昼休み

 丈二さんは木の根を枕にして草の上で昼寝をしていた。私が近づくと顔だけ上げてこちらを見た。

「いい日和ですね」私は声をかけた。気づかれたら何か言おうと思っていた。

「どうも。あの壁の内にいると時々息が詰まるんですよ」

「聞きたいことがあるんですが」

「何です?」

「月夜さんに置き去りにされた人々が自力で宿に戻ってくるということはなかったですか」

「ないですね。誰も帰っちゃこられない」

 私が横に座っても丈二さんは体を起こさなかった。

「明るくなるまで待っても?」

「明るくても歩き方を知らなければあまりに険しい道ばかりですよ。それにこの森の闇の中で一人にされて冷静でいられる人間もそうそういないでしょう。そもそも、それだけ冷静な人間なら月夜を襲ったりはしない」

「彼らはどこへ行ってしまうのでしょうか」

「どうですかね。さしずめ崖から落ちた後川にでも流されていっちゃうんじゃないですか。雨が降ればどこの谷でも急流ができますし、このあたりは雨が多いですから」

「下流でどざえもんが上がったというのは」

「さあ、そういえば聞かないですね。連中の末路をあえて知りたいとも思いません。月夜の仇ですからね。警察にも言ってないですが、同じ理由ですよ」

「月夜さんが道案内をしているのはこの十年くらいですか」

「そのくらいじゃないですか。僕が来た時にはもうやっていましたが」

「その前は道案内がいなかったんでしょうか。お父上から何か聞いたことはありませんか」

「なるほど。でもないですね。聞いたことない。あまり会話の弾む間柄でなかったというのはあると思いますが」

「そうですか。いや、質問攻めで申し訳ありません」

「いいですよ、別に。でも松原さんのスタンスは少し珍しいですね。月夜の話を聞いて笑い飛ばすでもなく、詳細を知りたがるわりに怖がっているわけでもない。なんだろう。もしかして人の死が珍しくないのかな。警察にいたとか」

「私はこの三十年来出版界の人間ですよ」

「なんだ、そうですか。こっそり捜査に来たのかと思った。それで月夜を連れて行くなんてことになってたら困ってましたよ」

 丈二さんも口ぶりの割りに私の質問を嫌厭してはいなかった。

「丈二さんは彼女を信頼しているのですね」

「でしょうね。好き、という言い方をしてもいいでしょう。松原さんは月夜のそばにいても欲情を感じませんか?」

 私は笑った。

「感じません。確かに彼女は綺麗です。私があと二十、いや、十歳若かったらあるいは感じたかもしれませんが、今の私はもう枯れた男ですから」

 丈二さんは溜息をついた。

「僕は感じます。それもかなり強く。おそらくそれは月夜を襲ってきた男たちが抱いていたのと同種の衝動ですよ。僕の場合はただ仕事という縁によって許されているだけで。時々自分が嫌になります。わかっていても求めてしまう」

「左様ですか」

「僕は月夜をこのデカダンな世界から逃してやりたいんです。でも外に出た月夜にとっては僕なんか何の意味もない存在に成り果ててしまうでしょう。そんな予感があって、どうしてもやりきれないんです。複雑です。あなたならどうしますか、松原さん」

「私は当事者ではありません」

「仮にあなたの愛すべきものが不当に囚われているとして、ですよ」

 私は少しばかり腕を組んだ。

「私が思うに、人には一生の使命というものがあります。もしそれが使命であるなら、遂行するでしょう。たとえ報われなくても。たとえ一時の安寧を失うとしても。それはきっと私という人間がこの世界に存在させられている意味ですから」

「そうですか」

「いえ、所詮部外者の戯言です。私にはあなたの心を完璧に推し量ることなどできない。至らぬ想像だと思って聞き流してください」

「ええ」丈二さんはやや上の空に頷いた後、起き上がって背中を払った。

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