第47話 ここじゃない、どこかで(前)

 滋賀県守山市、琵琶湖南湖と野洲川にはさまれた閑静な住宅街の一角ににある、スポーツサイクルショップ、ドラゴンスクエア守山店。ガラス張りの大きな玄関を入れば、フローリングが敷き詰められた店内に、整然とロードバイクやMTB、パーツ類が並んでいる。店長である脇本優の指定席、まるでオープンキッチンのようなL字形のカウンター内には、バイクの整備スタンドと、奥の壁には液晶テレビが掛けられ、ツールドフランスなどの中継が流される。カウンターの隅にはエスプレッソマシーンも置かれ、常連客だけでなく、脇本自身が仕事の合間にカフェインを摂取している。

 町の自転車屋なら、たいていは十時から開いているが、スポーツサイクルショップの開店時間は遅い。ここも十二時開店であるが、店主が寝坊というわけではない。交通量の少ない早朝に、ショップのクラブチームが朝練をしているのである。この日も、ビワイチの朝練だった。チームドラゴンスクエアで、一番車の運転が上手い岩田であるが、今朝はルートの半分近くで先頭を曳かされ、四時間四十分で一周してきた。さすがに相当疲れたので、そのまま帰ろうとしたところ、脇本店長から、ちょっと話があるということで、店まで呼ばれ、内心かなりおののいていた。脇本が客以外の者にニコニコしながらエスプレッソを勧める時に、ロクな話はないのだ。

「岩田くん、今日はお疲れさん。それと、こないだは、西宮まで無理言うて、済まんかったな。いや、全然怒ってへんで。逆や逆。びびらんでええねん。あん時、ほんまに反省して、心入れ替えたんや。信じてへんやろ。まあ、これが気持ちっていうやつや。もらっといて」

 脇本がバッグから取り出したのは、黒地にターコイズグリーンが鮮やかな、ハンゾーというランニングシューズである。先日のシークレット・ブルベで脇本は学んだ。道の駅あわじのスタート前に、庭島栄司は女の子のディスクブレーキを調整してやった。猛井四郎は、迷い猫を助けてやった。警察に届けに行ったのはおれやけど。

 情けは人のためならず、けだし真実や。最速店長の座は奪い返す。これは譲られへん。だとしたら、そのためには困ってる人に、あるいは困ってる動物に親切にしてやらなあかん。とりあえずうちのチームで困ってる奴がおるとしたら、自転車とクルマに金を注ぎ込みすぎて、普段着もろくに買われへん岩田を何とかしたらなあかん。やっぱり靴やな。ここはゴール前のサイレントハンターと呼ばれたおれにあやかって、忍者みたいに速く走れるハンゾーしかないわ。

「え、マジでいいんすか?店長、また何か企んでるんとちゃいますか」

 岩田はいぶかしげな表情ではあるが、しっかり両手は贈られた靴に伸びている。

「いやいや、構へんで。とりあえず、いっぺん履いてみて。もし合わへんかったら別の探すから。おっ、百太夫からメールきてるわ、何や、こんなときに。なになに、特ダネです、冬至の日中に、小豆島の寒霞渓を8の字形に上りましょう。東西南北四つのルートの周り方がパワースポットの力を解放する鍵となります・・・なんやこれ、メビウス・ショードって。

 坂手港から草壁本町に行き、南ルートから上って北ルートを大部まで下り、右回りに福田まで行って、東ルートから上り、西の土庄まで下るのです。南の海岸をオリーブ公園まで行って、ギリシャ風車に詣でれば、空を飛ぶように走る力を授けられます。この場合、気の力を溜めるオーブは、チタンフレームのトップチューブをホウキの柄に見立て、ショートサドルをホウキに見立てるだけで大丈夫です。風車の前で自転車にまたがってジャンプすればミッションコンプリートです・・・もう騙されへんで!ええ加減にせいや」

 緊張気味だった岩田も苦笑を禁じ得ない。

「お、西宮の浜さんからLINE来てるわ。おおっ、実業団チームのコーチをお願いできませんか、やて。金にはならへんけど、ええ話やな。西宮のアフロディアって、みんな速いわ、可愛い子ぞろいやわで、今大人気のチームやないか」

「店長、運が向いてきましたね」

「そやな、人に親切にしたら、さっそくええことあったわ。キャラ変上等や。これからは『わきあいあい、もともと優しい脇本優』でいくわ」

          *

 宇都宮駅ビルパセオにあるサーティワン。ポッピングシャワーを口に運びながら、メグは本当に嬉しそうだった。芸能事務所の主催する、新人タレント発掘オーディションは、様々なジャンルで行われている。メグはこのたび「となりの妹S1グランプリ」で準グランプリを獲得、めでたくアイドルの卵となったのである。三番福の奇跡だよねということで、今日は、淋しいけれど嬉しい、メグのお祝いを兼ねたヴェントエンジェルの解散会。とりあえずアイスで血糖値を上げてから、板前が握ってくれる回転寿司屋に行こうということになっている。

「ミドリは、関西に行っちゃうって、ほんとなの?」

「うん、ヴェントの監督がね、今でもレーサーの夢があるんなら、強いチームに行け、話は付けといてやるって、紹介してくれたの。退職金代わりってことなのかな。ちょうど西宮のチームなんだよ。アフロディアって、監督がすごい人で、今年も全日本個人ランキング総合一位を独走中のユイさんがエースのチーム」

「そりゃ、すごいねー。うん、ミドリなら最初はアシストでも、絶対エースになれるよ。でもさ、こんなこと言うの、あれなんだけど、生活はどうするの?」

 ミドリは本気でユーチューバーとして小遣い稼ぎを考えているようであった。いまやサイクリストの間では有名ユーチューバーである、けんとさんクラスになると、年収数百万を得られる。まだこの分野の女子はほとんどいないので、ミドリの思惑では、商品インプレなどではなくて、レースやイベント中継などを主とすれば、競合相手がいないため、検索順位が上に来て、かなりの再生回数を見込めると踏んでいる。

 シホは、この話をミドリから直接聞いて、自分も気持ちを固めた。

「そうなんだ。チャンネル登録の拡散は、任しておいてね。じゃあ、ミドリがそういう形で頑張るなら、わたしは、世界一周に出るよ」

「ええーっ?話が見えないんですけど」

 ミドリもメグもさすがに仰天した様子である。

「あれからいろいろ考えたんだけどさ、わたしって、かなり視野が狭いんだよね。自他共に認める未熟者ってことで」

 ミドリもメグも首を横に振る。シホとの別れを予感したのだ。

「自分の器を大きくするには、まず旅に出て、見聞を広めなくちゃって思ったわけ。女性で自転車世界一周って、実はもう何人かいるんだけど、日本人って、まだいないはずなんだよ。早さでギネスに挑戦とかじゃなくて、本当に現地の人たちと話したり、値切って買い物したり、地元の人が食べてるお店で食べたり、運が良ければ泊まらせてもらったり。旅行じゃなくて、そういう本当の旅をしてみたいの。実はもうアルプデュエズ売っちゃって、クロモリのツーリング車と自転車用のキャンプグッズも揃えたんだ」

 シホの行動力は以前から瞠目するものがあったが、今はビザを申請したり、予防注射を打っている段階だという。ミドリとメグは、何だか胸が熱くなり、写真いっぱい送ってねと言うくらいしかできない。

「そうそう、今日はメグのお祝いで集まったんじゃない。まだメグの話をちゃんと聞かせてもらってないよ」

 場の空気を察したシホが明るく水を向けると、メグの表情も和らぐ。

「うん、やっぱりさ、今までは自己紹介で、大食いとか早食いなんかアピールしてたのが、間違いだったんだよ。今回はさ、自転車で一日三百キロ走りました、ほんとです、証人もいますって荻原選手の名前出したら、主催者がびっくりしてさ、わざわざ自転車連盟通じて確認取ったんだって」

 メグの話に、さすがのシホも驚く。

「メグ、あなたいつの間に荻原選手の連絡先ゲットしてたの?わたし、マジでサイン欲しいんだけど。そもそもそんな場で了解も取らずに名前出していいの?」

 メグは悪びれずに答える。

「うん、あの人、ほんとうに良い人だよね。雨が止みかけて、わたしが、もう走るの嫌だなって思ってたらね、荻原選手が励ましてくれたんだよ。シホさん、あの時、すっごく気持ちが落ちてて見てなかったでしょ。

 今日はわたしが曳いてあげるから、最後まで一緒に頑張ろう、何か困ったことがあったら、いつでも連絡してきていいよって、LINE交換してたんだよ。でね、わたしがアイドル目指してるんですけど、オーディションの自己紹介タイムで、このブルベでお会いしたこと話していいですかって、ちゃんと事前に了解もらってたの」

 シホの瞼には、米プラザのゴール前、長身の女の子を最後までアシストして、ラインを譲った荻原真理子の姿が浮かぶ。あのラストスパートを掛ける直前に、シホたち三人のところまでやってきて、「まだ西宮で一着になれるから、最後まで頑張って」と声を掛けてくれた。確か来年はスペインのチームに移籍するって聞いた。スペインか。絶対、応援に行きたいな。世界一周のスタートはポルトガルにして、東に向かおう。

「でも、今日は祐二さん、見に来てくれてなかったのかな」

 唐突にメグが男の名前を出すので、ミドリはびっくりした。

「誰?祐二さんって」

 メグは遠い目で懐かしそうに語る。

「ほら、ブルベの時に言ったじゃない。いちばん最初にわたしのファンになってくれた、黒い革ジャンのお兄さん。西宮神社に送ってくれた、あの怖そうで怖くない、ちょっと怖い平井さんが、同じ赤い稲妻模様の革ジャン着てたから、尋ねてみたの。そしたらさ、東京でシルバーの刀みたいな大型オートバイに乗って、この革ジャン着てるとしたら、祐二って奴しかいないって、教えてくれたの。ツーリングチームの絶対的エースだったんだって」

「だったって・・・今、その祐二さんはどうしてるの?」

「わたしも、それ聞いたんだけどね。そしたら平井さんが、ちょっと怖い顔になって、『祐二はお前に何て言ったんだ?』って聞き返すから、おれももうちょっとだけ頑張ってみるよ、じゃ、またどこかでって。そう言って赤いバラをくれましたって答えたの」

「そしたら?」

「祐二がそう言ったんなら、そうだろう。あいつは必ず約束守る奴だから。お前も、もうちょっと頑張ったら、またどこかで逢えるだろうよって」

「ふーん、そうなんだ。わたしも逢ってみたいな、祐二さん。彼女とかいるのかな」

「だめだめ。それはわたしが聞くんだから。あ~あ、あの時、祐二さんとLINE交換しておけば良かったな」

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