第17幕 袴田零源


 時刻は4時間前にまでさかのぼる。

 まだ零次が昏睡状態にあったときだ。


 袴田流剣術道場に1通のメールが届けられた。

 中身は至ってシンプル。


『今夜9時、スティナ・ドゥーゼの身柄を頂きに参上いたします。怪盗マリウス』


「――怪盗マリウスとは、確か零次が逃げる寸前に名乗っていた名前ですね」


 予告状に目を走らせた一満は、顔を上げるなり苦々しげにそう言った。

 もっとも、母親である初穂にはお見通しだ。

 なにを置いても剣の道が頭にある長男は、再戦の期待に胸膨らませているに違いなかった。


「零次……。まったく、面倒をかけてくれる」


 初穂としてはいっそあの2人を始末してしまいたいところだが、それはできない。

 零次たちを内々に処理しようとした顛末を公儀探偵に見られてしまったからだ。


 見逃す代わりに、探偵はある条件を出した。


 スティナ・ドゥーゼと海藤マルヤの身柄を、袴田家が3日間預かること。

 その間、袴田零次に手を出さぬこと。

 エルロックの指定した文面で、袴田零次にメールを送ること。

 3日を過ぎれば2人をエルロックに引き渡すこと。


 探偵がなにを考えているのか、初穂にはわからない。

 わかりたくもない。

 あまり関わらないほうがいいと勘が告げていた。


「……この件、エルロック殿に連絡は?」

「必要ありません。2人の身柄を奪われなければ、それでいいのですから」


 それとも、と初穂は仮想会議室に居並ぶ部下たちに、刃のような視線を送った。


「これが零次の仕業であれ別の誰かであれ、袴田家が盗人ごときにおくれをとると?」

「い、いいえ、まさかそのような」

「そうでしょう。そうあらねばなりません。私は今夜は藤堂様と会食があります。綿貫、一満、後のことは任せましたよ」

「はっ、お任せください」


 後のことは部下に任せ、初穂は廊下に出る。

 そこで初穂は突っ立っていた何者かにぶつかりそうになった。

 怒鳴りつけようとして、だが踏みとどまる。


「あら。帰っていらしたのですね。珍しい」


 廊下に立っていたのは、背広に丸眼鏡をかけた痩せぎすの中年男だった。

 袴田零源れいげん――初穂の夫であり、一満や零次、三果の父。


「な、なにか、た、大変そうだね」


 どもりながら、遠慮がちに、夫は言った。

 その気遣いはむしろ初穂の神経を逆撫でする。


「あなたには関係のないことです」


 零源は道場経営には一切関わっていない。

 剣を握ったことなど1度もないし、そもそも士族ですらなかった。

 市役所の陰陽課に勤める、袴田家よりも格の落ちる下級華族出身の小役人だ。

 初穂、いや袴田家においては夫・父親という椅子を埋めるだけの存在。

 

 ただの政略結婚だ。夫婦としては最初から愛情などない。

 互いが互いの立場を最低限果たすだけ。お互いに干渉することなく、それで上手くやってきた。

 だがこの日、零源は、脇を通り抜けようとする初穂の進路を塞いだ。


「なんですか」

「わ、わた、私も、協力しようと思う」

「なんと……?」

「は、話は聞かせてもらった。わ、私にいい考えがある」


 無用の一言で切り捨てようとして、初穂は寸前で思いとどまった。

 なにが夫に気まぐれを起こさせたか知らないが、たまには顔を立ててやるとしよう。


「とりあえず、話してもらえますか」

「か、簡単な話だ。賊は、その少女がこの屋敷にいると思い込んでいる。だから、そ、騒動が起きている間、わ、私が問題の少女を別の場所に移す」

「なるほど」

「つ、ついては牢の鍵と、く、車のキーがほしい」

「わかりました。綿貫に話しておいてください」


 日頃覇気のない仏頂面で表情筋を固定させている夫は、彼なりに嬉しそうな笑みを浮かべた。

 本当に、どういう風の吹き回しだろう。

 初穂は去っていく夫の背中を見つめていたが、やがて興味を失って、自分の行くべき場所に向かって歩き出した。


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