第38話 初めての涙

「私はそろそろおいとま致しますわ」


「おや?」


 熱心に本を読んでいたダンテは、アンジェリカの声で我に返った。


 夜が近いのか辺りは薄暗くなり、かすかながら雨音もしている。


「もうそんな時間になったのか」


「ダンテさまは本当に本がお好きなのですね」


 ダンテも始めのうちは、手紙のことが気になって集中できていなかったのだが、母親の家がまだ続いているとの記録が見つかってからは、そちらの方に気持ちが行ってしまったのだ。


「すまないことをした。君を無下に扱ってしまったね」


「いいえ、そんなことは」


 ダンテが本を読み始めてから一度もアンジェリカと会話した記憶はない。


 しかし当のアンジェリカは、なぜか満足そうな笑みを浮かべていた。


「だって、ずっとダンテさまのお顔を眺められていたんですもの。知ってまして? ダンテさまってば難しいお考えをなさる時――」


 言いながらアンジェリカは、軽く左手を握り、人差し指付け根辺りを口元にくっつける。


「――こんな風にする癖がございましてよ」


 ダンテ自身にそんな自覚はない。


 今度アルに確認しておこうと頭の片隅に書きつけてからダンテは本を閉じた。


「そんなに見られていただなんて、なんだか面映ゆいものがあるね」


 ダンテは微笑みながらアンジェリカの左手を取ると、軽く頬を合わせてビズを行う。


「じゃあ今度は私がアンジェの癖を見つけないと」


「そんなの、恥ずかしいですわ」


「ふふっ、私の秘密を知ったのだからアンジェの秘密も知る権利があるはずだよ」


 ダンテがそう言った瞬間、アンジェリカは「まぁっ」という声とともに弾けるような笑顔を浮かべる。


「まだ約束を覚えていてくださったのですね」


 アンジェリカが言っているのは、出会った当初の口約束のことだ。


 出会うごとにダンテの秘密を教える。


 アンジェリカの秘密を知ったらダンテも教える。


 だから、アンジェリカの秘密も教えること。


 もう両手の指を使っても足りないくらい同じ時を過ごしているため、その約束はあってないようなものだった。


「もちろん、君との思い出は忘れないよ」


 確かに、ダンテはこのことを絶対に忘れないだろう。


 偽りの恋を騙っていたら、本当の恋をしてしまい、それがあってはならない禁断の恋だったのだから。


「嬉しいですわ」


 アンジェリカはダンテの手を取り、ダンテはアンジェリカの目をじっと見つめる。


「ずっと、ずっとダンテさまのお傍に居させてください」


「ああ。私もそれを望んでいるよ」


 傍から見ればそれは、家柄や立場の差を超えて愛し合う二人が行う永遠の誓い。


 しかし現実は、金のため、破棄前提の関係である。


 ならばせめてこのひととき、思い出だけは幸せな嘘に抱かれていられるようにと、ダンテは偽りの愛を、アンジェリカに注ぎ続けた。






「それじゃあ、アンジェ。また明日」


 雨粒が地面をたたく音に負けない様、ダンテは大声で別れを告げる。


「はいっ。ダンテさまも!」


 迎えの箱馬車に乗ったアンジェリカが窓から顔を出して叫び返す。


 その声に手を振り返したダンテは、頭を抱えて急いで校舎へと戻った。


 ドアを閉め、衣服に付いた水滴を払い落す。


 ホール中央に飾られた時計で時間を確認すれば、18時を回ったところだった。


「4時間、か……」


 授業が終わってからダンテが図書館で過ごした時間なのだが、それはベアトリーチェとの約束を無視した時間でもある。


 その時間だけベアトリーチェを傷つけてしまった。


 そう思うだけでダンテの心が痛みだす。


 しかし、ベアトリーチェを受け入れるわけにはいかないのだ。


「……あいつも、もう居ないだろ」


 外は既に大雨が降りだし、大気もかなり冷たくなってきている。


 こんな状況で吹きさらしの高台に出ていれば、命の危険すらあるだろう


 絶対に、ダンテを待っているはずがなかった。


「居ないはずだ……」


 他人だと告げた。


 別れもすませた。


 長い時間距離を置いた。


 ベアトリーチェならば分かってくれるだろう。


 そのはずだ。


 でも――。


「くそっ」


 もし自分がベアトリーチェの立場ならばどうするだろう。


 その不安がダンテを突き動かす。


 もし、誰かの事が好きで好きでたまらなくなったら――。






「ベアトリーチェ! いるのか!?」


 ダンテは屋根に出ると、激しくぶつかってくる雨粒に負けない様、高台へ向かって大声で叫ぶ。


 しかし運悪く雷鳴が轟き、ダンテの声はかき消されてしまった。


「ベアトリーチェ!」


 ダンテがいくら声を荒らげようと、彼女が高台に居ない・・・という確認はできない。


 それに気づいたダンテは、チッと舌打ちすると、滑る屋根に注意しながら慎重に歩を進めていく。


 そして、ようやく到達した時――。


「なんでだよ……」


 手すりの陰に隠れるようにしてうずくまっているベアトリーチェの姿を見つけてしまった。


「なんで居るんだよ!」


 ダンテがあげた悲鳴混じりの叫びが届いたのか、ベアトリーチェが弱々しく顔をあげる。


 時折瞬く稲光によって浮かび上がった彼女の顔は、明らかに血の気が引いていて今にも倒れそうだった。


「おまえっ」


 ベアトリーチェがこんなになってまでここに居た理由は――ひとつしかない。


 ダンテは急いで手すりを乗り越えると、ベアトリーチェの上に覆いかぶさり、体全体を使って彼女の傘になる。


「なんで……!」


 抱きしめたベアトリーチェの体は氷の様に冷たくかじかみ、細かく震えている。


 あと少しでもダンテが遅れていたら、最悪の結果が待ち受けていたかもしれなかった。


「ダ、ダン、テ……さ……」


「しゃべるなっ」


 ダンテはベアトリーチェを抱きすくめ、必死に自分の体温を分け与える。


 ほんの少しでもベアトリーチェを守れたら。


 そんなダンテの願いも虚しく、冷たい雨が容赦なくダンテの行いを踏みにじっていく。


 まるでそれはふたりの関係とこの世界を具象化した様であった。


 このまま外に居てはベアトリーチェの体力がもたないと悟ったダンテは、ベアトリーチェの体をしっかりと抱きしめて固定する。


 ベアトリーチェが小さかったことに感謝しつつ、ダンテは注意しながら高台を出ると、校舎の中へと避難したのだった。


「しっかりしろ……!」


 校舎の中へ入って早々、ダンテは濡れた上着を脱ぎ捨てる。


 まずどうするべきか、そんなことを考える前にダンテの体は動いていた。


「ベアトリーチェ!!」


 ダンテはベアトリーチェの体を今度こそしっかりと抱きしめる。


 なにがあっても絶対に失いたくない、離さないと宣言するかの如く、固く強く。


「い、いたい……よ」


「この馬鹿がっ。黙ってろっ」


 ダンテはベアトリーチェが傷つくのが怖かった。


 失ってしまうのはもっと怖かった。


 何故なら、ダンテにとってベアトリーチェは何よりも大切な存在だったからだ。


「黙ってろ……!」


 その日、その時、ダンテは生まれて初めて他人の前で本気の涙を流したのだった。

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