後にお目にかかれて良かった。どうぞお体を労わってください」
思うことがいろいろあっただろうがすべてが終わった後、康僧会には何も言うべきことはなかった。
康僧会がすっと眠りについたので、尚香はそっと目配せし、孫晧を外へと促した。掃き清められ、こざっぱりとした庭を少し歩きながら、二人は明るく斬新な建築である建初寺を眺める。
「まさかそなたが呉を終わらせるとはな」
「これは天意でしょう」
「……」
「呉は、もう終わっていました。おじい様が、大帝(孫権)がおばあ様の夫、陸大都督と離れてしまったときに」
「陸抗はその主と臣下の分裂をなんとか回復したいと願っていたようじゃが」
「ええ、彼は私の兄のようでしたな。陸晏は陸景は弟のようであったし。それなのに死なせてしまいました……」
陸晏は陸景は晋が攻めてきた時に破れ殺害された。
「それは仕方ない。誰も恨みはすまいて」
「私は後世に汚名を残すでしょう。しかしそんなことよりも因果応報を知りたいのです。私は良きことも悪しきこともしました。どのような死に方をするでしょうか。非業の死を遂げるのか、それとも」
「死に方か……」
父、孫堅、兄、孫策も非業の死を遂げたといえようが、確かに彼らは奸雄とは呼ばれていない。曹操は乱世の奸雄と呼ばれたが天寿を全うしている。
「本当に死の先に極楽などあるのでしょうか? 来世や輪廻などないかもしれない。死ねば無になるのではないでしょうか」
「それは死んでみないとわからぬな」
「私はそれを知りたいのです。善良な民が虫けらのように死に、悪名高いものが天寿を全うする――」
「すまない。古い人間なのであろうわたしにはわからない」
「おばあ様。これだけは知っておいて欲しい。おばあ様は間違っておりません。あなたの天命は人を開眼させることでした。私はおかげで目覚め、仏のようにやるべきことが分かったのです」
「……。後悔はせぬのか」
「勿論しません。これから晋に向かうことはまた新たな旅なのです。ご先祖様には申し訳ないですが、もう国にも血筋にも生まれにも縛られるつもりはありません。きっと晋の皇帝、司馬炎も私の気持ちがわかるでしょう。一族の末裔には責務と重荷がのしかかっています。私は晋に行って司馬炎がそれに苦しんでいるなら救ってあげたいと思っています」
尚香には孫晧が何を言っているか、もう理解はできなかった。それでも彼は今、後悔もなく、満ち足りているのだと知る。
「もうこれきりだと思いますが、お元気で」
「うん。わたしはここでそなたの事を祈っておる」
ふっと笑んだ孫晧は、まるで赤子が初めて見せる笑顔のように、無垢で清らかでそして不思議なものであった。立派な孫晧の後姿は夕日の中に吸い込まれていく。それを消えるまで尚香は見続けた。
孫晧は『天発神讖碑』を立てた国山である歴陽山を眺める。
「ずっと先の、後世のものが見つけるとどう思うであろうか。『天発神讖碑』で大騒ぎする輩がいると思うと愉快である。魏王(曹操)も『滾雪』を『袞雪』として残し人を惑わせようとしたのであろうな。ふふふっ」
中華を統一したわけでもない孫晧は、強引に封禅の儀式を行い、自分が天命を受けた真の皇帝であり、呉の国が仏教でいうところの涅槃であると『天発神讖碑』へ書き記す。あることないことを神秘的に呪術的に表した。孫晧の後世に残す遊びの一つだった。
「さて、司馬炎にも面白いことを教えてやらねばな。はははっ」
国を滅亡させた悲哀などまるで感じさせない、明るい狂気を感じさせる目つきで孫晧は声を立てて笑った。
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