第28話 アワイチ・走破(後)

 道の駅あわじから、南東へ一キロ余り、昨夜猛井四郎が最終便で着いた淡路ジェノバラインの発着所が岩屋港である。国道二八号線を洲本方面に進めば、右手に恵比寿神社の名が掲げられた赤い鳥居が見える。

「おおー、これ、朝見たよ。でも、ここじゃないんだろ」

 四郎はそのまま素通りして、五百メートルほど先にある、石屋神社に行こうとするのを、脇本優はあわてて引き止めた。

「ちょっと待ってください。神主さんが兼務で居るのが、この先の石屋神社なんですけど、肝心の岩樟神社にお参りしないと、何の意味もないじゃないですか」

 赤い鳥居をくぐって、そのまま直進すると、白地に朱塗りの本殿の真裏に、石造りの小さな鳥居が隠れるように佇んでいるが、確かに岩樟神社とある。これも一種のカモフラージュなのか、君世に尋ねれば何か教えてくれるかもしれない。

 土踏まずのやや前方寄りに装着しているクリートは、ペダルと一体化させるためのビンディングであり、そもそも歩行を前提として作られていないので、歩きにくいことこの上ない。つま先が上がって、ペンギンのよちよち歩きのようになってしまう。靴底がフラットになるタイプのビンディングシューズもあるが、ペダルとの固定力が強くない。MTB用もしくはカジュアルサイクリング用なので、ロードレースで使う者はまずいない。

 上部に木が生い茂り、巨大な岩をくり抜くように祠がある。もとは数十メートルもある奥行きの洞窟で、蝦夷の父である伊弉諾イザナギが隠れていたとも伝えられる。四郎が祠の小さな賽銭箱に百円玉を投げ、ぺこりとお辞儀をしてそのまま踵を返そうとするのを、再び脇本がたしなめる。

「四郎さん、大変申し訳ないんですが、神社なんで、二礼二拍手一礼でお願いします。ヘルメットもちゃんと脱いでくださいね」

 こいつのせいで、わしの御利益まで無くなってしもたら、どないしてくれんねん、という怒りは一切表情には出さず、営業スマイルに終始する。そそくさとお参りを済ませ、石屋神社に急ぐ。ここらはパワースポットらしいが、ほとんど参拝者の姿が見えない。御朱印は、全然待たずに書いてもらえた。

 時刻は既に十時を回っている。パンクで遅れた庭島なんてどうでもいいから、早く道の駅あわじに戻って、車で大津に急がねば。道の駅の駐車場では、脇本のチームの若い子が、手を振って待っていた。その傍らに、どこかで見たことのある男がニヤニヤ笑っている。

「遅かったですね、お二人。待ちくたびれましたよ。え、御朱印でしょ。とっくに頂いてますよ、ほら。自転車積むの、手伝いましょうか」

           *

 美津根崇広は、すっかりバテ気味の丸瀬紗弥を何とか引っ張り、道の駅あわじの駐車場で待っていたチームのメンバーが駆け寄ろうとするのを手で制止し、そのまま進む。今からアワイチに向かうサイクリストのグループも何人か見かけたが、昼頃に山岳ルートは暑くて大変だろう。

 恵比寿神社の鳥居前で停まると、前方から二人組の男が、風を連れてすごい勢いで去っていく。笑いながら、自業自得は意味が違う、とか何か言っていた。アワイチの途中で何度か見かけたが、やはりあいつらもシークレット・ブルベか。あのピンクのエモンダ、あれはもしかしたら豆腐屋、じゃなくてパン屋?の猛井じゃないか。まともに勝負したら、難しいな。何とかトランジットで紗弥を回復させないと。

「美津根さん、御朱印帳、いただいてきました。この近くに美味しいお寿司屋さんがあるんですけど、ブルベが済んだらご一緒したいですね。隣が魚屋さんで、今店先でウナギを焼いてるんですよ。いい匂いがしませんか?」

           *

 焦っても仕方ないが、シホは焦らざるを得ない。よれよれになったメグを何とか引き連れ、御朱印をもらって道の駅あわじに戻ったのが十時四六分。スタートから丁度六時間経過した。淡路島観光協会によれば、アワイチの所要時間として十時間が目安とされており、ほぼ素人グループにしては上々の出来なのだが、今からだと道の駅びわ湖大橋米プラザに着くのは、捕まらない程度に急いでも十二時半頃になってしまう。ミドリはペーパードライバーなので、シホが運転せざるを得ず、移動中に仮眠を取ることはできない。

 ビワイチを仮に五時間半で回れたとして、十八時。日没まで一時間十六分しかない。これは結構きついどころの話ではない。でもやるしかない。

「ミドリ、自転車積むから、まず車からバッグ出して。そう、そこらへんに置いといて。あ、頭ぶつかるから、いったん閉めてくれる?」

 車のキーを閉じ込めてしまったのに気付いたのは、その直後だった。ミドリが背伸びしてリヤゲートを閉める際に、シホは自転車の前輪を外しているところで、キーを手渡せなかったために、何気なく荷室の隅に置いたまま、リヤゲートを閉めてしまった。ドアの方は施錠したままである。疲れがたまってくると、ケアレスミスが増える。ため息が出るが、ここは怒っても仕方ない。

「えっと、JAF呼ぶ?それともレンタカー屋さんに電話するのかな」

 ミドリは青ざめた顔で声が震えているが、業者を呼んでも待っているうちに、日没に間に合わなくなってしまうだろう。

「バッグの中に輪行袋、あるよね。ミドリ、急いで時刻表調べて。舞子か、西明石から堅田まで。わたしはタクシーとか探してくるから」

           *

 疲労はある。相当ある。でも、達成感というのは、あまりない。それって、あと半分残っていることを、自分が受け入れたからなのだろうか。

 亜弓は不思議な感覚を味わっていた。都志で出会った君世の澄んだまっすぐなまなざし。絶対に走り切ってね、待ってるから、と言って力強く手を握ってくれた。わたしを待っててくれる人がいる。そう信じたとたん、股関節の痛みが和らいだ。今でも全然自信はないけれど、行けるところまでは行ってみよう。そうすれば、陽子が言いかけたことを何か思い出せるかもしれない。思い出すことが良いことなのかどうかは分からない。ただ、忘れたまま生きていくというのは、何か違うと思う。

 御朱印帳は背中のポケットに入れた。果たしてこれで陽の気が充填できたのだろうか。陽子は、何だか暖かい気がすると言ってはしゃいでいるが、それは単に、梅雨の晴れ間の暑さが何もかも包み込んでいるからではないのか。亜弓自身は何も感じない。霊感が弱いのだろうか。

 自転車の積み込みは、ハチケンが手際よくやってくれている。音塚閃太郎は、淡路牛バーガーや、焼き穴子をテイクアウトしてくれた。移動中の車内で食べるにはちょうどいい。でも、この景色、薄青い空の中からすうっと伸びている大きな橋、穴子の少し焦げた香ばしい匂い、頬を撫でる生ぬるい風、遠くで聞こえる海鳥のネコみたいな鳴き声、それから・・・

「わたし、ここに来たことある。誰かと」

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