第11話
井口さんから、食事の誘いがあったのはその一週間後だった。
2日後まではそわそわしていたけど、やっぱり来るわけないよね、と諦めていた。
井口さんは外回り中で、会社のパソコンに『先日の件』という題でメールが入った。
『本田さん、今日の夜は空いてる?この間言っていた食事でもどう?』
キーボードの上で指が震えた。
『大丈夫です。よろしくお願いします。』
一度書いた文章を何度も何度も何度も見返して、ようやく送信ボタンを押した。
送った後も、胸のドキドキが止まらない。
その後、メールが届くたびに、井口さんからじゃないかと期待しては落ち込みを
繰り返していた。ようやく井口さんから返信が来たのは定時間近だった。
『よかった。それじゃあ、19時に下のお店で』
と書かれた文面の下にお店の名前と住所が記載してあった。
ネットエンジンで検索すると、おしゃれなフレンチのお店だった。
今まで行ったことなんて無いお店で、さらに言えば男の人と二人で食事をするのも初めてだった。
19時なら家に帰る時間もある、と思い、美香子は一張羅のワンピースに着替えて電車に乗った。白地にピンクの花が散りばめられたスカートで、一昨年大好きな声優に会うために買った。二度と着ることはないと思いながらも捨てきれずクローゼットの奥に保管していた。
店に入ると井口さんはもうテーブルに座っていた。美香子に気づくと立ち上がって、美香子のために椅子を引いてくれた。
オーダーは美香子の意思を確認しながら、すべて井口さんが選んでくれた。どの料理もハズレがなくて美味しかった。
お酒がなくなればすぐにウエイターを呼んでくれるし、話も退屈しないように配慮しているのがわかる話し方で、何時間でも一緒にいたいと思えた。
映画に出てくるような完璧な男性だった。
こんなに楽しくて時間が経つのが早い食事は初めてだった。
帰りは家の最寄りの場所までタクシーで送ってくれた。
タクシーから降りる前に、いたずらっ子のような笑顔と甘い声で耳元で囁いた。
「本当は家の前まで送ってあげたいんだけど、セクハラだと思われないように自粛するよ。また食事をしようね」
美香子は返事の代わりの何度も頷いて、逃げるようにタクシーを降りた。
反則だ、あんなの。
井口さんのことが好きだ。
もう抑えられないところまで来てしまった。
翌日、目覚めたときから、なんだか世界が違って見えた。
目覚ましが鳴る前に目が覚めて、朝のカーテンを開けなくても目が冴えた。
慣れきってしまったサンドウィッチを作ることさえも、楽しくて仕方がなくて、つい作り過ぎてしまった。
電車に乗っても、普段なら隅っこの方にこっそりと立っているが、今日は違った。
車内の中まで入って、バリキャリ風の女性の隣に立って、窓の外の風景を楽しむ余裕があった。
なんだか、世界の中心にいるような気分だった。
気持ちが浮き足立って、一本早い電車に乗ったため、会社に着くといつもより顔ぶれが少なかった。
総務部は信一をはじめほぼ全員いた。経理部は経理部長と明代。
営業部には部長と杉山さんだけがいた。
早く井口さんに会いたいなあ。
フロアに入ってくる人が視界に入っては誰だか確かめ、そわそわした気持ちだった。
「ちょっといいですか?」
完全に油断していた。
顔を上げなくてもわかる。
すぐ隣に信一が来ていた。
信一に連れられて非常階段に来た。
めったに人が通らないし、防音だから、よく内緒話をするときに使われている。
「何か用でしょうか?」
無意識に尖った声が出た。
信一は、神妙な面持ちで立っていた。
「すみません、突然お呼びして。でも、どうしてもあなたと話したくて・・・。余計なお世話だということはわかっています。ただ、あの男だけはやめておいた方がいいと思います」
「はい?」美香子は目をパチクリとした。「井口さんのことですか?」
「そうです。彼はあなたを不幸にする、だから、ぼくはあなたを止めたくて・・・」
頭に血が上った。信一の言葉を遮って怒りのまま、まくし立てた。
「なんであなたにそんなことを言われなくてはいけないんですか?あなたに、一体彼の何がわかるんですか?わたしのことを勝手に昔からの知人のように言ってたと聞きましたけど、わたしたちたまたま表参道で会っただけですよね?わたしのこと知ったように言いふらすのはやめてください。セクハラで訴えますよ」
信一は目を伏せて聞いていた。
美香子が言い終えても口を開こうとはせず、沈黙の時間が続いた。
「時間の無駄ですので、わたしはもう行きます。今後わたしに関わるのはやめてください」
そう言って踵を返したときだった。
背後に信一の切羽詰まったような声がした。
「・・・っちがうんです。ぼくたちはあの日はじめて会ったわけじゃないんです」
「え?」
振り返ると、信一は苦しそうに目を閉じていた。
絞り出すような声で続ける。
「ぼくは前世からあなたを救いに来たんです」
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