第33話 蜀の落日
諸葛亮の死後、彼の後継者たちが蜀を安定させ、栄えさせようと奮闘するが、国力を上げたい、蒋エン・費イ・董允と魏を倒したい北伐派の姜維の対立により、国は不安定な状態であった。
劉禅はそれでも間を取り持ち、先帝劉備や、相父、諸葛亮の教えを忠実に守り、また諸葛亮の腹心であった董允による厳しい教育により節度ある治世を敷いていた。
しかし董允が亡きあと、宦官黄皓が劉禅の寵愛を受け、朝廷に権力を持ち始める。黄皓はまだ諸葛亮の存命中から幼い劉禅の世話役として仕えていた。黄皓は野心を隠し、じっくりと劉禅の心を得ていった。次期皇帝という立場であるため、非常に厳しく教育され育てられた劉禅にとって、黄皓の慰めや励ましは心地よいものであった。
義理の母である穆皇太后になった(呉氏)も優しかったが、何分控えめすぎる彼女は、劉禅に大きな影響を与えることはなかった。劉禅の覚えている母親という存在は、力強く、情の深かった孫尚香がかろうじて残っている。父帝として存在した劉備はやはり父親で、今の彼にとって宦官の黄皓が母親的存在である。
黄皓が政に口を挟み始めた頃には、董允はもちろんの事、重臣であった費イを魏から下ってきた郭循に殺され、姜維は北伐のさなかにあり、誰も諫めるものがなかった。
こうして蜀は内部から蝕まれ、快傑も現れず終焉を待つばかりであった。
黄皓が蜀の実権を掌握したのち、姜維がまた北伐を進め魏に攻め込むが、鄧艾に撃退されされてしまう。そこで黄皓は軍権を取り上げようとする。
姜維は強い抵抗を見せ、劉禅に直訴する。
「陛下。このままではもう蜀は魏に攻め込まれてしまいます。国をあげて魏に抵抗せねば、蜀は、民は、どうなってしまうか」
「姜維よ。それは真か? 黄皓はそのようなことはなく、このまま穏やかに国が存在すると言っておったぞ」
「! そのような戯言を信じめさるのか! 陛下、どうか目を覚ましてください! 黄皓はただの佞臣で私腹を肥やしておるばかりなのです」
「うーん。黄皓は私財をなげうって朕が不自由ないように仕えてくれておる。寧ろそなたが無理な北伐で国財を減らしておると聞いているが」
「くっ! 陛下は、先帝や丞相の教えをお忘れなのですか!」
姜維の熱弁にたじたじになっているところへ余裕を見せる黄皓が現れる。
「姜維よ。皇帝陛下に対して何という暴言を吐かれるのか。蜀漢が起こって40年、諸葛殿がなくなって27年。この間に魏では何人皇帝が変わり政変が起きているか。この治世は陛下の賜物なのですぞ!」
黄皓の心地よい言葉を聞きながら劉禅は自尊心が満たされる。姜維がなにやら懸命に訴えていたが、もう劉禅の耳には入っておらず、後で黄皓と飲む美酒の事を考えていた。
相容れない黄皓に姜維は歯ぎしりし、退去する。黄皓はふんっと彼の長身で逞しく、麗しい後ろ姿に嫉妬し、心の中で『ざまあみろ』と叫んでいた。
貧しい農村で生まれた黄皓は代々「天水の四姓」と呼ばれる豪族の姜氏である生まれと男らしいが麗しい容姿に憎しみを覚える。
黄皓含む、兄弟たち皆貧しさに耐えられず、貧弱な体格により兵ではなく宦官を目指すが、男根を取り除いたのちに、皆、死に絶え、残ったのは黄皓のみであった。生きること、食べることのために選んだ宦官の道は男としての自尊心を打ち砕き、またそれがしぶとさにもなった。
富める者たちの戦いにより、貧しきものはより貧しくなる。姜維の北伐はまさに財政を無駄に食いつぶすものとして特に憎しみの対象となっていく。
今夜も貯め込んだ金銀、宝石、絹織物を眺め安心感を得る。
「これだけあれば、今何かあっても生き延びることが出来よう」
家族もおらず彼にとって財産だけが安らぎであった。
柳氏は久しぶりに戻った夫、姜維がいつも以上にやつれているのを見かねて声を掛ける。
「あなた。何があったのですか?」
「もう蜀はだめだ。宦官のものになってしまった。漢王朝を貪った十常侍とおなじだ!」
老いてなお、美丈夫である姜維は陰りのある表情ですら美しく、柳氏はまるで時間が止まったように彼の横顔を見つめ続ける。
柳氏は世の中がどうなっているか、これからどうなるか予想もつかないが、この美しい夫の側を終生離れることはないと信じている。彼女の思う通り、蜀の滅亡後、姜維と鍾会の反乱で彼と共に命を落とす。その際も姜維の美しい死に顔に見惚れながら、互いの流れる血潮が交わり一つの川になったのを確認して目を閉じた。
司馬昭により派遣された鄧艾・鍾会・諸葛緒らはそれぞれ三面から蜀を攻める。諸葛亮の子、諸葛瞻が鄧艾に破れたことで劉禅は降伏する。剣閣を守っていた姜維は劉禅の降伏を聞き、戦っていた鍾会に降伏した。こうして蜀は滅亡する。
姜維の北伐を幾度となく防いでいた鄧艾は魏の忠臣で優れた武勇に知性と仁義を兼ね備えた好人物であった。吃音のせいで彼はうまく知性を生かせず、出世は遅かったが司馬懿にその才を買われ日の目を見ることになる。その恩を生涯忘れず鄧艾は魏に尽くしてきた。劉禅の寵愛を受け、この蜀滅亡の片棒を担いだ宦官、黄皓の話を聞き、生かしては置けぬと黄皓を連行するように部下に伝える。
黄皓は鄧艾が己を殺すつもりであろうとよみ、慌てて財産をかき集め、鄧艾の使いである側近にそれらを贈る。
「どうでしょう。これで鄧将軍に取り成してもらえないでしょうか? 将軍は誤解しておられます。わたしのような老いた力のない
宦官一人でどうしてこの国の行く末を傾けさせることができましょうか」
「んん? ふーむ。そうよなあ」
「なにとぞ良しなに」
「よしよし、今日のところはわしが将軍にうまく話をつけてやろう。しかし明日はそなたを将軍の前に連れて行かねばならぬぞ」
「ははー。御意にございます」
鄧艾の使いが帰ると黄皓は即座に着物を脱ぎ、粗末なものに着替え、残してあった宝玉を懐に詰め込み、急ぎ屋敷を出る。
「これだけあれば、どこででもなんとかなるであろう」
表に出ると、四方八方に魏の軍人がうろついている。なんとかその目を掻い潜り、人気のないところ人気のないところを歩いていると、細く険しい道に出た。
「ここは? 剣閣か」
ここで激しい戦があったことなど感じさせないほどの険しく細い剣閣は静かに黄皓を通す。
「ここなら、早々に追ってこれまいて」
しめしめとほくそ笑み、この陰気な道を早く抜けようと駆けだしたときである。目にきらりと光が入ったかと思うと躓き、倒れ込んだ。右手首がやけに熱いと感じ、見ると手首から先がなくなっていた。
「ひいっ!!」
大きな岩に何本も剣が刺さり、折れた剣先があちこちに散らばっている。姜維と部下たちが劉禅降伏の話を聞き、剣を折った場所であった。
「こ、これは!」
そうこうしているうちにすっぱりと斬れてしまった手首から、血潮がどんどんあふれ、黄皓の目が霞みだす。
「い、いかん!」
ぼんやりとする頭でとにかく血を止めようと手首を押さえ、身を隠せる場所を探す。
「あ、あ、そこ、だ」
ふらふらと岩の窪みに身体をはめ込み、身体を小さくする。
「う、ううっ、さ、寒い」
身体はガタガタ震え、目の前が霞み始める。
「何か、食わねば」
懐には宝玉しかなかった。
「う、う、わしは農民であった。宝玉など食えもせぬのに……」
そう呟きながらも、誰にも渡しはしないと宝玉を目一杯口に詰め、彼は息絶えた。いまでも黄皓は宝玉を体内に残し、岩の間に挟まり続けている。
魏に降伏した次の年、劉禅は成都から洛陽に移され劉備玄徳の出身地でもあり、中山靖王劉勝の子の劉貞からの土地である幽州の安楽県にて安楽公に封じられる。
先日の洛陽の宴の席で劉禅は司馬昭から「蜀を思い出しませぬか?」と尋ねられ「ここはとても楽しく、蜀のことなど忘れてしまいました」と答えた。
忠臣も皇后も嘆き、また尋ねた司馬昭でさえも呆れ、何とも言えぬ表情をしていた。
劉禅は己を恥じ、先帝と相国、先祖に詫びるがそれでも命があることが大事であると思っている。
劉備は戦いに明け暮れ、妻も、子も何度もなくし、そして残ったのがこの最も跡継ぎとしてふさわしくない自分なのだ。先帝の無念を果たせる器もなく、武力も知力も、また関羽、張飛、趙雲、諸葛亮のような人物に恵まれる人徳もない。
「すみません。朕には何もないのです。命を、先祖の血筋を残すことしかできないのです」
無力な彼は義理の母、孫尚香の教えを思い出す。
――2歳の頃、孫尚香はやってきて何年かしか側に居なかったが劉禅に色々な知恵を授けてくれた。武芸も習ったが彼には向かなかった。
「孫のかあさま。わたしは戦いが好きではありません」
「阿斗よ。そなたが望まないのは分かるが、玄徳殿の子として生まれた以上、戦は避けては通れぬ」
「……。こわい、こわい。剣とか、弓とかささると痛いでしょう? 血が出るでしょう?」
泣きながら幼い劉禅は孫尚香に訴えかける。
「阿斗よ。もしも、もしもですよ。大人になってもまだ怖くてたまらなくなったら――弱く、何も分からぬ振りをするのです」
「どういうことですか? かあさま」
「早く死ぬものは――強くて、賢いものなのだ」
劉禅は暗くなっていた表情に明るい光が差したような笑顔を見せる。
「わかりました! かあさま!」
そんな彼を孫尚香は慈愛と悲哀の目で見つめ続けた。
後世のものが自分を暗君と呼ぶのは分かっている。劉備の息子であるという圧力から宦官である黄皓の佞言と酒に逃げ、現実に立ち向かうこともなかった。逃げ惑う事しかできず、言われるままに娶り、世継ぎを残した。しかし子らの中にはこの劉禅の降伏に絶望し、自害して果てたものもいる。残った子らに劉備の意志を受け継ぐ者がいるようにと願うことしかできなかった。
母の愛を知らず生まれながら孤独であった劉禅は、それでも劉備ができなかった、多くの世継ぎを残し、血脈を繋げていた。それから10年近く何事にも巻き込まれず、劉禅は65歳の生涯を閉じる。その懐には何度も読み返し、襤褸になった諸葛亮の『出師表』が大事にしまわれていた。
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