第35話 身を屈して恥を忍び、才に任せる
部屋の前では見たことのある風貌の文官が控えている。
「そ、そなたは諸葛瑾……。いや……」
文官は立ち上がると思ったより背が高く巨漢で「瑾の息子、恪でございます。姫様」とにやりと笑む。
「ああ、恪であるか、しかし姫はよせ。立派になられて子瑜殿もご安心じゃな」
頭を垂る、つかみどころのないこの諸葛格に少し不安を覚えるが陸抗の「陛下に母が参ったと伝えて頂けますでしょうか、諸葛大将軍」との声に、ハッとし、諸葛恪から気を逸らした。
諸葛格は静かに部屋に入り、またすぐに出て「参れとのことです」と伝えた後その場で座した。
幕をくぐり、尚香から部屋に入ると孫権が頭に白い鉢巻を巻き付け青白い顔を見せた。長身で豪華であった風貌は今ややつれ、骨格の良さが逆にがらんどうになった廃墟のようである。
「兄上!」
「尚香。よく戻ったな」
駆け寄った尚香の手を握り、にこりと笑む孫権は久しぶりに嬉しそうだと陸抗は温かい気持ちになる。先ほど感じた己と同じ思いであろうと孫権を見る。陸抗にとって父を死に追いやった孫権は憎むべき相手ではあるが、なぜか憎み切れず仕えている。陸遜もまた恨み言一つ言わず亡くなり、そのすぐあと尚香は剣を持ち出し庭先で振り回しさんざ暴れたが孫権への言及はなかった。
陸遜の死後、孫権は陸抗に全面の信頼を寄せ、何かあるたびに陸遜のことを詫びた。
兄妹の睦まじい姿を見て、陸抗は遠慮し、席を立つことにした。
「陛下。母上。私はこれにて失礼いたします。もう数日で駐屯地の柴桑に戻ります」
「なんと、もうもどるのか、幼節よ。どうか朕を許してほしい。讒言(ざんげん)を信じ、伯言を疑ったことを。本当に愚かであった」
孫権はハラハラと涙をこぼす。老いのせいか、彼は陸抗に会えばこのように涙を流し詫びるのである。
「いえ、陛下。もうそのことは……。これからも粉骨砕身お仕えいたします」
「ああ、ああ、幼節よ。ありがとうありがとう」
陸抗はもうこれで生きて会うのは最後かもしれぬと、孫権の表情をしかと胸に焼き付けた。外に出ると諸葛恪がじっと空を見ている。
「私はこれで失礼致します」
「んん? ああ、そうか。幼節、柴桑を頼むよ。ところで姪はどうかね」
「はい。気が良くききますね」
陸抗の妻は張昭の息子であり、諸葛瑾の親友でもあった張承の娘であり、また諸葛恪の姪にあたる。
「そうであろう、そうであろう」
満足そうな諸葛恪を後にし、陸抗は秘かにため息をつく。
妻は長家と諸葛家の血筋を受け継ぎ、その知性はやはり高く、思ったことを先回りし、こちらが言わんとすることもさっと口に出す女人であった。陸抗は物静かで、大人しく口数が少ないためか、妻はああでもないこうでもないと一日中使用人に指図している。悪い妻ではないが、家柄を鼻にかけ、更には諸葛瑾よりも諸葛亮を尊敬している節がある。諸葛瑾を父に持つ諸葛恪にはとても言えぬ話である。跡継ぎを早々に産んだ妻には感謝するが、陸抗はどうしても心から彼女を愛することが出来なかった。
「父上は幸せなお人であったことよ」
亡き父と若き日の母の姿を偲ぶ。二人はよく剣を交えていた。勿論、父は手加減をしていたが、更に油断し、母に喉元をつかれたときであった。
「このまま刺殺されても文句は言わぬ。寧ろ殺される相手がそなたであればそれより幸せなことはなかろう」
「ふんっ!」
恥じらいつつ、母は剣を下げる。
二人の睦まじい姿を見て育った陸抗は、それがそのまま理想の夫婦像となる。生真面目な陸抗は妻とのすれ違いを感じながらも文句ひとつ言わず、妾も持たなかった。ただたまに父と母の剣を交えて睦み合う姿を思い返していた。
孫権と尚香が二人きりになると孫権はさらに表情を和らげる。
「そなたは良い息子を持ったな」
「ええ。身勝手なわたしのではなく夫の血を良く受け継いでいます」
「そうか……」
陸遜の事を思うたびに孫権は後悔の念に駆られているのであろう。劉備を失った時には尚香は激しい憤りを感じ喪失感を得た。そして陸遜を亡くした時にはまるで自分の半分を失くしたような気になった。それでも陸遜の最後の『行く末を見てほしい』との言葉を彼自身のように胸に抱き、彼と共に生きているつもりである。
「そなたが妹ではなく、せめて姉ならば、孫策兄が死んだとき家督をそなたに譲れたのだがな」
「兄上、お戯れを」
「いやいや。本心だ。曹操とも劉備とも対等であったのはこの呉ではお前であった。そのことに気づくのが遅かった。諸葛亮はとっくに気づいていたようだが」
「孔明殿が?」
「ああ、そなたをここへ呼び戻したのは母上が嫁いだ先を攻めてはならぬとのお達し故、公瑾と相談して一計を案じて連れ戻したわけであるが」
「……」
済んだこととはいえ、さすがに当時の状況を思うと劉備との仲を引き裂いた、周瑜と孫権に憤りを感じる。
「済まぬ」
「いえ……。どうぞ続きを」
「何度か帰る様に文は出しておったのだ。母上が寂しがってはいたのでな。しかし一向に返事がこぬ。探らせてみると文は全て諸葛亮の手に渡り、うち破られていたのだ」
「まさか……」
「いいや、本当の事だ。そなたを取り戻し、呂蒙を教育させてよく分かった。諸葛亮がそなたをとても怖れていたことを。諸葛瑾も言っておった。『尚香様を孔明は手放さぬでしょう』とな」
「はあ……。わたしが何をできたでしょうか。玄徳様の妻であった時も政に、孫呉に関与することもありませんでしたし……」
「ああ、そうであろうな。しかしもしも、もしもだぞ? 劉備が倒れてそなたが妻であれば、おそらく諸葛亮はそなたを劉禅の補佐役とさせたであろうな」
「阿斗……」
「そうなれば呉にとっての脅威であっただろう」
「兄上、心配が過ぎます」
「いや。そなたがもしも野心があり、陸遜を焚きつけて政変をおこし、朕を倒せば、瞬く間に陸遜が皇帝であったろう」
「夫はそのような者ではありません」
「ああ、わかっている。だがそうなっても良かったのかもしれぬと思うこともある」
「もうよしましょう。もしもの話は。意味がありません」
「ん。済まぬ。この歳になってやっと己を振り返ることが出来るのだ。愚かであった己を……」
再び涙を流し始めた孫権にもはや過去の威光は見当たらず、尚香も悲しくなる。
「もう、お休みください。身体に障ります」
「いや。今日はとことん話したい。そなたの顔を見ると元気が湧いてきた。どうだ。今まで見てきたことを話して聞かせてはくれまいか。そなたほどこの三国を見聞きした者もなかなかおるまい」
「そうですね……」
蜀の状況を風俗も含めて話し出すと、孫権は碧い目を輝かせ聞き入る。昔からそうであった。彼は自ら新しい冒険をすることはないが人の冒険譚を聞くことが好きであった。話している間、それはおかしいとか、信じられぬなどと、どのような話にも否定することなく最後まで聞く。その性質が陸遜への讒言を受け入れてしまった要因かもしれない。しかし新しい教えをすんなり受け入れられる度量があるのも確かである。あらかた話し終え、孫権は満足そうな表情を見せ、同時に考え込む様子を見せる。
「それで、尚香よ。呉、存続のためにはどうすればよいであろうか。存続の意味はあるのであろうか」
「呉には蜀にも魏にも劣らぬものがあります」
「なんだ」
「儒教に縛られていないことであり、潔癖過ぎない懐の深さでしょう」
「ふむ。なるほど、さすがは我が妹よ。ああそなたが戻ってくれて朕は安心である。よければ孫たちの教育をしてほしい」
「孫ですか……。そういえば孫晧はどのような子です? 僧会殿のところで見かけましたが」
「ああ、孫晧はよいぞ。あれは心が優しくいつも世の中を憂いておる。僧会も見所があると言っておったな」
「そうですかではわたしはもうここに留まり、善き国造りに補佐したいと存じます」
「うん。うん。今日はここちよく眠れそうじゃ……」
うつらうつらし始める孫権に、尚香は「ではそろそろ」と頭を下げ部屋を出た。
――孫権は夢の中で長江を眺めている。雄大な眺めを飽きることなく見つめていると後ろから声を掛けるものがある。
「権、権よ」
振り向くと父の孫堅と兄の孫策が立っていた。二人とも年老いていて白髪頭になり、しわは深い。不思議がっていると孫策が「とうとう父上が天下を平定なさったのだ」と誇らしそうに孫権の両肩に手を置く。
「え? 父上が?」
「そうだ。劉備も曹操も打ち破り、わしの配下になっておる」
「そ、そうなのですか!」
「うむ。これからも孫家でこの天下を守っていくぞ」
「はいっ!」
孫堅が呉の初代皇帝となり、次は兄の孫策が継ぐであろう。孫権はまばゆい二人を眺め心から良かったと思う。
「さて、即位の即位の準備をせねば」
「あ、父上、兄上、お待ちください。私もお手伝いします」
「頼むぞ」
豪快な笑い声が響き、その背を見ながら懸命について行くうちに孫権も眩しい光の中に溶け込む様に永遠の眠りにつく。孫権は短命な孫家の中で70歳の天寿を全うした。
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