ピアニズム—Life with piano—

中澤京華

1章 ふたりの旋律

1-1プロローグ

 音楽への情熱を胸に晴れて練馬区にあるマンションの一室で一緒に新生活を始めた婚約中の真部慎一と高木真智子。慎一は芸大、真智子は桐朋短大に通い、それぞれの音大での課題に追われながらの同棲生活だったが、お互いを支え合うために一緒に暮らし始めたふたりの心は弾み、未来への希望に満ちていた—。


 その一方で、慎一と一緒に暮らし始めた真智子にとって、持病のネフローゼ症候群の治療のため通院中の慎一の食事管理もとても大事な課題の一つだった。


 また、慎一もお互いの演奏を聴き合う時間を大切にしたいと思うからこそ、まだ学生の真智子に日常生活のことであまり負担をかけたくないという気持ちも強く、気になったことは些細なことでもふたりでの話し合いに心がけ、日々の合間を繋ぐふたりでの食事の時間も大切な時間と考えていた。


 さらに、慎一も真智子もそれぞれ芸大、桐朋短大での新たな課題を抱えていたので、お互いの足を引っ張ることなどないよう気使ったり、忙しくなるに連れて生じてくるすれ違いを解消するため、それぞれのスケジュールに応じてできるだけこまめに連絡を取り合ったり、気になったことがあった時はすぐに伝え合うことをふたりの間では決めていた。


 慎一と真智子の新生活を見守るように慎一の母の形見のグランドピアノは輝くような気品を静かに漂わせ、部屋の中に据えられていた。ふたりはグランドピアノに向かう時間を大切にする中で、音楽への情熱と互いへの思いを確かめ合いながら心の絆を深めていった。


 芸大での一年のほとんどをリスト音楽院への留学準備と留学生活にあてた慎一には芸大にまだそれほど親しい友人がいなかったが、二年生に一緒に進級した同級生の中でも情報に敏感な学生たちの間ではリスト音楽院に留学してきた優秀な学生として慎一は一目置かれるようになっていた。個人レッスンの専任講師の宮坂勉みやさかつとむの指導の下、慎一はリストの超絶技巧練習曲に取り組む一方、夏にT管弦楽団と一緒に共演予定の演奏会で弾く楽曲、ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番Op.18』の練習に励んでいた。また、今後の課題として国際コンクールへの参加や歌曲の伴奏、芸大フィルハーモニア管弦楽団との共演するためのオーディションへの応募や曲のアレンジや作曲について勉強することも検討していた。


 真智子は難曲の練習に真剣に励む慎一の姿を毎日間近に見ながら、なんとなく慎一の母の形見のグランドピアノに自分から触れることに躊躇するような気持ちもよぎっていた。それだけ慎一の演奏は真に迫っていたし、母との思い出が詰まったピアノだと慎一から聞かされていただけに子どもの頃から自由に弾いていた実家にあるアップライトピアノとは別格だという思いが真智子には強かった。


 そんな真智子の思いとは裏腹に、慎一は自分が留守の時でも弾きたい時は遠慮しないでいつでも弾いて—と言ってくれていたし、練習疲れでリラックスしたい時など真智子にピアノを弾いてと促すこともあった—。そういった時にはもちろん、笑顔でピアノに向かう真智子だったが、内心では酷く緊張する思いも走った。


 緊張している真智子の内心の戸惑いを解すように、ふたりが出会った高三の頃と変わらず、真智子を励ます慎一の優しさにふれながら、慎一の母の形見のグランドピアノの音色がだんだんと真智子の心にも語りかけてくれているように真智子は思えるようにもなり、少しずつだが、自分にとってもそのグランドビアノとの距離感が近くなっていくような感覚がよぎるようにもなり、その音色にも慎一の母の祈りがこもっているように思えるようにもなっていった。


 こんな具合に慎一の母の形見のグランドピアノに親しんでいく中で、真智子は慎一がグランドピアノに向かう時間を見守っているような心境にもなったし、慎一の演奏に以前にも増して引き込まれていった。それゆえ、真智子自身がグランドピアノに向かう時には、より一層気持ちを引き締めてピアノに向かう習慣が知らず知らずのうちに身についていった—。


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