第13話 劉備の恋

 父の弔い合戦という名目で徐州を攻め入らんとする曹操に対し陶謙は謝罪をのべるが頑として聞き入れてもらえず、戦は必須だった。

豊かな実りの多いこの徐州を奪わんと、何万もの大群で押し寄せた曹操は白装束の陶謙に投降する猶予を二日ほど与え陣を敷いた。


 陶謙は袁紹、袁術、公孫サンに援軍を求めたが断られてしまう。しかし劉備だけは徐州を救おうと自分のわずかな兵で出兵しようとする。公孫サンは引き留めるが、曹操の弔い合戦という名目の略奪を許すことが出来ず、頑として聞かない。そこで公孫サンは自分の3千の兵を与えようとした。


「いや、いまここから3千の兵力がそがれると伯珪が心配だ」

「しかしなあ、玄徳よ」


 袁紹と対立中である公孫サンを案じ、玄徳は遠慮した。そこへ趙雲が現れ公孫サンに自分が劉備軍の助太刀をしたいと申しでる。


「おお、子龍。そなたが玄徳に同行してくれたら確かに安心ではあるな」

「子龍殿が来てくれるのか。それは頼もしい。では彼をお借りいたします」


 こうして趙雲が劉備軍に加わり徐州へと向かうこととなった。礼儀正しい彼は関羽と張飛に挨拶をする。


「趙子龍と申す。お二方の功名は常々聞いております」

「ふむ。なかなか立派なよい武人だな」

「うむ。俺もそう思う」


 関羽と張飛にも良い印象を与えたようで趙雲は劉備軍に溶け込んでいった。そして二人には敵わないと思うが、是非先鋒を切り二人に武力を認めてもらいたいと申し出る。すると更に関羽と張飛は気分を良くし、とくと拝見しようと趙雲の希望通りになった。

 勿論言葉通りの気持ちもあるが趙雲には何よりも劉備に認めてもらいたい渇望がある。もうすでに劉備のためなら命をかけてもよいと思うのだった。


 いよいよ曹操の城攻めという時に劉備軍が現れ、趙雲をはじめとする関羽、張飛の活躍により被害は甚大となる。


「おのれっ。劉備っ。忌々しい! それにしてもなんだあの趙雲というものは敵ながらなんと立派な武人であることよ」


 口惜しさに歯ぎしりをしつつもこれ以上兵力をそげないと判断し曹操は撤退する。


 徐州牧である陶謙は曹操の撤退と玄徳の援軍にたいそう驚き、感動していた。劉備は陶謙の白髪頭と白装束を見、やはり自分は間違っていなかったと知る。そしこの老い先短い陶謙から強引に奪い取ろうとした曹操に、父の仇とは言えども少しの恩情のなさに自分とは相いれないものを感じていた。

陶謙は弱々しい様子で玄徳に深々と頭を下げ礼をのべる。


「玄徳殿、あなたはまさに忠義のお人よ。ああ。あなたであれば、あなたであれば」

「陶殿、どうか頭をあげてください。私は私の正しいと思うところによって馳せ参じました。それだけなのです」

「いやはや、なんと立派なお方であることか。わしは自分の不徳とするところを恥じ入るばかりです」


 陶謙は劉備に感激し、盛大な宴を催すことにした。曹操が攻めてくるといけませんと劉備は遠慮したがどうしてもときかぬ陶謙を振り払うことが出来ず、その晩だけとの約束で宴を催されることになった。

 徐州ではまるで長い冬が終わり春が来たかのような明るくにぎやかな宴が設けられる。極上の酒が振舞われ、新鮮な肉と野菜が並び美女たちが舞い歌うのであった。

劉備は長い戦乱と放浪ともともとの慎ましい生活ぶりのため、このような宴席は初めてであった。

上機嫌で張飛は遠慮なく酒を飲み気分を良くしている。関羽もいつものしかめっ面から相好を崩し、髭を撫でながら舞を愉しんでいる。

「兄者、このようなもてなしを受けるのは初めてでございますなあ」

「うむ。このようなもてなしを望んでいたわけではないがなんと素晴らしいものであるな」

 劉備は初めての極楽のようなもてなしに、夢を見ているような気がしていたが、本来慎ましい質故、溺れることもなく静かに酒を飲み舞を楽しんでいた。そんな崩れない清らかな劉備を目の当たりにし、陶謙はますます心酔していくのであった。


「ああ、よく飲んだ。小便小便」


 張飛は屋敷を出て厠に行かず外に小便をしに出た。酔って火照った体に夜風が心地よい。案外気の小さい張飛は周りに人がいないことを確かめ、堀に勢いよく放尿するとすっきりした面持ちでまた屋敷の方へ戻ろうとした。

大きな木の陰に何かが揺らめきおもわず「なんだあ?」と声をあげると「これは、翼徳殿」と声を掛けるものがあった。


「んんー? 子龍じゃないか? 何をしてるんだこんなところで。一緒に中で呑もうや」


今日の趙雲の活躍を張飛は思い出し、すっかりご機嫌で肩を叩く。

無口な趙雲に張飛はすっかりなじんだ旧友のように「今日の先鋒を切った時の名乗りはとても良かったなっ!」と親し気に褒め称える。


「ありがとうございます」

「んんんー? なんだよっ、しけた面しやがって。おめえが一番の功労者なのにどうしたっていうんだ。兄者だっておめえのことすごく気に入ってるしなあ」

「え? 玄徳殿が、わたしを?」

「んん? 俺も雲長兄貴だってお前なら俺たちと兄弟になれるだろうって話をしてたところだ」

「あなたたちの兄弟に……。なんとありがたい」


 勝利の宴の中で一番の功労者である趙雲のしんみりした様子に、元来お節介な張飛は放っておけなくなり沈んでいる理由を聞き出そうとした。


「なあ。なんでそんなに暗くなってるんだ? 俺で良かったら聞くから元気出せよ」

「翼徳殿……。あなたは優しいお人なのですね。さすがは玄徳殿と義兄弟の契りを結ばれているだけのことはある」

「よせやあい」

「ふふっ。つまらないことですが良かったら聞いてください。わたしは公孫殿や他の方々から玄徳殿や翼徳殿、雲長殿の噂は耳にしていました。そしてわたしも仕えるなら是非、玄徳殿にと思いまだお会いせぬうちから慕っておりました。初めて玄徳殿を、公孫殿と手をつないで歩いているのを見たときです。わたしはまるで雷に打たれたかのように玄徳殿にくぎ付けになりました」

「手をつないでえ?」

「ええ。親しい学友ですので変ではありませんがなぜかわたしはその時公孫殿を非常に不愉快に思ったのです。そして、その日からまるで、まるで、そう女人を想う気持ちのように、いえ、経験はないのですが、焦がれるような気持ちで玄徳殿を想ってきたのです」

「はあ……」

「呆れますよね。わたしはどこかおかしいのかもしれません」


 真剣に悩んでいる趙雲に、すっかり酔いのさめた張飛は同情し肩を優しく叩く。


「全然、おかしくねえよ」

「え……」

「俺も兄貴も同じだ。子龍よ、お前はちっともおかしくないさ」

「そうですか……。ならばよいですが」


 慰めであろう張飛の言葉に趙雲は心が軽くなった気がしてた。更に張飛が「ちょっと待ってな。動くんじゃないぞ。その岩にでも座っていろ」と指示するので他にしたいこともなかった趙雲は黙って平べったい岩に腰かける。きっと張飛は酒でも持ってきてくれるのだろうと夜空を眺めていた。

 張飛は祝宴の場に戻り、静かに祝杯を挙げている劉備と関羽の前に静かに座った。


「おお、張飛、どこまで行っていたのだ。すっかり酔いがさめているようではないか」

 

 関羽は赤ら顔を更に紅潮させて盃を開ける。んんと生返事を関羽に返し、劉備に小声でつぶやく。


「兄者。屋敷から出てすぐの大きな木と岩の側に子龍がいる。行ってやってくれ」

「え? 子龍が? どうして……」

「いいからいいから。兄者を待っておるのだ。はやく行ってやってくれ」

「う、うむ」


劉備は不思議そうな表情に輝く瞳を携えてそっと外へと出て行く。張飛ははあーっとその場の空気が震えるような息をはき出し「酒だ、酒だ!」と柄杓ごと飲み干す。関羽はまるで要領を得ない。


「何だというのだ一体」

「兄ぃ、聞いてくれよ」


 さきほどの外で交わした趙雲との会話を関羽に聞かせると、彼は合点がいった様子でぽんと左手のひらをこぶしで叩く。


「兄者も趙雲の事を相当好ましく思っているようだ。なるほどな」

「だよな。俺もそう思ってたんだ。兄者は初心だし趙雲も生真面目だしな」

「張飛よ、それで自棄酒のようになっているのか」

「だってよおー。兄者が兄者が……」

「泣くな張飛よ。兄者は天下人なのだ。これからも兄者の懐に入ってくるものが増えるだろう。だがなわしらを蔑ろにするお方ではない」

「そんなの俺だってわかってらい。兄者の器は広くて深い」


 これから劉備と趙雲が契るであろうことは分かっていた。趙雲ならと認める反面寂しさが付きまとうのであった。


「さあさ、飲もう飲もう」

「おう。これからの兄者の活躍に乾杯!」


 張飛は心から祝って酒を飲み干した。


 目を閉じ静かに夜を感じているとかさっと茂みが鳴り、優しい月明かりに照らされた玄徳が姿を現す。まるで仙女のような美しさであるなと思い趙雲はため息をついた。


「玄徳様」

「子龍殿……」


 名前を呼び合っただけで特に会話を交わさず玄徳は彼の隣に座り一緒に星空を眺める。温かい気持ちが二人の間に芽生え趙雲は安らぎを得る。


「玄徳様。ずっとずっと、お会いする前からお慕い申しておりました」

「ありがとう。私もあなたを恋しく思っていました」

「え? 今、なんて?」

「あ、つ、つい。聞き流してください」

「いえ、流せません。お願いです。もう一度! 私も、私も、あなたが男性だというのに女人に恋をするような気持ちなのです」

「ああ、子龍よ。私はそなたに隠していることがある。その事が苦しめているのだな」


 趙雲自身の想いの板挟みに劉備は申し訳なさと同時に喜びを感じる。


「と、いうのは?」

「私は女なのだ」

「え? 何ですと? 女人ですと?」

「惑わせるつもりは毛頭なかった。許してほしい」

「ああ……。なんだかほっとしています。あなた様を責めるつもりなど勿論ござらん。どうしてこのような気持ちが沸き上がるのか分からなかった。――そうか、それで翼徳殿は……」


 張飛の優しさと連帯感を感じ趙雲は胸を熱くした。

頬を染めて告白する玄徳に趙雲は一層の愛しさを募らせる。ただ次に告げられる言葉によって彼は抱きしめたい欲求をぐっとこらえる。


「しかし、そなたは公孫サンの武将。不義理を犯すわけにはいかぬ」

「玄徳様……」


 見つめあう二人にはそれ以上の説明はいらなかった。趙雲は微笑み返し頷く。


「戻りましょう。祝宴の席へ」

「ああ、子龍、そなたが主役なのだぞ」


 劉備は立ち上がりさっと趙雲の手を取り親しみを込めて屋敷に戻る。趙雲は握られる手が公孫サンと握り合う手と違い、一本一本の指がしっかりと絡め合われているということに満足ししっかりとした足取りで歩んだ。


 夜更けにやっと宴会はお開きとなりそれぞれ寝屋に戻る。張飛はすっかり酔っぱらってしまい、大いびきで眠りこけてる。


「張飛はよく飲んだようだな」

「ええ。少し自棄酒のようでしたな」

「なぜだ?」

「兄者と趙雲が契りを結ぶことが少し妬けたのでしょう」

「なんと。そのような……」

「まあ、わしも張飛の気持ちはよくわかりますが……」

「すまなかった。しかし私は趙雲とは契ってはおらぬ」

「え? そうなのですか?」

「ああ。互いに好ましく思っていることは確かであるが、彼は公孫サンの武将でもあるしな。もし義兄弟の契りを結ぶのであればそなたたちに相談をする」

「兄者……。子龍もなんという……」


 想像をしていたよりも清廉潔白で生真面目な二人に関羽は感動を覚え、さすが兄者と思う。寝入ってしまった彼女の寝顔をしばらく眺め、隣で寝入っている張飛に静かに声を掛ける。


「起きておるのだろう」

「知ってたのか。兄者も子龍も我慢強いな」

「飲むか」

「ん。もう少しだけ付き合ってもらえるかな」

「ああ。今夜だけはもう少し付き合ってやろう」

「なあ兄貴。子龍はどうしているかな」

「あやつは最初から兄者に恋い焦がれているようだからな。気の毒なことだ」

「ははっ。張飛よ。お前は本当に心優しい漢よなあ」

「そんなに褒めるなよ。照れるじゃねえか」


 張飛は照れ隠しにグイッと開けた盃で顔を隠す。関羽もそれに気づかぬふりをし盃を空けた。

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