第8話
「誘拐するんじゃなかったんですか?」
と言う僕に、マスターは「そんな心配するほど金持ちなのかよ」と笑いながら、トランクを開ける。中には、ギターケースと太鼓が入っている。
「なんですか? それは」
「ギターと太鼓だ。最近の高校生は、そんなこともわかんねえかな」
「それはわかりますけど、何するつもりなんですか?」
「演奏するに決まってるだろう。バザーに出すとでも思ったか?」
「いえ、そこまでは考えが及ばなかったですけど…」
マスターはギターケースを背負い、子供に太鼓を持たせると、勢いよくトランクのドアを閉めた。
「俺と坊主と、あと何人かで、今日音楽室で演奏するんだ。十二時からだ。あんたもよかったら見に来てくれよ」
何故彼らが僕の高校で演奏をするのだろうと思ったが、尋ねる前に、彼らは後ろを向いて歩き出していた。
校内に入ると、なるべくクラスの人に会わないように、購買でパンを買って人目のつかないところで食べた。
普段よりも人が多いのは確かだが、それ以上にいつもは教室という狭い枠に閉じ込められている生徒達が、袋が破れた菓子のようにてんでばらばらに散っていて、さらに飽和している。ざわざわと色々な声が聞こえてくるが、誰が何の話をしているのかさっぱりわからない。ついさっきまでいた、あの静かな空間、古びた音楽が流れている空間が恋しくなる。
マスターとあの子は、あんな静かなところで、何をして、何を考えて日々過ごしているのだろう。僕も学校に通う年でなくなったら、ああいった生活ができる日が来るのだろうか。でも、ああいう静かな日々を送っていたら、またこうした狭苦しくてうるさくて天井が狭くて息苦しい空間が懐かしくなることもあるのだろうか。世捨て人風、と言ったら言い過ぎかもしれないが、明らかにこことは違う空気が流れているあのお店。同じ市内にあんな場所が存在していただなんて、ついさっきのことなのに幻を見ていたような思いに浸っていた。
そうこうしているうちに、気づけば時計の針は十一時半を過ぎていた。どうせ他にすることもないので、早々に音楽室へと向かう。ドアを開けると、そこには音楽の先生しかいない。先生は、僕の姿を認めるとほっとした様子を見せた。
「よかった、お客さんがいなかったらどうしようかと思った」
普段休みがちな僕が文化祭に来たことでほっとしたのかと思ったら、もっと根本的な心配だったようだ。確かに、音楽の先生が僕の日常生活など把握しているはずはない。
「先生も演奏するんですか?」
「私はただの調整役よ。ただ、次演奏するのは生徒さん達じゃないから、観客がいなかったらどうしようっ心配してたの」
と微笑んだ。
「あの、子供とかおじさんが演奏するんですよね。あの人達、この学校とどういう関わりがあるんですか?」
僕の言葉に、先生は驚いた様子を見せる。
「成吉先生、ホームルームで何も言われてなかったのかしら?」
成吉先生というのは、僕の担任の先生の名前だ。僕は今朝どころか、九月に入ってからろくにホームルームなんて出ていないので知るわけないのだが。「まあ、仕方ないわね、シャイな方だから」
そうこうしているうちに、成吉先生が現れた。顔つきや雰囲気はいつもの地味なものだが、普段の人となりからは信じられないような華やかな衣装を身に着けている。赤、白、黄色が混じった複雑な模様の布を肩から巻いてるのだ。下は黒いズボンなので、スーツの上着を脱いで布を羽織っているだけなのかもしれないが、あまりにも驚いたので、声を上げそうになった。先生も、僕を見るとはっとした様子で、そっぽを向いてしまった。
僕とこんなところで遭遇したことを気まずく思っているのか、もしくは派手な衣装を着ているのを見られて、恥ずかしく思っているのか。しかし、やがてそれは担任が不登校の生徒に対してとるにはふさわしくない態度だと気づいたのか、恐る恐る、「ああ、小坂君、来てたんですね」と呟いた。
「先生、ちゃんとクラスで宣伝したんですか?」
音楽の先生が笑いかける。
「いやあ…」
「もう、ただでさえ身内しか見に来ない会場なんだから、ちゃんと宣伝しないとダメですよ。甥っ子さんの晴れ舞台なんだって張り切ってらしたじゃないですか」
「でも、私も演奏するなんて、とても言えなくて…。もし冷やかしで生徒がたくさん来ても、緊張してしまうし…」
うつむく成吉先生を見て、音楽の先生は呆れた様子だった。
甥っ子、というのは、まさかあの子のことだろうか。それとも、また別の話をしているのか。
そうこうしているうちに、マスターとあの子と、そしてもう一人のおじさんが現れた。三人とも、成吉先生と似たり寄ったりの格好をしている。マスターと子供は、耳が隠れる毛糸の帽子を被っている。確かに、アンデスの山の中にいる人が、そういう服装をしているのを写真か何かで見たことがあったな、と思い出す。
「なんだ、客が全然いないじゃんか。誰だよ、宣伝は任せとけって言ってた奴は」
「いや、言うは易し行うは難しで…」
「そんなの知るかよ。まったく、頼りにならない兄貴だなあ」
兄貴ということは、つまり成吉先生とマスターは兄弟らしい。ということは、さっき店で話していた「兄貴」というのは、成吉先生のことだったのか。マスターが僕の制服を見て、文化祭のことを尋ねたことも合わせて考えれば、この二人が兄弟であるのは事実なのだろう。
それにしても、顔も性格も、似ている要素が全くと言って見られないようだが。成吉先生が、人相のわかりにくい黒縁メガネをかけているせいなのだろうか。
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