76.恋の病と麻疹
「…………」
アビゲイル氏は何も言わず、僕の言葉を待っていた。
おかしな錯覚に囚われている場合ではない。
彼女もせっかく忙しい中、時間を作ってくれたかもしれないのだ。
時系列が崩れてしまうかもしれないが、ひとまず僕は幼馴染に感じた違和感、赤黒の霧、不気味な光景。
それらについて箇条的に説明した。
その間、彼女は柔らかい物腰で相槌を打ち、たどたどしくも僕は喋るほど少しずつ饒舌になっていく。
彼女は医者であるはずだが、それは病気の診察というより、聞き上手な親しい友人に近い話しやすさ。
時間にして10分くらい。
一部は伏せて、一通り話し終える。
伏せたのは主に、結城に包丁で斬りつけられたことだ。
オブラートに包み、激しい喧嘩程度のニュアンスにして伝えた。
「…………」
アビゲイル氏は聴き終えると、すぐには返答しなかった。
顎に指を当て、ネイルもマニュキアもしてない綺麗に切り整えた爪で顎先を掻く。
なんだろう……。
僕の説明を精神医学の何らか……マニュアルか知識かに照らし合わせて解釈してくれているのだろうか。
それまで相槌を打って会話を幇助してくれていただけに、急に黙られると圧迫を受ける。
沈黙がここまで不安になるものだとは思わなかった。
まさか自分で思っている以上に重度の精神病なのか。それとも僕の挙動や口調から、伏せた話しの部分を嘘と看破したのか。
彼女が口を閉ざしていたのは実際には10秒少しだっただろう。
しかし数分の長さを体感した。
やがて彼女が軽く微笑んで言う。
「それは、恋の病ですね」
「…………え?」
言葉の意味が飲み込めなかった。
予想していた、なんたらかんたら症候群とかうんたらかんたら障害などといった、小難しい単語を羅列した病名が返ってくるかと思ったからだ。
あるいは、「そんなもの病気でもなんでもないですよ」と僕の思い込みを指摘するような。
「恋の……なんですって?」
「恋の病です」
彼女は変わらず穏やかな微笑を浮かべたまま答える。
ハッキリとした断定。
その推察に間違いなど微塵も生じないという、強固な意思を含んだ口調。
「あの……赤黒い霧とか、結城の豹変とかも、ですか?」
「えぇ、ただの気のせいです」
そんな馬鹿な……。
今までの数々の異常が気のせい……? そんな馬鹿な。
「あのおかしな世界とかも、ですか? 僕の脳に異常があるとか?」
「CTで脳を輪切りにでもしないと傷があるかは分かりませんが、少なくとも今私が話している分には、夕暮さんは正常です」
「……そんな」
正常……。
望んでいた言葉のはずなのに、酷く否定したくなる。
それはおそらく、あんなイカれた物を見てしまったのに扱いが軽くて悔しい、ではなく、あれらを正常とするなら手の施しようがないという、解決手段の消滅に対する落胆。
「……少し、言い方に語弊があるかもしれませんね。恋の病というのは、麻疹(はしか)のようなものです」
「麻疹……?」
「えぇ、思春期という多感な時期に恋をした夕暮さんは今、混乱しているのでしょう。恋愛とは自分1人で完結する感情ではありません。自分と誰か、あるいはそれ以外が相互に作用する複雑なアタッチメントの形成過程……人格形成のプロセスです」
「人格形成……」
「人の心は複雑で、脆く、簡単なことで変形してしまいます。10代前半は身体的な成長と共に、心も成長段階で不安定なものです。自分だけでなく、他人から受ける影響もとても鮮烈となるでしょう」
「心の変形……」
確かに結城から告白されて、付き合って、別れ話を経た刃物沙汰。
動揺や困惑による心の変動は著しい。
「人の目も網膜とレンズの焦点が結ぶ像が本当の姿、とは限りません。幽霊の正体見たり枯れ尾花。人間の五感なんて、存外いい加減なものです。ほんのちょっとの外的刺激で誤作動を起こします。赤い物も青いと心から信じれば青く見え、熱い物も冷たいと信じれば冷たく感じる。心象から受けるイメージによって、夕暮さんの目に、現実に存在しない物が映ってしまったのかもしれませんね」
何度か考えた仮説。
結城の凶行を除けば、他の全ては僕の視界上で起きたことしかない。
怪我をしたとか失ったとか、物質的な証拠は何1つ残っていないのだ。
幻という答えが、全てを解決してしまう。
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