第30話 トランジット(後)

 田中君世は、蝦夷の秘密について、言いたいことだけハンズフリーマイクで一方的に伝えると、電話を切り、ハチケンの運転するセレナと分かれて、阪神高速を三号神戸線に入った。西宮出口を降りればすぐに、西宮神社がある。開門時間は十九時までなので、宮司に話をつけて、少し延長してもらおうと交渉するためである。メビウス・ロードの話をどこまで開示すべきか、宮司の反応を見て決めようと思っていた。

 国道四三号線沿いの南門を、そのまま車で入れば、松林の左手に駐車場がある。手水舎で手指を洗い、口をゆすぐ。祈祷殿の奥にある池には、よく太った鯉が悠々と泳ぎ、クサガメだろうか、数匹の亀が浮いたり沈んだりしている。本殿は、拝殿の奥にあり、一般の参拝客は近づけない。本殿の北側と西側に広がるゑびすの森も、天然記念物だけあって、柵の先には入れない。

 神域だけあって、少なくともフレンドリーな雰囲気ではないなと感じつつ、君世はお参りを済ませ、紺地に三つ葉柏の社紋が入った御朱印帳を求め、御朱印を頂いた。メガネ姿の、まだ若い神職が、慣れた手つきで書いてくれる。

 社紋の由来は明確ではないが、豊漁の縁起をかついで、かしぐという語に掛けてあるのかもしれない。御神体は、本来は海に漂っていた神像のはずだが、実際に祀ってあるのは、鏡だという。そうか、そういうことだったのか。いつ、どのようないきさつで神像が鏡になったのか、その意味は何かということは、若い神職には分からない様子だった。

 西宮神社内にはいくつかの摂末社があるが、その一つ、本殿のすぐ左手にに百太夫神社がある。蝦夷の徳を広めるべく、人形遣い達がからくり人形を操り、諸国を巡ったことから、現在では芸事の神として祀られている。西宮市に多く住んでいた人形使い達は、その後、淡路島に渡り、人形浄瑠璃や、現在の文楽の礎となったと言われている。

 君世は、人形遣いの祖ともいわれる百太夫の名を目にして、嫌な予感がした。歴史研究のネットサークル「秘すとリアル」が内部分裂した原因は、ハンドルネーム百太夫を名乗るメンバーが、興味本位から、蝦夷の封印を解いたら面白いのではないかと提案したことにある。互いの本名や住所などは言わなくて良い決まりだが、IPアドレスから、滋賀県大津に住んでいる者のようだった。

 会長の君世としては、確かに興味は尽きないが、自分がアワイチ、ビワイチの労を執ることもせず、不測の事態が生じても自分は傷つかない場所にいて、何の責任も取ろうとしない姿勢は許し難かった。メビウス・ロードとは、終わりがないという意味で君世が付けたミッションコードだが、彼は無限の力を引き出すことに執心して、アンフィニ・ロードと呼び、陰陽の気をためて増幅するオーブの開発と、アワイチ、ビワイチを実行できる人選に乗り出し、君世と袂を分かつことになったのである。

 君世自身は、幼い子ども達を抱えて、自分がロードバイクに乗ることもままならず、蝦夷の秘密は秘密のままで確認はできないだろうと諦めていた。

 そこに、旧友の陽子から、悩みともSOSとも取れる相談が持ちかけられたのである。妹と同居することになったが、かつての明るく元気だった頃とは別人のようで、魂の抜け殻状態なのだという。原因は見当がつくが、それを本人に直視させることが良いことなのかどうか分からないと言って、陽子は泣いていた。小さい頃の亜弓なら、何度か目にしたことがある。無邪気で活発、陽子にぺたぺたじゃれつく様子が何とも言えず可愛らしい子だった。あの子が今、生きる意味を見失って、抜け殻になっているなんて。

 困った時の神頼みというが、安易な気持ちで蝦夷の封印を解くのは危険すぎる。ただ、それが自らの意思で、自らの体力と気力の限界まで振り絞って、すべてと引き替えにする覚悟で願った結果だとしたら、たとえそれがどんな事態を生んでも、本人は納得できるのではないか。

 決断を陽子に預けるのは、とても無責任なようで気が引けたが、薬物治療の弊害や、カウンセリングの限界について理解していた君世は、思い切ってメビウス・ロードのことを陽子に伝えてみることにしたのであった。

 社務所の一階には、西宮神社の縁起にまつわるビデオが流しっぱなしになっており、何体もの蝦夷の像や、条幅に描かれた絵が展示されている。宮司と話がしたいというと、受付の巫女は怪訝そうな態度を示したが、大げさにクレーマーの演技をするまでもなく、権宮司が現れた。境内にある自宅からやってきたようである。ひょうひょうとした雰囲気で、距離感がつかめない。関西人との駆け引きは苦手だが、一見さんがナメられないためには、少し、はったりをかましておいた方が良いかもしれない。

「今日が何の日か、ご存じないわけがないですよね。蝦夷の御神体に、異変が起きていないか、いますぐ確認された方がいいですよ」

           *

 ハチケンは名神高速のどこにオービスがあるのかは熟知している。上りでは、吹田SA近くと、京都南インターを過ぎたあたりだ。制限速度は八十キロだが、追い越し車線を行く車は大概百二十キロ近く出している。もっと速度を上げることも不可能ではないが、検挙されることよりも、ヒトの決めた制限速度を無視することが、このブルベの御利益を損なうことにつながるのか否かが分からないため、何となく歯がゆさを感じつつ、メーター読み百二十キロで巡航していた。

 この調子なら、十二時を回る頃には、道の駅びわ湖大橋米プラザ駐車場に着けるはず。亜弓の調子次第だが、十八時前にビワイチを走破できれば、日没にはぎりぎり間に合う。京都東インターを降りて、湖西道路を二二キロ、米プラザまで何とか二十分で間に合わせたい。

 後を付いてきているはずの音塚閃太郎のハヤブサが、いつの間にかミラーの視野から消えている。君世に付き合って西宮に行ったのだろうか、いや、先行して米プラザの駐車場確保でもしてくれるつもりなのか。ただ、このブルベは最初から何か変だ。おれも含めて、みんな何者かの意志に操られているような気がする。この先に待っているのは何だ?

 自分の決めたやりたいことに対しては、強い意志と実行力や洞察力を持つハチケンではあったが、半ば巻き込まれた形の、シークレット・ブルベにおいては、誰がどのような目的で、今日の参加者らを操ろうとしているのかまでは、想像の域を超えていた。

「陽子さん、そろそろ起きて。もうすぐ着くから、すぐ出発できるように準備しておいて」

           *

 最速店長らを乗せたワンボックスは、名神高速や、湖西道路坂本付近での渋滞も少なく、真野インターで降りてレインボーロードに入った。琵琶湖大橋は目と鼻の先である。これで余裕を持ってビワイチできると、三人が安堵したその時、車の右側から大型オートバイが出てきたかと思うと急ブレーキを掛けられた。ガゴッと鈍い音が響く。さいわい物理的ダメージは少なそうだ。車の外に飛び出そうとする猛井四郎を手で制し、庭島栄司が一一〇番通報をした。脇本優は、やれやれといった表情で肩をすくめる。

「警察来る前におれらだけ出発したら、ややこしいんやろなあ。これって誰の陰謀なん?まあ、あの子と合流する時間つなぎには丁度ええわ」

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