籠の鳥の卵が割れるまで

鳴田るな

愚者編

秘密の箱

「お前ももう身体だけは大人になったから、一応言っておこうと思う」


 厳格で頑固、怒鳴れば三軒先まで声が届くほど。雷親父のお手本のような父が神妙な顔をしてそんなことを言い出したのは、僕が十六の春だった。


「これは我が家にある、とあるものを開けるための鍵だ。時期が来たらお前に託す。何の鍵かもそのとき教える」


 父が取り出したのは、首からぶら下げている細長い棒のような形状の何かだった。当時の僕はそれを、たぶんまじないかお守りみたいなものなのだと思っていた。ものすごく怖い顔をして言うので、こちらもせいぜい拳骨が飛んでこないよう真面目に振る舞ってみていたものの、その後父は黙り込んでしまって何も付け足す気配がない。元から相当気が短い自覚のある僕は、すぐにもぞもぞと手足を動かしてから思わず聞いていた。


「あれ。それだけですか、父さん」

「精進しろ、未熟者!」


 どうも今の静寂は、吟味も兼ねていたらしい。それで予定調和に僕は認められなかったということだ。

 ぴしゃんと言い放った父は、部屋を出て行くついでに乱暴にぴしゃんと扉も閉じた。ぴしゃんと言うかもうがしゃんだな、あれは。そろそろ蝶番が破壊されそうだ。家族は僕たちのやりとりに慣れきったのか、これほど大きい音が出ても顔を出してこない。


 僕は肩をすくめ、ため息を吐き出した。続きの日なんて父が生きている間はまずやってこないだろうな、と頭を掻きながら。



 僕の方ははなからまったく期待しておらず、そのときのことはそれ以来すっかり忘れていたのだが、頑固でこうと決めたらてこでも動かない父はちゃんと自分の言ったことを覚えていたらしい。


 大体十年後の冬の夜、僕は深夜いきなりたたき起こされた。


「お前もそろそろ目をつぶれば見られるようになってきたから、秘密を教えておこうと思う」


 眠い目を擦っている僕に向かって父は憮然とそう言い放った。僕は寒さやら眠気やらで朦朧としかける自分を励ましながら、ぼんやり首をかしげる。


 目をつぶれば見られるって、やっぱり及第点には達していないってことなのではなかろうか。まあ確かに、父の方が未だに鍛冶職人の腕は上だ。と言うか、そもそも違う部分にそれぞれ得意分野が分かれているだけなのじゃないかとも思うけれど。

 僕は昔から、質より量や速さを優先するタイプで、父は作る数が少ないがその分どれにも力を入れるタイプだった。ただ、僕の飽きっぽさや流行にすぐ流される軽い性格は職人気質の父には許せない点らしく、いつまで経っても渋い顔をし続け、怒鳴られ続けていた。


 それが一体どういう風の吹き回しだろう。


 父は散々他の家族が寝静まったことや、僕たち以外誰の気配もないことを確認してから、倉庫の奥を漁る。すると壁がごとりと音を立てて動き、見慣れない棚が石の中に現れる。家にそんな隠し棚があったことも、父が後生大事そうに棚から出してきたその箱も、僕にはすべて初めて見るものだった。豹変した父の態度と言い、これは夢なのではないかと何度も目を擦る。


 父は首にいつもぶら下げているあの細長いお守りを取り出すと、それで箱の一部分を指さす。なるほど、ようやく正体がわかった。鍵だ。箱を開けるための。


「これは我が一族が代々受け継いできた。私が死んだらお前がこの箱の番人となり、守護者となり、管理人となる。箱の中身は誰にも見せてはならない。我々は一生をかけて秘密を守り、誰の目からも届かない場所に隠し続けなければならない」


 厳かに語る父を、今は茶化す気になれなかった。何しろ、少々貧乏な一般庶民的暮らしを続ける我々の家にまったくそぐわない、それこそ豪商やらお貴族様やらが持っていそうな、きらきらと光る石がいくつも埋め込まれた、豪華な装飾の箱なのである。


 売り払ったらどんぐらい遊べるだろうか。おっと、そんなことを考えたら不謹慎か。

 箱だけでもかなりの値打ち物だということは一目でわかる。


 しかし、興奮と共に胸の内にわき上がるのはありとあらゆる種類の疑問だ。僕の口から、心に浮かんだ数ある中で最もふくれあがった気持ちがするりと抜け出ていく。


「中に何が入っているのです?」

「お前が知る必要はない」


 予想できなかったわけではないが、帰ってきたのは冷え冷えとした答えだった。だがここでめげる僕ではない。父の大嫌いなへらりとした微笑みを浮かべ、申し訳程度に煽らないようつとめて穏やかに言葉を重ねる。


「でも父さん、そりゃおかしな話ですよ。空箱だったら一体どうしてそんなことをしなければならないのか、まるでわからないじゃあないですか。それに開けられる鍵だってあるのに」

「私の母も、私の祖父も言いつけの通りに守り続けてきたのだ。お前もそうしなさい――」


 僕の軽薄な気配に早速大いに気分を害したらしい父が、そのまま身体を二つ折りにして大きく咳き込んだ。反射的に背をさすってやろうかと一瞬手を伸ばすが、罵倒される未来しか見えないので引っ込めて、落ち着くまで見守ってから再び声をかける。


「父さん、もう年なんですから夜更かしはほどほどに、身体を大事にした方がいいですよ」

「やかましい」


 ぴしゃんと言い放った父は、鍵も箱もさっさと元の場所に戻してしまったかと思うと、部屋を出て行くついでに勢いよく扉を閉じた。けれど以前より精彩に欠けた動きは、耳に痛いほどの音を響かせない。蝶番がゆるむ様子もなかった。

 僕は扉をじっと見つめていた。いつだって大きくぴんと伸びて威圧的な背中のはずだったのに、あんなに曲がって小さかったろうか。静かになってしまうと、それはそれで不思議と物足りない。嫌がられても背をさすってやれば良かったかもしれないと、柄にもなく少し思った。



 父と僕はお互い馬が合わなかったし、たぶんどんなに過ごしたところで父が僕を認める日なんてやってこなかったに違いない。それでもあのとき僕に秘密を打ち明けたのは、何か予感めいたものがあったのだろうか。



 父は翌日、橋から足を滑らせた。

 六十を過ぎ、風邪をこじらせて弱っていた身に、真冬の川は冷たすぎたらしい。


「ほぼ即死だったろう。親父さんは苦しまずにすんだんだよ」


 引き上げたらしい近所の若い衆に言われるのを、どこか遠くで聞き流していた。

 奇妙に穏やかな死に顔を眺めながら。


 ***


 人が死ぬと当事者は慌ただしくて、案外余韻に浸っている暇がない。葬儀を終わらせ、家に戻ってきてからようやく寒さを思い出す。落ち着いて寝付いた家人を起こさないように、身体をさすりながらそっと布団を抜け出す。


 ふと起きたらそのまま目が冴えてしまった。仕方ない、酒でも飲もうかと手燭を片手に家の中を歩く。


 ……この家は、こんなに広かっただろうか。


 吹いていく風の鋭さには、季節柄だけでなく、心理的な原因もあるように思えた。


 生きている間はいちいちこちらのやることなすこと、うるさいことは言うわ邪魔はしてくるわ、それこそ毎日とっととくたばれと念じていたぐらいなのに。


 母なんて、あんなにがみがみ言われてさぞ恨み言を募らせているかと思えば、棺に取りすがって埋めないでと泣き出したものでちょっと驚いた。何があってもハイハイニコニコしていた穏やかな人だったが(だからたぶん僕は父より母に似たんだろう)、あの笑顔は本心からだったのか。


 注意深く思い返してみれば、なるほど父が母に出していたのは口だけだった。酒を飲んでものを壊した現場なら何度か見たが、母にその手を振り下ろしたことはなかったし、罵声だって男連中にかけていたものよりいくらか勢いがなかったかもしれない。

 息子だった僕には一切手加減がなかった。散々手足も飛んできたし、実際鼓膜が破れたことだってある。長男とは言え、好みがうるさかったせいで結婚は遅く、ようやく生まれた弟妹も流行病であっけなく死んだ。残った一人息子にもっと優しくしてもバチは当たらなかったろうに、むしろその分厳しくされた気がする。

 ぶっ殺してやろうかと考えたことだって二度三度。目上の人間や客、商売関係の人にだって愛想のひとかけらもなく。


 相手を見て態度を変えるような器用さ、小ずるさがあるなんて、これっぽっちも思っていなかった。そういう情のかけ方をできる人間だったなんて、知らなかった。



 ふらふらと浮き足だった心のままさまよい歩いている内、たどり着いたのは仕事場である。見下ろせば、故人が愛用していた道具が転がっている。手に取ると、自分のものとは随分と感触が違う。数十年間、毎日汗水垂らしながら黙々と振り下ろしていた。


 良い父親でも、親方でもなかった。あいつはクソ親父で、暴力野郎だった。

 けれど、もしかしたら僕は、父のことを何も知らなかったのかもしれない。


 槌を下ろして掌を見る。

 昨日の夜、やっぱり手を伸ばしておけば良かった――。



 そこで同時に思い出した。

 鍵。あれは、どこにやったのだろう。

 父の遺体を確認したとき、首から下がっているものはなかった。川に流されてしまったのか。


 落胆しつつ、ふと予感を、あるいは未練を感じて倉庫まで行ってみる。


 父が漁っていた場所を探ると、昨日戻されたままに箱は隠されていた。そして箱の上には、見覚えのある小さな細長い、紐につながれた棒が鎮座している。


 一瞬、呼吸が止まった。震える手でおそるおそる触れる。

 最初に鍵を手に取り、次に箱の硬い表面に手を滑らせ、最後は自分の顔に。

 冷え切った手が肌をかすめて、夢ではないと確信した。


 穏やかすぎる父の死に顔と、肌身離さず持ち歩いていたはずの鍵がここにあるということ。それらを結びつける思考が不快な結論を導きそうにもなるが、僕の関心は今や目の前の鍵穴のみ、釘付けだった。


 残された鍵。残された箱。静まりかえった家。眠れない夜。

 誰も見ている者はいない。誰も聞いている者はいない。秘密は僕の胸一つ。

 ――親父ももう、墓の下。


 さて、こうなったならやることは当然一つだ。

 不幸にも僕は父に似ず、大分不真面目にできていて、こんな絶好の機会を逃す程馬鹿ではない。昔話に出てくる、やってはいけないことを予定調和に破って案の定後悔するような、そんな軽薄で好奇心の強い、秘密と聞けば探りたくなる下世話な男だった。

 箱自体のサイズは、大きすぎず小さすぎずといったところか。鍵を拾い上げ、握り直し、差し込んで捻ればかちりと音がする。

 さて、一体どんな絶望が奥に残っているのやら。別にセオリー通り希望でもいいけれど、あまり最初に心を弾ませすぎると後で失望する予感もある。期待値を下げておくに越したことはない。空という可能性もある。あるいは父の警告を破った僕に天罰が下るかも。……そこまで信託的なことを言わずとも、たとえば毒物である可能性だってないとは言い切れないわけだ。


 それでも確かめずにはいられない。


 蝋燭を脇に置き、胸の高まりをなだめながらゆっくりと開けた箱の中は、一見するとぱっとしたものはない。鼓動が弾むのを感じながら注意深く灯りを近づけてみれば、一応何かが入ってはいる。

 何度か迷ってからようやく指でちょんとつついてみれば、カサリと音が鳴る。指先が安全なのを確認してから、用心して、時間をかけて取り出してみる。

 出てきたそれは、上質な紙らしかった。それも何枚も重なっていて、文字がびっしりと書かれている。


 一番上、最初の部分に視線を滑らせる。

 僕はゆっくりと切れ切れに文字を追いながら、顔をしかめずにいられなかった。


 父は生粋の鍛冶職人で、文字なんかわからなくても何も気にしなかった。僕の方はもうちょっとあらゆることに興味があったので、別の人にこっそり教えてもらって文字も読める。ただ、広く浅くが基本の知識はうろ覚えなところも多かったし、文章はさっと見た雰囲気からして昔のものなので、表現が古風な感じがする。

 要するに、解読は可能だが、時間がかかる。しかも箱から出てきた紙には結構な分量があるのだ。全部読むのにどれほどのときを必要とするだろう。


 飽きっぽい僕は徒労の予感に作業を中断しかけるが、あれほど父が強く言ったこと、このいかにも仰々しい外の箱、鍵の存在――それらが重なり合った結果、せめて一枚ぐらいは、という気になる。


 まあ、眠れないし、せっかく見つけたのだし、一体どんなご大層なことが書いてあるのか、そのぐらいは教えてもらおうじゃないか。外見と不釣り合い、拍子抜けな内容なら明日の飯の種になるだけ。


 そんな風に自分を鼓舞しながら、再び最初の一文に目を通す。何度か往復して得た回答が、自然とこっそり唇の隙間から漏れていく。


「籠は男。鳥は女。生まれた私は腐った卵……」


 言い終わってから思いっきり首を捻った。なんとも度しがたい書き出しだ。もしかして雅なご趣味って奴か? これ全部?

 辟易しかける心を励まして続きをげんなり読んでいた僕だったが、この文の書き手が誰であるかというところが明らかになってからすべての退屈と不満が吹き飛んでしまった。


 そんなの嘘だろう? これは何かの創作なのではないか? と斜に構えつつも、意外すぎる人物の名前に、語る文の内容に目が離せなくなる。


 それは、最初回想録のようだった。


 蝋燭の乏しい光と僕の乏しい知識を友に、僕は――愚者は、夜通し箱の中の秘密を暴くことになった。

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