第3話 弘毅にして寛容、喜怒を色に形さず

 前漢の景帝の第九子、中山靖王劉勝の子の劉貞が植えたと言い伝えのある大きな桑の木が、ざわっと震えた瞬間、外をうろついていた劉弘の耳に産声が聞こえた。


「おお! 生まれたのか」


 そわそわと部屋の外でうろついた後、えへんと咳払いをする。


「あなた……。どうぞ」


 劉弘が部屋に入ると、手早く湯で清められた赤子が夫人に優しく抱かれて静かに笑んでいる。


「娘ですわ」

「うむうむ。お前に似て美しいな。しかしなんだ。もう泣いていないのか」

「ええ。すぐに泣き止んでこのように」


 不思議そうに夫婦で赤子を眺めていると、「旦那様」と湯を捨てて戻ってきた年老いた産婆が声を掛ける。


「ん? ご苦労だったな。褒美は十分にする」

「ありがとうございます。ところで、そのお子様ですが、貴人の相がございます。女子と言えども跡継ぎとなさるが良いでしょう」

「なんと。貴人の相とな」

「ええ。何人ものお子を取り上げてまいりましたが、そのお子様だけは特別です。しかもわたしが参る前に立派ななりをした方が、 外の桑の木を指さし天子の傘だとおっしゃっていました」

「ふーむ。なんとも。確かに産まれる寸前に桑の木が震えて大きくなったように見えたなあ」


 劉弘は赤子をチラチラ見ながら部屋を歩き回る。


よし ! この子を跡継ぎとして育てることにしよう」


 大人しい夫人は娘の将来を心配したが、いずれ嫁に行くであろうと思い反対はしなかった。こうして劉備玄徳(りゅうび げんとく)は男児として育てられることになった。

 劉弘は教育の初めとして高祖、劉邦がどのように宿敵、項羽を打ち、善政を敷いたかを劉備に教え、その皇室の末裔であることを誇りとさせる。


 夫人は劉備が成長するにつれ、男児としての教育や武芸よりも女人としての生き方を求めるであろうと考えていたが、そのようなことはなかった。彼女は自分が女であることを知っていても尚且つ高潔な男としての生き方を望む。夫人も諦め、清廉潔白な好人物になって欲しと願うようになっていた。しかしその娘の成長を父親である劉弘は見届けることが出来なかった。

 死の床で劉弘は幼い劉備に詫びる。


「すまない。備よ。そなたに後を頼むしかなくなってしまった」

「父上。私がきっと母上孝行致します」

「うむ。ああ、ご先祖様が羽葆蓋車に乗ってわしを迎えに……。おや、備であるか」


 朦朧とし始めた劉弘は夢を見始める。庭先の大きな桑の木の形をした屋根がついた天子の車に、成人した劉備が乗っている。一瞬嬉しそうに目を細め、そして静かに息を引き取った。

 父の死と共に家運は衰退し、使用人が一人減り二人減りとうとう二人きりになり、なんとかできる仕事と言えばムシロを編むことであった。


 母一人子一人の慎ましい生活の中、夫人は亡き夫の弟である劉元起から儒学者として有名な盧植(ろしょく)のところで自分の子、劉徳然と一緒に学問を学ばせないかと誘われる。

 夫人は貧しい生活で学問を学ばせる余裕などなく、断ろうとしたが劉元起が劉備の援助をすると申し出てくれたので受けることにした。彼は亡くなった劉弘同様、劉備の将来性を買っており、その資質は自分の子供の劉徳然(りゅう とくぜん)と比較しても並ではないことがわかっていた。また劉備は男子として育てられているが、この劉元起は勿論劉備が女であることを知っている。姉弟同然に育った劉徳然を彼女に護衛をさせるつもりでもあり、また息子に少しでも学問を身に着けさせたかった。この件で劉元起の妻はうちにも余裕がないと不満を漏らしたが、それほど志の高くない劉徳然一人では真面目に学んでこぬであろうと納得させた。

 こうして劉備は盧植のところで儒学を学ぶことになる。


 従弟である劉徳然は麗しい男装の麗人である劉備を伴い、鼻高々で盧植の塾の門をたたく。


「玄徳。ここでは自分が女だって言うんじゃないぞ」


 劉徳然は父から劉備が女であることを伏せておくようにと言われている。


「ああ、徳然。わかっている。まあここは学問の場であるから、私が男でも女でも関係あるまいが」

「いやいや。変な輩に目をつけられたら困るであろう。何かあったらすぐ俺に言うんだぞ」

「ありがとう。頼りにしている」


 劉備にそう言われて劉徳然はとても誇らしい気持ちになった。

 村の少女たちはもう髪を様々な形に結い上げ、花なぞ差している。劉備は粗末な男の着物を着て、髪を一つにまとめ上げ布でくるんでいるが誰よりも清らかで可憐だと劉徳然は思っている。


 盧植に挨拶をすると、彼にもやはり劉備の特別な何かを感じ取り、熱心に教え込み始めた。また一番の門下生であった豪族の息子、公孫サン伯圭(こうそん さん)は、入門してきた劉備に中性的な不思議な魅力に心惹かれ近づいてくる。


「俺は公孫伯圭だ。よろしくな」

「こちらこそ、劉玄徳と申します。どうぞよろしく」


 朗らかに微笑みながら親し気に近づく公孫サンに劉徳然は警戒しながら、二人の間に割って入り「俺は従弟の徳然だ」と劉備の護衛ナイトのような態度をとる。


「ん? あ、ああよろしく」


 細かいことに頓着しないのか公孫サンは劉徳然の態度に何も追及することなく親切であった。彼は同じ年頃の子弟たちの中でも体格も、育ちもよいせいか腹黒さはない。

 劉備は公孫サンに気に入られたおかげで、他の門下生から嫌な思いをすることもなく、また劉徳然のおかげで公孫サンの劣情を煽る事もなく平穏無事に学問を治めることが出来た。

 そして毎日質素な夕餉を食べた後、母とムシロを編む。


「どうですか? 備よ。盧先生の塾の方は」

「素晴らしいです。先生は勉学もさることながら、国に対する忠義の心がとても厚い方なのです」

「そうですか」


 幼い娘が、着飾ることもなく、男に交じり、晩学に励み、夜はムシロを編んでいる。その姿に夫人はいつも胸を痛めている。


「母上。今夜は少し肌寒いですね。残りは私が仕上げておきますのでもうお休みください」

「いえ、いえ。お前こそ、おやすみなさい」


 しばらくこういうやり取りを行ってから二人はやはり労わり合いながら床につく。

 劉備は墨のような黒い部屋の中で今日習ったことと、己の出自、そして天下泰平について思い巡らせながら眠りについた。


 幼かった劉備も数年するとやはり身体に丸みを帯び始め、より不思議な魅力を醸し出し始める。盧植の門下生の中で一番側に居る公孫サンは劉備にめまいを感じるような心持であったが、頭を振り気を取り直す。そろそろ彼女が女人であるのではないかと気づかれるだろうかと劉徳然が心配していると、突然、盧植の私塾が解散になった。盧植が反乱のため都に呼び戻されたからである。

 別れの日、盧植は劉備に己が書き記した著書を渡した。


「玄徳よ。君はとても静かで穏やかであるが大きな志がある。きっと君は英雄になろう」

「先生。私は……」

「よいよい。何も言わずとも。とにかく天の道から外れぬよう心掛けなさい」

「わかりました。ありがとございました。どうぞ、先生お元気で」


 穏やかに笑んだかと思った盧植の目に強い光が宿っているように見えた。彼は清廉潔白で常に世の中を救いたいと思っていたが朝廷に嫌気がさし故郷に戻り私塾を開いていた。しかしやはり反乱と聞いては黙ってはおれず武人としての気概を見せる。彼は後に朝廷を牛耳っていた張譲をも追い詰め、さらに董卓に意見する事の出来る唯一の気骨のある人物であった。

 盧植が去ると、公孫サンもタク県より北東の遼西郡へと帰ることになる。


「玄徳、困ったらいつでも頼りにするんだぞ」

「ありがとう、伯珪。あなたはいつも兄のようでしたね。ご活躍を祈っています」

「うむ。さらばだ」


 ぎゅっと劉備の手を握った後、公孫サンは白馬にまたがり颯爽と駆けていった。


「みんな行ってしまったな」


 劉徳然は寂しそうな表情を見せる。


「そうだな。でもまた会えることもある。その時までもっともっと大きくならねば」


 こうして黄巾の乱が起きるまで彼女は静かにムシロを編み、勉学に励み母親に尽くす日々を過ごした。

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