ホール

川崎涼介

第1話

「昨日18時頃、○○市の交差点で、乗用車が誤って、通行人の女性を撥ねる事故がありました。女性は、意識はあるものの、重体の為、現在も病院で治療を受けております。車を運転していた60代の男性は、その場に居合わせた警察官に現行犯逮捕され、警察署で事情を聴いており、容疑が固まり次第、過失傷害罪で逮捕する方針です。」

テレビからアナウンサーが、淡々に事故のニュースを伝えていた。それをベッドで半身起こしている女性が視て、近くに立っていた男性に尋ねた。

「ここで言われた女性が、私、ですか?」

「はい、そうです。ベル・ミュラーさん。」

そう言われた女性は、怪訝な顔をして、また尋ねた。

「今言った、ベル・ミュラーが、私の名前、ですか?」

「はい、そうです。」

彼女は、しっくりこなかった。自分が、ベル・ミュラーだと他人に言われても、何が違うような感覚が、体中を這いずっていた。そこで、自分の頭に質問しようとしたが、きつい頭痛が、彼女にのし掛かり、顔を歪めた。それを見て男性は、彼女を優しくベッドに寝かせ、戒めた。

「無理して、思い出さないで下さい。昨日も言いましたが、記憶喪失と言うのは、基本、自然回復させるしかない症状なんです。」

そう言われた彼女は、「ごめんなさい」と、一言謝った。すると男性は、申し訳なさそうな顔した。

「いいえ。こればかりは、時間にしか解決出来ません。…一人の医師として、自分は、恥ずかしいです。…ただ、一人の医師としてアドバイスするなら、焦らない事、そして、必ず回復すると、信じ続ける事です。」

男性医師は、相手の不安を取り除くように、優しく言った。それに応えるように、女性は、微笑みながら頷いた。その反応を見て、男性医師は、ある提案をした。

「ご家族に、お会いになりますか?」

「?、家族?…私の?」

「はい。連絡は、昨日のうちに、警察からして貰っています。」

彼女は、真剣な表情で、恐る恐る男性医師に聞いてみた。

「………ここに、来るのですか?」

「はい。現在は、待合ロビーで、待って貰っています。………ご家族に、お会いになりますか?」

男性医師は、出来るだけ相手に不安を与えないように、もう一度、同じ質問をしてみた。それに対する彼女の答えは、沈黙だった。しかし男性医師には、その答えも想定の範囲内だったので、冷静に対応しようとしたが、想定外は、思わぬ形で現れた。

「ベル!」

その声は、部屋中に響いた。部屋にいた者全員、声がしてきた部屋の出入口を、ほぼ同時に見た。そこには、若い男性がおり、その顔を見た男性医師は、目を丸くして、今ベッドにいる彼女の顔と何度も見比べた。彼女は、再び半身を起こして、若い男性の姿を確認したところだった。その姿を見た若い男性は、彼女の元に駆け寄り、矢継ぎ早に、色々と聞いてきた。

「大丈夫?どこか痛いところとかない?怖くなかった?怖くなかった?」

捲り立てる彼に対して、彼女は戸惑うばかりだった。その彼女の狼狽に気づいた男性医師は、我に帰り、二人の間に割って入った。

「何ですか、あなたは!?」

男性医師の問いかけに、彼もハッとして、一歩下がり、男性医師に謝った。

「すみません。僕は、ネクト・ミュラーと言います。昨日ベルが、もとい姉さんが、事故でこちらの病院に運ばれたと聞いて来たのですが…」

彼の名前を聞き、男性医師の心中は、半分は納得したが、もう半分は、苛立った。

「ネクト・ミュラーさん。ご家族との面会は、こちらの案内があるまで待つよう、今朝こちらに来た時に、看護師から説明受けていませんでしたか?」

「受けましたよ。しかし姉さんの無事な姿を見ないと、どうしても自分自身、納得出来なかった。だから病室を一つ一つくまなく覗いて…」

「だとしても、患者さんの都合を考えない身勝手な行いは、慎んで貰わないと困ります。もしお姉さんを含む患者さんに悪影響が出たら、一体どうするのですか?」

そう言われてネクトは、ハッとし、そして青ざめた。

「………すみません。…ベル、大丈夫ですよね?」

ネクトの態度の変わりように、男性医師は、彼が本当に心配していた事を理解した。そして、ネクトへの回答と話題を彼女の容態から離れたものにした。

「大丈夫ですよ。命には、別状ありません。ところで、あなたが現れた時、彼女とほぼ同じ顔していたので、正直驚きました。失礼を承知で聞きますが、お二人は、双子ですか?」

「いいえ。瓜二つな顔してますが、僕とベルは、年子なんです。」

「年子…珍しいですね。」

「あの…」

二人の会話に、彼女が割って入って来た。

「すみませんが、あなた、私の事を、もう一度呼んで貰えませんか?」

ネクトは、怪訝な顔した。

「どうしたんだい、ベル。他人行儀な態度をして?」

彼女は、ベルと呼ばれ瞬間、自分の中にはっきりしたモノが現れた事を、実感した。そして、それをより確実にする為、自ら「ベル」と言い続けた。その様子を見たネクトは、不安になり止めようとしたが、何かを感じ取った男性医師が、それを制止した。

数分後、彼女は、自分の名前を思い出した。

「私は、ベル・ミュラーだ。」

「…思い出したのですか?」

「………まだ、名前だけですが……」

「いいえ。それだけでも、進歩ですよ。さ、今は休みにしましょう。先程も言いましたが、焦らない事、そして必ず回復すると信じ続ける事です。」

男性医師にそう促され、ベルは、仕方無さげに従った。それを確認した男性医師は、顔にWHATをしっかりと浮かべているネクトを、別室に案内した。ネクトは、ベルと男性医師のやり取りの意味を理解する事が出来ないまま、男性医師の案内に従った。

別室に着いたネクトは、ここでようやく姉のベルが、記憶喪失に陥っている事を、男性医師によって知らされた。それにより、顔に浮かべていたWHATがWHYに変わり、男性医師に質問攻めをした。男性医師は、ネクトの質問に対して、丁寧且つ真剣に答えた。その甲斐あってネクトは、ベルに対して何をすべきか、理解しつつあった。

一方ベルは、病室の天井を見ながら、現在自分にあるものについて、考えを巡らせる為に、意識を自分の内面に向けた。

自分が人間の女性である事は、既に把握している。自分の名前については、先程思い出した。そして、それ以外に把握しているものは、胸の内の奥にある大きな空洞だった。

いつからここにあるかは、記憶を喪失した現在のベルには解らないが、ただ、この空洞が、記憶を喪失する以前から存在していた事だけは、ベルにはハッキリと理解出来た。

ベルは、試しにその空洞の中に触れると、ある男性の笑顔が浮かんだ。記憶を喪失しているベルには、その男性が誰なのか判らないが、少なくとも男性医師やネクトという自分の弟を名乗る男性ではなかった。しかしその顔が浮かんだ瞬間、ベルにとって掛け代えの無いモノだと直感した。

ベルは、その顔の男性の事を思い出そうと、必死に空洞の中をまさぐった。しかし浮かび上がるのは、同じ笑顔だけで、それ以外の男性に関する情報は、何も出てこなかった。

「ベル。」

聞き覚えたばかりの声がしたので、ベルは、意識を現実に戻し、声がした方向を見た。案の定、ネクトが、そこにいた。ベルは、ネクトに微笑んでみたが、自分の中では、ハッキリしていない存在だった為、ぎこちない微笑みになってしまった。

「!………怖がらなくても、大丈夫だよ。」

ベルの他人行儀な態度を見て、ネクトは、先程男性医師から聞いたベルの記憶喪失を、実感した。そして男性医師のアドバイスに従って、怖がらせないように、言葉を選び、口調を意識して、ベルに提案をした。

「退院したら、ベル・ミュラーの所縁の場所を巡って見ませんか?」

「所縁の場所?」

「はい。あなたの記憶を、取り戻す手助けになると思うのですが…。」

正直ネクトは、ベルが承諾してくれるか、不安だった。現在のベル・ミュラーは、自分が知っている姉のベルではなく、赤の他人となり、今日が自分との初対面となるベルで、出会ったばかりの見ず知らずの男の申し出を承けるとは、とても思えなかった。加えて、病室に入ってきた時の自分の態度は、他人に警戒心を持たすのに充分すぎると、今更ながら、反省していた。

「………OK、行きましょう。」

「…えっ!?」

「アナタの提案、OKします。」

予想とは真逆の返事に、ネクトは、驚いた。

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