第6章 異変

 翌日。

 里香は休むよう勧める母親を振りきって登校した。

 電車に乗るのは怖かった。

 ずっと誰かに見られているような気がした。

 教室に入ると、まっすぐ麗美の机に向かった。

「あんた………、いったいなんなのよっ!!」

 思い切り怒鳴りつけ、睨み付けた。入室するなり冷ややかな目で冷笑していた信者どもがビビって硬直した。

 麗美も挑戦的な強い視線で里香を見つめ返して答えた。

「昨夜、ずいぶん恐い目にあったようね?」

 里香はカアーッと頭の芯が燃えた。

「やっぱり……、やっぱりあんたがやってんだっ!

 このっ、魔女!!!」

 麗美はヒクリと眉をゆがめ、携帯電話を取り出すとニュースサイトから一つの記事を拾い上げた。里香に差し出す。

 里香は、ギョッとなった。

 それはN駅の表の車道で、横断していた85歳の老人が走ってきた車にはねられて死亡したという記事だった。

 あの、


『死にたくなかった……』


 老人……………。

 麗美が見下す目で言った。

「ね、分かったでしょう?あなたは死ななくてはいけない。でないとどんどん巻き添えで人が死んでいく」

「…………………」

 里香は何も言えない。

「あなたが、みんなの死神なのよ!」

 里香は、思わずパチンと麗美の頬を張った。

「あ……」

 里香は自分の思わぬ行動にひるんだが、すぐに攻撃的な瞳に戻った。

 悪いのは自分じゃない、この、魔女だ!

 魔女、麗美は、頬を抑え、じいーっと、恨めしそうな目で里香を睨んだ。

 やはり昨夜の悪夢で里香の精神状態は異常に高ぶっていた。

 里香は再び腹の底から激烈な怒りがこみ上げてきて左手を伸ばすとグッと麗美の頭を鷲掴みにした。丸い頭を掻き、細く艶やかな髪の毛をひっ掴んだ。

 麗美の目が吊り上がり、顔面が硬直した。

 里香は怒りに燃える目で睨んだ。

 右手が……何をする!?

「おい、里香。何やってんだよ!?」

 後ろから瑞穂が里香の両腕を掴んだ。

 里香は太い息を吐いて自制した。髪の毛を放す。

「死に神」

「魔女」

 里香はプイと横を向くと瑞穂を引っ張って離れた。

「望はどうなの? 容態は分からないの?」

「それが……」

 瑞穂は言いづらそうに言った。

「意識も戻って、まあだいじょうぶだろうって」

「じゃあどうして連絡してくれなかったの!?」

「あんたには連絡するなって、怖いからって、望が……」

 里香は自分の席に着き、じっと前を見据えた。

 今は耐えるんだ。

 芙蓉さんが、紅倉先生が!

 じきに何もかも解決してくれる!…………


 里香に頬をぶたれ、髪の毛をくしゃくしゃにされた麗美は、まだじいーっと恨めしそうに里香を睨んでいた。



 3時限目、古文の授業が始まって間もなくのことだった。

「ううううううううう……」

「おいおい誰だ?唸っているのは。トイレを我慢してんのか?」

 あはは、と、後ろの隅からだけ笑い声が起こったが、すぐに消えた。

「ううううう、ううううう、うううううううううううううううう!!!!」

「おい、………松田か? どうしたんだ?」

 初老の男子教師は心配そうに麗美の机に向かった。

「うううう、うううう、ううううう、うううううう!」

 みんな見ている。里香も張りつめた目でじっと見ていた。

「おい、松田。どうした、体の調子が悪いのか?」

「うううう…………、うっ」

 肩に手を置いた教師の顔を睨み付けた。教師は思わずビクッと手を引っ込めた。

「…………………」

 周りの者はみな恐怖に固まっていた。後ろの席の者はそーっと立って様子を伺った。

 麗美の目は血走り、うなりを発する歯の間から大量の唾液を溢れさせ、机の上にびちゃびちゃしたたらせた。恐ろしい目で教師を睨み付け、その敵意みなぎる顔はドーベルマンのようだった。そう、たしかに、耳が髪の毛を押し分けてひくひく動き、目がニューッと上に引っ張られている。顔の産毛が、やたらと黒く目立つ。

「うう……うう…………」

 バッと椅子から床に飛び降り、教師と周りの者はわっと逃げた。

 麗美は四つん這いで唸りながら体をビクリビクリと振るわせた。首をガクガク振るわせ、何か内からこみ上げてくるものにひどく苛立っている。

「うう……うう……」

 麗美は四つ足で机の間を徘徊し始めた。顔をガクガク振り立て、涎を飛び散らせた。

 みな逃げた。

 里香は、分かっている。

 そっと立ち上がろうとしたが、腰を浮かしかけたところで麗美と目が合った。

「………………」

 黄色く血走った目。

 里香は戦慄した。

「ガウッ!」

 麗美は吠えて里香に躍りかかった。

「きゃっ」

「ガウガウッ、ガルルルルル」

 里香にのしかかり、口を大きく開けて黄色く尖った歯で里香の首筋目がけて噛みついてくる。熱い息が里香の顔に吹き付けられ、飛び散った涎が里香の顔やブレザーのえりを汚した。

「やだ、放して!」

 麗美は両手で里香の肩をガッチリ掴み、執拗に噛みついてきた。

 ものすごい力だった。

 小柄な麗美には考えられない剛力だった。

「ガルルルルル」

「たすけてーっ!!」

 里香の悲鳴にようやく我に返った教師が男子たちに指示して取り押さえさせようとした。

 2人の男子がおずおず手を出した。

 ガブッ。

「ぎゃっ」

 一人が噛みつかれた手を押さえた。血が滴り、女子たちが悲鳴を上げた。

「押さえろ!押さえろ!」

 本気になった男子たちが麗美の腕を押さえ、噛みつこうとする顔を押さえて引き離そうとした。

 ゴンッと麗美のげんこつが一人の顔をまともに殴った。彼は鼻血をしたたらせて後ろに下がった。

「押さえろ、放すな!」

「なにごとですかあっ!?」

 となりの教室で授業をしていた別の男子教諭もやってきて、さんざん大暴れした末、ようやく麗美は男4人掛かりで床に大の字に押さえつけられた。

「フー、フー、ガウ、ガウガウガウッ!」

 床の上でまだ麗美は抵抗した。ブラウスのボタンが吹っ飛び、白いブラが覗いていた。

 暴れていた麗美は、やがて力尽きたのか、急激に大人しくなった。

 しかし半開きの口から泡を吹き、やたらと長い真っ赤な舌をはみ出させ、とてもまともな状態ではない。


 里香も椅子から床に転げ落ち、膝を抱えてガタガタ震えていた。

 大乱闘が収束し、教室はしーんと静まり返っている。

 里香はふと、自分を見るクラスメートたちの目に気付いた。

 みな、恐怖に怯えきっていた。

 里香が振り向き立ち上がろうとすると、一人の女子がガタンと椅子に足を取られてひっくり返った。

 廊下にも、騒ぎに集まってきた他のクラスの生徒たちが、恐怖の眼で里香を見つめていた。

 ひくひく痙攣する麗美。

 冷たい恐怖の視線。

 里香はまた絶望的な気分に突き落とされた。

 やっぱり自分が………

「死神」

 誰かが言った。

 真衣だ。

 敵意を露わにし、反面、恐れて体を斜めに反らしている。

「小岩井さんに関わると、みんな、殺されちゃうのよおっ!」

 やめなさいと教師が叱った。しかし、

「死神、死神、死神」

 と、

 小さく、重い合唱が、クラス中に充満した。

 里香は立ち上がった。

「死神、死神、死神」

 死に神。その言葉がぐるぐる頭の中を駆けめぐり、めまいがした。体が渦に翻弄される。


 突然、

 またあの不安感が襲ってきた。

 絶望的に。

 強迫観念が。

 もう一刻の猶予もない。

 逃げろ、逃げろ、

 逃げろっ!

「キャーッ!」

「キャーッ!」

「キャーッ!」

 女子たちがいっせいに悲鳴を上げ、頭を抱え、振りたくった。

 教師たちが落ち着くように怒鳴るが、悲鳴は収まらない。


 ここ、2年3組の教室は2階にある。


 狂乱した女子たち、4人が、いっせいに窓に向かって走り出した。

 本能的に危険を察知した男性教師が一人を捕まえた。女子生徒は髪を振り乱して悲鳴を上げ続けた。

 残る3人は窓を開いた。

 へりに足をかけ、よじ登った。

「危ない!」

 キャーッと悲鳴を上げて、3人はそこから飛び降りようとした。

 と、その動きがピタリと止まった。

 里香は、窓から眩しい銀色の光が差しているように感じた。

 悲鳴を上げていた他の女子生徒たちもすっと黙った。我に返り、ポカンとしている。

 里香は窓に歩み寄り、窓枠にしがみついている女子をこちらに降ろさせ、外を見た。

 芙蓉美貴だった。

 相変わらず黒のスーツ姿で、右手に何か掲げている。

 銀の女神像だった。

 日を反射してキラッと光ったが、女神像自身からも白く眩しい光が溢れているように里香は感じた。

 芙蓉は手を下ろし、ニコッと笑った。

「もうだいじょうぶよ」

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