第30幕 渇いた心に雨は降るか
「僕の言うことをきいてくれれば、君に
マルヤがまだ袴田家の座敷牢に幽閉されていたときだ。
彼を訪ねてきたエルロックは、開口一番そう言った。
ふざけるな、と返した。
喉から手が出るほど欲しい忍法帖だが、すげなく断ったのは、目の前の男を信じられないというのがまず1つ。
もう1つの理由は、マルヤが成り上がり者を嫌っているからだ。
新赤牟市は単一民族で構成される
モンゴロイドでなければ夷民なのはほぼ確実で、実際エルロックは夷民だった。
マルヤや磁駒衆と同じ、どん底の生活をしていたはずの人間だ。
それがなにをどうやったかは知らないが、下手な士族よりはよっぽど高い地位に就いている。
すごいと思う。だが、気に入らない。
「同じ夷民同士、仲良くなれると思うんだがね」
「成り上がりが仲間面するんじゃねえ」
「おや」
「成り上がりは嫌いだ。おめえらはたまたま運に恵まれただけのくせしやがって、全部が自分の努力の賜物と思い上がって、苦しんでる
正直、上流階級よりも、平民や、成り上がりのほうが夷民に対する差別行動は苛烈だ。
華族や士族はそもそも夷民と接する機会が極めて少ないというのもあるが、成り上がりは夷民を痛めつけ、虐げることで自分が夷民でないと周囲にアピールしようとする。
「個人的な怨みもある。オレの親父も成り上がりでさ。家族を置いたまま夷民街を出て、結局迎えに来なかった」
「母上は?」
「実家に帰ったよ。オレを置いて」
マルヤの母は下級士族の一人娘だった。
夷民との道ならぬ恋という、自分の頭の中で勝手にこしらえたロマンスに従い暴走した結果、一方的に恋をして、一方的に押しかけ、一方的に家族になり――そして、一方的に家族を捨てた。
夷民の血が混じった子供は要らないが、おまえ1人なら戻ってきてもよい――両親にそう囁かれ、彼女は迷いもなく我が子を捨てた。別れの言葉も挨拶もなしで。
零次と出会ったのはその後である。
母を探してそれまで行ったこともない士族街に向かい、満開の桜に見とれるうちにあっさり帰り道を忘れたマルヤは、空腹から近くにあった屋敷に忍び込んだ。
芋を2つばかり盗み食いしたところで大人に取り押さえられた。
殺されると思った。士族はとにかく怖いものと聞いている。華族に至っては、見たら目が潰れるのだとか。
「どうしたのですか」
着飾った幼児が、好奇心いっぱいにマルヤに近づいてきた。
それが零次だった。まだ心に傷を負う前、今の三果にそっくりの、天真爛漫で好奇心旺盛な。
大人たちから事情を聞いた零次は、マルヤの前にしゃがみこんで、微笑んだ。
「きみ、おもしろいね!」
捕らえられてから今まで、マルヤはずっと芋を
どうせ死ぬなら少しでも飢えから逃れたいという、あきらめと切迫感から来る行動だった。
だが、零次の目には人並み外れた剛胆さに映ったらしい。
「これもどうぞ」
近所に住む叔母からもらったというリンゴを、零次はさしだしてきた。
断る理由などあるはずもない。
マルヤは赤い果実にかじりつく。途端、果汁と蜜が口の中に流れ込んできた。
リンゴを食べたのは生まれて初めてではない。が、士族の間に流通しているそれは、夷民街で取引されるものとは根本から違う食物のようだった。
合成甘味料の押しつけがましいべたつくような甘さとは違う、細胞を潤してくれるような甘さ。幼いマルヤの目から、勝手に涙が溢れ出す。
そして種や芯まで夢中で腹に収めたあと、気がつくとマルヤは零次の世話係として屋敷で働くことになっていた――。
……マルヤはエルロックを睨みつける。
「成り上がりの1人でも、夷民街の子供に食い物をくれたかよ。暖かい寝床を用意したかよ。おまえらは故郷に後ろ脚で砂をかけるだけだろうが」
「君も成り上がりの1人だろうに。たまたま盗みに入った士族屋敷のお坊ちゃんに気に入られて養われるなんて、そんじょそこらの成り上がりが束になっても敵わない強運じゃないか」
「うっ……」
エルロックの指摘はもっともだ。
それを言われるとマルヤには返す言葉がない。
「――で? 君は故郷になにをしたのかな?」
「うるせえ!」
エルロックはマルヤを座敷牢から出した。
スティナに聞かれず話をするためだ。
もちろん逃げだそうとしたが、あっさり阻止された。
「いいかね、そのうち銀兎会がスティナ嬢を手に入れようとする」
「…………」
マルヤは黙ってそっぽを向く。
「なんとかして、それについて行ってくれ。そして銀兎会のアジトを突き止め、僕に教えてほしいのだ。教えるだけでいい。君のような子供が業を背負うことはない」
「…………」
「もし首尾良く銀兎会とその目的を叩き潰すことができたら、忍法帖を1つ進呈しよう」
ずっと地下にいたせいか、外の空気が美味く感じる。
「じゃあ、アドレスを送っておくよ。健闘を祈る」
知るか、と思った。
どうせ忍法帖は零次が手に入れてくれる。成り上がりの手など借りるものか。
そう思っていたのに。
零次はマルヤを裏切った。
復讐をあきらめさせようとしただけではない。
せっかく手に入れた忍法帖を、自分ではなくスティナに渡したのだ。
気がつくと、マルヤはエルロックのアドレスに送るメールの文面を考えていた。
そして――。
今、マルヤの足元には銀色の袋を頭に被せられた零次がぐったり横たわっている。
袋は電波保護袋だ。
精密機器を電磁波から守り持ち運ぶ際に使用されるもので、これでワイズチップ端子を覆うとネットワークから遮断することができる。ここに来る前に買ったものだ。
零次が赤い忍者を追って電夢境に入ったら、袋を頭に被せる。
それがエルロックからの指令だった。
その行為がなにを意味するか、マルヤはちゃんと理解している。
これがあれば零次の意識は肉体に帰れない。
電夢境に入るたび零次は脳の過負荷に苦しんでいたから、そのうち肉体は死を迎えるだろう。
「オレはチャンスをやったんだぜ、零次」
スティナを見殺しにし、一言謝ってくれれば。
そうすれば、すべての裏切りを許し、友達としてやっていけたのに。
背中が空虚に感じる。そこにいて支えてくれていた暖かいものが、ふと振り返るといなくなっていた。
「……オレは! こんなことじゃ! 負けねえぞ!」
なにかを振りきるようにマルヤは叫んだ。
「忍法帖を手に入れて、もっと沢山のモノを手に入れて! でもっておまえのことなんか忘れて、忘れ去って! 楽しく生きてやるよ!」
そうだ、空っぽになったのならまた満たせばいい。
失ったより多くのもので。もっともっと、たくさんの、大きなもので。
「さて――」
死体のように四肢をだらんと垂らした零次の身体を、マルヤは背負い上げた。
じきに野次馬が来て、大騒ぎになる。その前に人目につかない場所に移動しなくては。
今いる河原からアパートまでの道には、矢鶴の死体の側を通り抜けなければならなかった。
無惨な死体。衣服が混じっていなければ、人間だったものとは誰もわからないだろう。
しかしそれを見てもマルヤの心にゆらぎはない。
無惨な死体も悲惨な
「あんたが悪いんだぜ。オレと零次の間に割り込むから」
「海藤――」
進行方向にスティナが立っていた。
顔色が悪い。
マルヤは口の端を吊り上げた。
彼からすれば、獲物が自分から出てきてくれたに他ならない。
自分の未来は明るいと、マルヤは思う。
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