薫子と幼君と神君家康公



「君、申し訳ないんだけどね」

松村が困ったように言ってきた。


曰く

なんだかんだと言っても、跡取りはやはり薫子の血が入っていないと薫子の里にも申し訳が立たない。


「でも彼方も、とっても喜んでおいでなのよ」


「でも……それ、僕の子だよね」

松村が不満そうに口を尖らせる。



本物のお茶々姫との子が女の子で、その上あまりの難産にその後子供は望めないというのもあるのかも知れない。

この明治という時代は、まだ男児のみに相続権がある。

だから薫子との間の子供は、松村家の跡継ぎとして必要というのは分かる。



確かに薫子は薫子で

(もし、ここでこの子を松村に渡せば、歴史は神回避出来るんじゃ……)


歴戦の勇士で家臣団の結束の強い徳川家と、秀吉のカリスマ性で持ってる新興勢力の豊臣家では、あの干し柿殿下御逝去後、勝負にならない事はわかる。


天下、天下と大蔵卿局たちは気楽に言うけれど


実際問題、政治の世界は複雑で、薫子の力では、豊臣家程度の緩い地盤の上で、膨大な家臣団を取り纏め、問題を解決し、食べさせていけるとは思えない。

太平の世から動乱の時代を生き抜いた貧乏大名の家は、人をリアリストに育てるのだ。


側室の一団なら、道はひらけなくもない。

しかし、鶴松はあまりにも可愛らしい。



だが


二歳を迎えた可愛い盛りに、鶴松は病を得てしまった。


乳母の腕の中で、青ざめた顔をして、はぁはぁと苦しげな息をしている。


「もしかしたら、あちらへ連れて行けば、助かるかも知れないわ」


薫子が言うと、大蔵卿局が

「是非も御座りますまい」

あちらへ渡すのを勧めた。


「命あっての物種で御座り申すよ」


そういった大蔵卿局が、最後まで鶴松を抱きしめ、何度も頬ずりをした。


この幼君おさなぎみを手に天下を掌握し、野望を遂げたいのは山々だが、可愛い顔を青くして苦しむ和子を見殺しにはできない。


そして


無事に薫子の手から、明治の乳母の手に渡された鶴松は明治でスクスク松村家の嫡男として生きることとなり、甥っ子の秀次公が正式の跡継ぎに指名され、関白を叙位された。


これで、豊臣家と徳川家が争う事になっても、薫子達は関係なくなる。


歴史は回避できたはず?


「天下よりは命あっての物種よね」


薫子は涼しい顔で、寝椅子に横たわり、ちょっとばかりガックリした大蔵卿局たちを慰めた。


その間も「茶々が子を産んだ」というので、「寄越せ、寄越せ」と大騒ぎをしていた北政所さんたちが

「嫡男なのに取り込んで育てているから、死んだんだ」

なんぞ、不埒なことを言ってきて、イケズをしてくる。


 それはこっちへ来てからちょっとした頃の話である。


「お茶会します」というので行ったら、嬉しそうに黒百合を一輪活けていて

「なかなか手に入らない貴重な百合で」

大事そうにしていた。


「我が領地にはムッチャ咲いてますで」

今は干し柿殿下の御伽衆として細々として生きる佐々内蔵助成政が、薫子に進言した。

「あら、じゃあ、贈って差し上げて」

佐々氏が気を利かせてありったけの黒百合をプレゼントしたら、なんということか、

「二之丸(薫子)に恥をかかされた」と大激怒。


それから、何だかんだと言いがかりを付けてくるようになった。



「放っておきなさい」


薫子は孔雀の扇子の下であくびをしながらそう言ったが、侍女レベルでは対立が深まっている。



薫子は、キャットファイトには興味はない。

それどころでは無いのだ。


一つは、徳川の世になった時の身の処し方だ。


「大体、豊臣家なんて大名家、存じませんのよ」

つまり、滅びるという事じゃないか。


そうした場合、松村のところでのんびり過ごしているあの「お茶々」には、いわゆる実家はないも同然。

叔父や従兄弟もいるが、力にはなってくれても、引き取る程の力は無いらしい。


「出家なんて辛気臭いことはしたくないし」


乳母三人衆の一人、大局の亡き夫は信長公の小姓で、その兄が加賀百万石の祖、前田大納言利家で子供達はそこで育っている。

前田家はご維新まで生き残っている。


頼れるか……


それとも、商人に伝手を求めた方が堅実だろうか。


或いは……


ピシッ

薫子は孔雀の扇子を鳴らした。


「これは秘密裏に行う必要があるわ」





「殿……」


折しも京の上屋敷に戻った、後の神君家康公、徳川次郎三郎家康は、ザル一杯の草を持っている小姓に目を向けた。


「それは?」


「はい、大蔵卿局から頂戴しもうした」


「大蔵卿局……」


と言うと


「二之丸殿(茶々)?」


左様でと頷く小姓を見て、家康は思いもがけない事に小さな目をしばたかせた。

「なんで?」



なんでかは定かではないが、それから度々二之丸殿から、山菜やら雑草が届くようになった。


「どして?」


とは思うが、何と言っても元天下人の姪御前で、現天下人の寵妃だ。

相手が相手だけにお礼を言わねばなるまい。




「何か、お返しに適当な物を贈っておけ」

と言ってもこれが貴重な茶道具とか、右府殿由来の何かとか……

せめて珍味とかだと、前例もありお返しに悩まずに済むが



「草ねえ」



「しかも、二之丸殿、自らお採りたもうた草とのこと」


「まさか……そんな」


そう言えば、二之丸殿はかの右府殿が乗り憑っているとかいう、胡乱な噂がまことしやかに流れている。


右府殿が本能寺に斃れて十年。


豊臣家の天下に不服を覚えている者たちの戯言ざれごとであろうが。



その方が?

なんで?


「そういえば」


接待のために自らヒネリ菓子を作ったり、嫡男の息子共々接待のために、自ら客の盆を運んだり、客の満足度を伺いに変装して忍んでみたりと、常識にとらわれぬ右府殿なら左様なことをせぬとも限らぬ……


ふっと家康の胸に、手ずから作った菓子を勧めてくれた、あの懐かしい、日に焼けた笑顔が迫った。


あの天を駆けて消えていった、鮮烈な背の高い男の姿。


「行ってみねばなるまい」



万事慎重なこの男の胸に、珍しく好奇心が蠢いたのはかの懐かしい右府の面影のせいだった。


そして後々、やっぱり好奇心なんて碌なもんじゃないと後悔をするのだった。



それは、まぁ未来のことで



「あらまぁ内府殿。わざわざのお越し、痛み入って御座いましてよ」


綾錦の打掛を裾をさばいて、天下人の寵妃が入ってきた。


天蓋付き寝椅子に横座りに座った、大柄な美女が艶然えんぜんと微笑む。


「さあさ!遠慮なくお顔をお上げになって!さあ!」


長い間、病がちと言うので臥せり、顔を見かけることも無かった。


(えらい健康そうな)


華奢でおとなしげで、と噂に聞いて居たが、抜けるように白い肌という以外は、合っていない。


(得てして噂など当てにならぬものじゃ)


しかし



背が高く面長の白皙の気の強そうな眼差し……

似てるといえば、似ている。


あの噂の方は本当だろうか。


神君家康公は、いかにも謙虚に微笑みつつ、心の中で値踏みを続けた。



しかし、相手は何やら頬を染めて、大きな瞳を潤ませ、息を弾ませ、こちらに身を乗り出し、ガン見してくる。


(こ、これは?)


薫子からしてみれば、何と言っても偉大な権現様、始祖家康公である。


(ああ〜、写真を撮らせて実家やお友達に自慢したいわ!)

今は亡き世界的なアーティストにあっているようなものである。

(一緒に肖像画を描かせて下さらないかしらぁ)


固太りの小柄な体も

田舎臭い顔立ちも

ギョロリとした眼差しも



「流石、神君家康公!」

と薫子の中では、凛々しい武者ぶりに変換される。


ぐんぐん盛り上がっていく薫子とは反対に、所詮しょせん水面下では敵対関係にある男の庇護下にある女に、潤んだ瞳で見つめられる覚えのない家康公は盛り下がる。


怪しい。

可笑しい。


右府殿でなくとも、何かに取り憑かれているのかもしれない。

多分そうだ。


それともハニートラップ?


(これは早々に立ち去ったほうが良かろう)


それ故に後に天下を取る事となる、並並ならぬ用心深さでその男は思った。


「結構な物をかたじけのう御座る」



そもそも一本取られたやもしれぬ。


(非礼に当たっても、家臣を寄越すべきだったな)


つい、好奇心を刺激されてしまった。



「ご趣味にあいまして?」


キュッと唇を吊り上げて薫子は微笑んだ。

右の頬が少しだけ高めに上がるのは、薫子が超ご機嫌な証拠だ。


え……


家康は顔を上げた。


強い意志を秘めた黒い輝く瞳がこちらを見返してくる。



「大和芋はお体に良いとお聞きしましてよ」


「ああ!」


家康は膝を叩いた。


なるほど!


「これはわざわざ」


(先ずは一手)

薫子はニタリと笑った。



私は貴方のことを知っている。


目の前の女は、そう言っているのだ。


ここまで家康を引き出した手口といい。

漢方の趣味まで調べあげたことといい。


なるほど。


これは並々ならぬことだ。

すいっと冷静な政治家に戻った家康公は、目の前の女に問うた。


「二之丸殿に置かれましては、何を所望されておられ申すのか」


「あら、他意は御座いませんことよ。

ただ、頼むべきは内府殿。

よしみを通じて頂ければと存じ……」



薫子は扇で口元を隠して、目で微笑んだ。

家康はその瞬間、体を強張らせた。


(こ、これは!)


家康はスッと体が冷えるのを感じた。



そんな二人を能面のような顔で観察しつつ、脳内で大蔵卿局は怪しく身を揉んだ。

(狸親父と噂が高く、上様ですら異常に気を遣われている内府だいふ殿を、我が大方様はなんとも小気味好くあしらっておいでじゃ!)


これぞ、天下の器!


幼君を明治に渡らせて鎮火したように見え、実は燻っていた野心の熾火が赤らむのを感じた。


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