薫子と北政所と乳母の野望


 漏らしてはいけない、流してはいけない。



「ここだけ」の禁忌きんきの噂話こそするは楽しい。


それはありがちな人間心。


そして、その噂に尾鰭おびれ背鰭せびれがついて行くこそ、世の習い。



それは表立っては現れないが、地下の伏流水のように静かに、静かに流れ始めた。




そんな事は知らぬ薫子の日常は、松村の屋敷にいるよりもずっと快適なものになってきた。


商人、職人たちを大いに感心させながら、注文が一段落すると、住んでいる屋敷の偵察に行こうと薫子は思いたった。


思い立っても、一人でお散歩とはいかないのが姫君だ。

薫子の前には露払いのお侍女が立ち、薫子の後ろには乳母の大蔵卿局、饗庭局、大局たちが、そしてぞろぞろと薫子に傅く侍女たちが一団となって続くという、白い巨塔もびっくりな物々しさだ。



 という事で、薫子は打掛をさばきながら、磨きたてた廊下をお侍女たちを引き連れてゾロゾロと歩いていると、向こうから小柄な恰幅の良いおば様がこちらも侍女団を引き連れてやってきた。


「き、きたのまんどころ様に御座り申す」


 薫子がもう少しきめ細やかな性格だったとしたら、露払いのお侍女の声の中のいまいましさ、或いは敬いなどの複雑な感情がわかったかもしれない。


よくいえば大らか、悪くいえば大雑把な薫子である。


それでもまだ武家の上位の奥様を表す『御台所様』『御簾中様』なら恐れ入ったかもしれないが


「北政所」



北野の饅頭を作るところ

とは言わないが


何それ美味しいの

である。


情報も教育も現代のような、グローバルに展開されている時代ではない。

太閤豊臣家のことなど知らないのは、薫子が無教養なのではなく、幕府による情報操作の賜物である。

何と言っても徳川政権下では、神君家康公の前の天下人である太閤殿下なんぞ、前右府様以上によろしからぬ人物で、教養豊かな薫子といえども、サラッと聞いたかしら?という程度。


いわんやその奥方の北政所寧子なんて知った事ではない。



「あらそうなの」


薫子は鷹揚おうように頷いた。


「ご挨拶を」


微かに薫子の袖を引いて大蔵卿局の囁く声に、薫子はにっこり微笑んで、北政所に挨拶をした。



「あら、きたのまんどころ様、御機嫌よう」


 渡り廊下に存在する薫子以外の人間は、ギョッとして、廊下の中央に、恐れ入るでもなく、むしろ威風堂々と立ち、婉然えんぜんと微笑みを、この奥で最高位に当たる正室に向けてくる、不遜ふそんなほど自信満々の背の高い女に呆然ぼうぜんとした。


「お。お。

これはご気分が優れずせっておいでと聞いておったが、元気になられたようでよう御座ったのう」


背の低い、太りじしの女が引きつった笑顔を薫子に向けた。


(え……確か、お茶々といえば、吹けば飛ぶようなナヨナヨとした影の薄い女だったはず)


顔を強張らせた北政所とその正室付きの侍女の皆さんは、頭に盛大な「?」を乗っけまくった。


(お元気になられて、お人がわりをなさったようなと聞いてはいたが)

(いくらなんでも、これは……)


(別人?)


大蔵の局は「お見舞いを頂戴し申した」とささやいた。


薫子は微かに頷くと

「先般は佳き品を頂戴し、ありがとう。

きたのまんどころ様におかれましても息災げに遊ばし何より。

しかながら、何やら気候も優れぬ様子、お体にはお気をつけ遊ばして」


悪びれぬ態度に、ご丁寧に上から目線の慈悲までにじませて締めくくった。


 かたや織田家の歩兵の娘で二十も越えた頃に城主夫人として成り上がり、気さくさを表に出して人心掌握じんしんしょうあくに励んでいる女と、没落しかけの大名家とはいえ何と言っても室町幕府の初代足利尊氏の末裔という大名中の大名にして、徳川三百年の熟成された歴史に包まれ、公家の血をもひく生まれながらの御姫様おひいさまの薫子である。


何と言っても、風格が違う。


その上、乳母に溺愛され尽くして育まれた、自己肯定感の高さは、大気圏を突破するほどの勢いの薫子である。



あまりの泰然さに北政所に侍っている侍女たちも、諌めるという気持ちさえ起こらず、ただ呆然と薫子を見るしかない。


その沈黙を「会話はおしまい」という合図に受け取った薫子は

「それでは、きたのまんどころ様、ご機嫌よう」

はらりと扇を開くと、口元を隠し、目だけで微笑むと、スルスルと歩き始めた。


それこそ公家風に厳しく立ち振る舞いを指南されて育った薫子はその所作に、まだ混然として洗練されていない戦国期の武家の物とも比べられない程の女王然とした気品が溢れている。



「やはり……あの噂は」



侍女の一人が同僚に囁いた。


「しっ!」


大急ぎで口に手を当てたその侍女の顔も青ざめていた。


(右府様が乗り憑られた)

(やはり……)






 呆然と立ち尽くし、薫子一行を見送る北政所達の姿が見えなくなると、薫子の侍女達は笑いさざめき出した。


「見申したか、あの顔」

「いい気味じゃ」

「これ」

自らも緩む頬を引き締めて、大蔵卿局は侍女達を戒めた。


側室がひしめき合う聚楽第で、元歩兵の娘の正室に苛立ちながら、「元は主家の血筋」だけを頼りに、肩身狭く過ごしていた侍女団の鬱憤うっぷんはなかなかのものがある。

その上、何しろまだ幼いが、もっと主筋の「前右府様の娘」たる三之丸が着々と、茶々の座を侵さんばかりになっている。


それがこれである。


「あなたたち」

眉間に僅かにしわを寄せた薫子が振り向いた。


は!

付き従う侍女たちは一斉に身を屈める。


「どうかしたのかしら。うるさくてよ」


薫子は不快そうに横目で見る。


「あ、これは。」

「申し訳御座りませぬ」

「さぁさ、早う参られませぬと」


(こんな爽快な気分は久々じゃ)

侍女たちはほくそ笑みながら頷きあった。






(成金趣味…あまりにも酷くなくて?)


薫子は聚楽第を一周してうんざりと呟いた。

豪華絢爛ごうかけんらんにして、壮大華麗そうだいかれい


これでもか!

これでもか!


執念のように金箔を貼りまくった柱に、金色の襖。

所狭しと彫りまくられた、透かし絵の欄干に障子。

天井絵も襖絵も、「見て!見て!」大騒ぎをしているような極彩色。

磨けるところは、磨きまくった廊下。


餡蜜あんみつの上に練乳と蜂蜜と生クリームをかけたようだ。

コテコテ過ぎて、抜けのない空間は、息苦しく評価を迫ってくる。


(一体、どうしたことかしら)


薫子はため息をついて居室に戻った。


「はぁ〜」


ロココ調の白く塗った猫足に、ブルーの縞に可憐な花柄のクッションをつけた寝椅子に横たわり、薫子は侍女たちに優しくグルーミングをしてもらう。


「なんとまぁ」

髪の毛は黒々と美しく流れ、乳のように白く滑らかな腕は嫋やかだ。

(なんとお美しい)

大蔵卿も目を細めて、我が降臨して着た姫君を誇らしげに見つめる。

(後はなんとか、上様の気を今一度ひいて)


和子など万一できれば……


無理な願いかもしれないが……


なんとなれば、かの太閤殿下は「種無し」だという噂だ。

正室の北政所を筆頭に、奥に蓄えた何十、何百という女たちは誰一人として子を成さない。


遥か昔、長浜に住んでいる頃、側室にお子ができたという噂もあるが、それっきりである。


でも

もしかして

この姫なら


大蔵卿局の野心はメラメラと燃え上がる。


今は太閤殿の姉君の息子が天下を継ぐ予定だ。

しかし、流石の太閤殿とて可愛い我が子の顔を見れば、家督を譲りたいと思うはず。

そうなれば、老い先短い太閤殿のことだ。

すぐにでも次の天下は我が子にということになるはずだ。


男なら万々歳だが、女だとて主権は姫に行くはずだ。


そうなれば、お子が大きくなるまでは、後見役がつくはずである。


そこはそれ、これはほれ。


お茶々様の乳兄弟たる我が息子、大野修理治長を推して、天下が主権は我が物に。


これは好し

良き事じゃ


戦好きのおのこなぞもう要らぬ。

我ら女どもこそ天下を掌握し、平和な世の中を創るべし。


その為にはこの姫に、なんとしてでも和子を一人ほど。



なでなでと怪しげな目つきで薫子の腰のあたりを撫で回す、乳母に侍女たちはドン引きの眼差しを向けた。




 「はぁ?子どもを産め?」

大蔵卿局の言葉に、薫子は笑った。


目の前で、ウンウンと大蔵卿局は小さな瞳を精一杯大きくして頷いている。


「真っ平、ごめんだわ!」


薫子は、勿論、その太閤殿下とやらの子供など産むつもりはサラサラない。

子沢山命で、ちょっと貞操緩めの戦国期とは違い、江戸末期に生を受けた薫子はこう見えて儒教バリバリで操は固い。



薫子の決意が固いと知れると、大蔵卿局は、同僚の乳母シリーズ、大局と饗庭局たちに相談を持ちかけた。


とにかく薫子の機嫌を損ねるつもりはない。


「これは、万事、策が必要じゃ」

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