薫子と明治の居間と溺愛老女



「あらまあ、帰って来ちゃったわ」



薫子は自分の寝室でぱっちりと目を覚ました。


有閑マダムの薫子は、カーテン越しに部屋へ入ってくる既に高くなった陽の光の中、


んんん〜と体を伸ばした。


花色の軽い羽毛布団の中で、白絹の滑らかな敷布の上を侍女たちのお手入れの行き届いた桜色のつま先がシュルシュルと伸びていく。


はあっ


体の中に溜まった夜の吐息を吐き出して、すっかり目が覚めた薫子は、むっくりと体を起こした。


どう見ても、明治の薫子の部屋だ。

あの気味の悪い天井も、ジジと音を立てる灯台もない。


「夢だったのかしら。あら、まぁ、残念ですこと!」


しかし、視線の先で薫子のほっそりした陶器のような腕が、白い艶のある着物の袖から出ている。


(あらまぁ、これ……)


薫子は着ている、真っ白の絹の小袖を見下ろした。


小袖の寝間着など、結婚以来着ていない。

もっというなら、貧乏を極めていた実家の、襟や裾の擦り切れた小袖とは比べるのも、申し訳ないほどの、折り目の詰んだ上質な、しかも新品の小袖だ。


「夢ではないわけね」


にっこりと紅薔薇のようにあでやかに微笑んだ薫子は、お腹がペコペコなのに気がついて、侍女たちを枕元の鈴を鳴らして呼んだ。



「あのぅ、お姫様ひいさま、その小袖はぁ……」



老女が、不可解そうに薫子の着ている小袖に目を留めた。

松村には、素気無い態度の老女だが、目の中に入れても痛くない程可愛がってきた薫子には、何かと低姿勢である。


まだ幼い頃に薫子は熱病に罹患して、生死を彷徨った。


しかも丁度その頃、下に嫡男になる弟が生まれ、屋敷中の関心が一気にそっちへ奪われ、それまでの溺愛が嘘のように、熱病に罹った薫子は二の次になってしまった。


それがショックだったのか、熱病で脳がやられたのか、薫子は恐ろしく吹っ切れたお転婆の姫になってしまい、乳母の老女はもう不憫で不憫で、一身をかけて守り育ててきた。


「懐かしくなくて?昔はこうだったわよね」


薫子は老女に向かって、華やかな笑顔を向けた。

紅の唇に引き立てられ、白いクリームのような滑らかな肌が匂い立つようだ。


「はぁ、左様でございますね」


育ちが良すぎて、大雑把というのか、何事にも泰然としているのが、薫子の最大の長所であり欠点だが、それは献身的すぎる老女の養育の賜物かもしれない。


「あのう、お姫様、その小袖は何処いづくかでお召し替えになられ申されました?」

老女はジノリのカップに紅茶を注ぎながら、我慢強く問いかけた。


「え?あ、そうね。貸して頂いたの。

返せるかしら。

あ、それ、ミートパイをもう一つ頂ける?」


(ですから、どこで!)


老女が聞こうとした瞬間、

「あ……」

薫子はグミのように紅く形の良い口元を、まさに白魚という例えが相応しい白い指で押さえた。

見開いたアーモンドのような大きな瞳が、昼に近い陽の光でキラキラと輝いている。


「着て行ったお寝間着はどうしたかしら、あれ、作ったばかりのお気に入りだったのに」


(だから!)

「それは、何処いずくかにございまするか」


若い侍女が銀の盆に、チョコレートを入れたガラスの器を運んできた。


「そうね、聚楽第って言われたわよ」


その若い侍女が手を滑らせて、ガラスの器がテーブルの上に不時着してガチャと音を立てた。

「も、申し訳ございません」


「大丈夫。気にしなくて良いことよ」


薫子は鷹揚おうように頷くと、ミントの葉を添えたそれを摘むと、口に放り込む。


「じゅ……

あ、あ〜?左様にござり申すか」


じゅらくだい……


聞き間違えとは思うが、もしかしたら


甲斐甲斐しく給仕していた侍女たちは、思わずお互いの顔を探るように見合った。


(お家大事で無粋な成金との婚儀を受けられ、高貴なお心にご無理が出てわずらわれておられるのかも)


(何かと無教養で荒々しい婚家のお相手で、お疲れ遊ばされておられるのでは)

侍女たちは目配せしあった。


侍女たちの目から見ると、全く松村という家は恐ろしく俗物で、薫子の好意を理解しようともしない、不届きな存在だ。


それはもう、信じがたいほどだ。


更に老女は、薫子の境遇の不憫ふびんさに目頭を熱くした。

(元々は清らかで大人しいご性質であられたのが、熱病と弟君の誕生でお弾けになられ、このような奔放なご気性に。


しかして、元は繊細で健気なご性格。


それを健気にお隠し遊ばされ、この度のご婚儀で更に……


ああ……なんとも、おいたわしい私のお姫様。

この、この乳母だけは分かっておりますぞ!)


乳母はあの若い頃にこの胸に抱きしめた、色白の麗しい赤子の姫を思い出し、クッと握った拳に力を入れた。


(この!乳母めが、一命をかけてお守りし申し上げます!)


その間も、老女の強い決意と侍女達の困惑を意に介さず薫子は林檎ジャムをつけたワッフルを頬張り、ビスケットを摘み上げた。





「もしカラクリがあるとすれば、この洋燈ね」


大名家の奥は迷信の宝庫でもある。

純粋培養の薫子の順応性は高い。


一気に洋燈のカラクリで自分が「聚楽第」とやらへ行ったことを受け入れた。


そして、再び行く決意まで固めた。


(面白そうじゃなくって?)

薫子は鼻歌を歌いながら、洋燈の金色の縁を撫でた。


「あ!そうね、まずはお約束を決めなきゃ」


自らの寝室で、薫子は頭を捻った。


「人と会っているときに呼び戻されたんじゃ、たまりませんもの」


多分、大蔵卿局おおくらきょうのつぼねとやらが言っていた「姫」が自分の代わりにここへ来ている筈だ。

その姫によくお願いしておかなければ。


薫子は、机から紙と筆を出すと、サラサラと勝手に決めたルールを書き記し、文箱に入れた。


「代わりの聚楽第の姫様へ」


文箱の上に付け紙を置く。


「この文箱にその日、あったことを書いて入れれば、万事辻褄もあってうまくいくわ」


薫子はつややかな白い指を、造形物のような顎に当てた。

上機嫌な証拠に唇の右側の端がキュッとつり上がっている。


「それから」


薫子は手を叩いて、侍女たちを居間へ呼ぶと


何があろうとも寝室には入るな。

用事は前日の夜までに知らせろ。

急な用事はお断り。


など、細かく申しつけた。


「しかし、松村様がもし御渡りになられたら」

侍女が困惑して、薫子に訴えた。


どう失礼で無礼で、無粋であろうとも、松村が薫子の旦那様であることには変わりがない。

明治期の家長制度では、松村の父親が最高権力者だが、嫡男の松村だって、No.2である。

気に食わないとなって追い出されでもしたら、大変である。


「いいえ!私が!」

溺愛老女が胸を張った。

「この乳母めが!責任を持って、旦那様を追い返します」


フンガー


(お姫様が快癒されるまでは何としても)

涙ぐんだ瞳でキッと虚空を睨む。


「あ、ああ、そうなの?それはありがたくってよ」

使命感に燃えた乳母は手がつけられないことを知っている薫子は苦笑いを浮かべてソソクサ寝室に引き取った。



「さてと!」


薫子は、聚楽第の我が居室の模様替えのために、洋燈に灯をつけた。



「行きますわよ!」



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