第35話 涙雨

 ダンテは屋根の上にある、ベアトリーチェが教えてくれた高台に寝転がり、ずっと空を眺めていた。


 妙に雲が多く、日が隠れたり現れたりするなんとも言えない空模様で、まるでダンテの心を表している様である。


「……どう、すっかなぁ……」


 本来ならば今日一日、普通に授業を受けて、いつも通りアンジェリカを褒めそやして愛を囁くはずだった。


 それがダンテのやるべきことであり、やらなければならないことだったのだが……ダンテの体は言うことを聞かず、気づいたらこうして授業をさぼってしまっていた。


 理由は言うに及ばず、ベアトリーチェだ。


 彼女を愛していると自覚してしまった今、ダンテはベアトリーチェと顔を合わせることに怖気づいてしまったのだ。


「まさか、俺がなぁ……」


 ダンテは過去、女性を恋愛対象として好きになったことが無かったし、愛し合いたいと思う女性も居なかった。


 ベアトリーチェよりも美しい女性に何人も出会ってきたし、より愛嬌のある女性も沢山いた。


 富も、権力も、様々な要素で彼女を上回る女性が沢山いたというのに……。


「なんでだよ」


 それでもダンテはベアトリーチェを選んでしまった。


 正確な理由は分からない。


 いつの間にか惚れてしまっていて、今も心から彼女を求めてしまっていた。


 ベアトリーチェの笑顔が見たい。


 ベアトリーチェと話したい。


 ベアトリーチェと触れ合いたい。


 ……一緒に居たい。


 望みは尽きることを知らないかのように後から後から湧き出て来る。


 しかし、その全てがしてはならないことで、望んではいけないことだ。


「なんでだよ、ホントに……」


 ダンテは胸元に手をやり、ぎゅっと心臓の上で握りしめる。


 ドクンドクンと自覚できるほど大きな鼓動が拳に伝わり、心臓を握りしめているのかと錯覚してしまうほどだった。


「なんでアイツだったんだよ」


 出会ってしまったこと。


 好きになったこと。


 愛してしまったこと。


 血のつながった家族であったこと。


 その全てがダンテにはどうしようもなくて、運命のイタズラとしか言いようがなかった。


「なんで俺は――」


「ダンテさんっ」


 一瞬、求めすぎて幻想が実体化してしまったのかとダンテは己の耳を疑う。


「ここに居たんだ……」


 しかし、もう一度聞こえてきたベアトリーチェの声に、これが現実のものであると認識しなおした。


 ダンテは首だけを起こして声の聞こえてきた方を確認する。


「良かった……」


 高台の手すりに捕まっているベアトリーチェの姿が、そこにはあった。


「ベアト、リーチェ……」


 茶色の地味な色合いの髪を風にたなびかせ、ダンテの左目と同じ琥珀色の瞳を涙で潤ませている。


 今日一日姿を見せなかったダンテのことを探し回ったのか、息を弾ませ、激しく肩が上下していた。


 ――こんなにも俺のことを求めてくれている、なんて思考が都合のいい妄想だとダンテも分かっている。


 それでも彼女の安堵した微笑みを見ると、ダンテの胸は喜びで満たされてしまった。


「急に休むなんて、心配したんだから。アルフレッドさんに聞いても知らないって教えてくれなかったし」


 もう、なんて言いながら頬を膨らせていても、ベアトリーチェは笑っていた。


「ああ」


 生返事をしながらも、ダンテの中ではふたつの相反する感情がせめぎ合っていた。


 それに決着がつく前に、ベアトリーチェが足を上げて手すりを乗り越えようとしてくる。


「待てっ」


 さすがに葛藤だのなんだのとしている時ではない。


 あまりにも無防備なベアトリーチェの行動に、ダンテは顔面の筋肉が引きつっていくのを感じた。


「なんで?」


「今の体勢だと


 まだ古臭いえんじ色のドレスがダンテの視線からベアトリーチェの下着を守っている。


 しかし、風でも吹けばそんな軽い防壁はダンテが望む望まない関係なしに易々と突破されてしまうだろう。


「ふわっ⁉」


 悲鳴を上げたベアトリーチェは、思わずスカートを押さえようとするのだが、状況が状況だけにどうすることも出来ずにいた。


 足を上げた状態で固まるベアトリーチェに対し、ダンテはわざとらしく舌打ちをしてから固く目をつぶり、腕で自身の両眼を覆う。


「もっと注意しろっ」


「ダ、ダンテさんがもっと早くに目を背ければよかったんでしょ!」


 ベアトリーチェの反論とともに、慌ただしい物音がダンテの耳にも届く。


 その後に、高台の床をタンタンと足で叩く音が聞こえて来ても、念のためにそのままの体勢を保った。


「も、もう乗り越えたから大丈夫だよ」


「本当にいいのか?」


「疑い過ぎだよっ」


「いーやっ。お前は抜けてるから、一度確認した後に自分を疑って更にもう一度確認しなおしてから言え」


「だ、だから大丈夫だもんっ」


 そう反論しつつもためらいがちな衣擦れの音が聞こえてきた辺り、ベアトリーチェ自身も自分のことをよく理解している様であった。


 ダンテは腕を瞼の上からどかしはしたが、まだ目だけは開けずに体を起こす。


 それからベアトリーチェとぶつからないよう留意しながら立ち上がり、ようやく両目を開けた。


「け、警戒しすぎっ。ダンテさんのいじわる」


「その言葉はあと十回鏡で自分の顔を確認してから言え」


 皮肉を口にした途端、張り詰めていたダンテの心が一気に緩んでいく。


 それで、ダンテは自分の気持ちに思い至る。


 ベアトリーチェとは気を置かずに笑いながら同じ時間を過ごすことができて、それでいて何よりも満たされた気持ちになれる。


 だというのに、自然と鼓動は高鳴っていき、もっと話したい、もっと近づきたいという感情がいや増していく。


 ダンテにとっては理解しがたい現象で、不思議と心地よかった。


「……でも良かった。ダンテさんが元気そうで」


 ベアトリーチェの笑顔を見て、ダンテは確信する。


 自分はこのに恋をしている、と。


「お父さんがなにか怒らせるようなこと言っちゃったかなって心配してたんだよ。昨日は急いでどこかに行っちゃったし……」


 ――だからこそ、離れなければならない。


 家族だからとか、そんなことよりも先に、ダンテは詐欺師であり、ベアトリーチェは貴族だ。


 一緒になれるわけがなかったし、例え気持ちが通じ合っても不幸になるだけだった。


「別に。ジェイド子爵から話は聞いただろう」


 ダンテは気持ちを切り替えると、自分の声から感情を消し去る。


 視線をベアトリーチェから逸らし、気持ちがここにない風を装った。


「す、少しだけ……。変な勘違いをしてしまったとか、私の身の上話をしたとか……」


「そういうことだ。お前に悪い所はひとつもない」


 ベアトリーチェは人の嘘に敏感である。


 ダンテがいくら嘘をつくのが得意な詐欺師であろうと見抜かれてしまうほどだ。


 だからダンテは言葉を選びながら会話を進めていく。


「で、でも今のダンテさん、なんだか……」


 ベアトリーチェがぐっと言葉に詰まる。


「なんだ?」


「……辛そう、だよ」


 感情を見抜かれたところで関係はない。


 それでも騙しきれなくては詐欺師などかたれないのだ。


「ま、本当のところ、お前が重い過去を背負ってるなってのは思ったさ」


「…………」


「だから、俺はお前の過去を背負いきれない」


 過去。


 それはダンテとベアトリーチェが兄妹だということ。


 受け入れたくはないが、受け入れなければならない。


 そうしなければ、ダンテはベアトリーチェのことをもっと好きになってしまう。


「…………」


 心を引き裂くかのような沈黙が続く。


 ベアトリーチェの表情は、無表情に近い状態で止まっていたが、瞳だけは違った。


「なんで、なんでそんなに悲しいこと言うの?」


 彼女の瞳は涙で濡れ始める。


 だが、それを見たダンテの心も血の涙を流し始めた。


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