真実の魔


 高校生最後の体育大会が幕を開けた。俊一しゅんいちは今日という日を去年の体育大会が終わったその日から待ち望んでいた。


 それには訳があった。俊一は高校一年、二年の体育大会には百メートル短距離走に出場したのだが、そのどちらも二位という結果に終わっているのだ。


 本来それは悪くないはずなのだが、陸上部の短距離走を専門とする俊一からしてみれば、それは屈辱的な二番目に過ぎなかった。


 しかも、その過去二回俊一を負かして一位を勝ち取った相手が、大北おおきたというサッカー部員なのだ。


 陸上部でない大北に二度敗北したことに俊一は自分自身を許せなかった。怒りと悔しみが今も残像となって俊一の心にまとわりついている。


 それに大北は身長が特別高いというわけでもないが、顔立ちは整っていて女子に人気のスター的存在でもあり、そんな奴に負けたことが更に俊一を腹立たせた。


 大北と戦えるのは今日で最後。絶対に負ける訳にはいかなかった。いつも大北を頭の隅に置いて走り込みをしてきた。大丈夫、勝てる、と俊一はいつもの大会と同じで自分を言い聞かせる。そう信じることが、勝利への第一歩だということをある人から教わった。


 開会式が済むと、すぐに短距離走の招集がかかった。俊一はその場所へと向かう。


 既に人混みは出来ていて、その中に大北の姿もあった。連れと一緒にいるようだ。大北と同じサッカー部の小林と安西あんざいだ。小林は同じクラスで安西とは一年の時一緒だった。彼等も短距離走に出場するようだ。


 そんな三人の様子をやや遠目から窺っていると、俊一は少し違和感を感じた。


 大北だけが表情を曇らせているのだ。対して、彼を挟むようにして立っている小林と安西は陽気な笑みを浮かべている。どんな話をしているのかはここからでは聞き取れない。大北にとって、何か都合の悪い話題なのだろうか。


 少し経つと話は済んだようで、三人は正面を向いた。大北の表情は元に戻っていた。


 俊一は所定の位置につくため移動する。そこは大北の隣だ。並び方は走るレーンに関係しているので、俊一の横を走るのが大北ということになる。


 大北は俊一の存在に気づくと、口元を綻ばせた。


「よっ近本」


 大北はさっきと打って変わった涼しい笑顔を浮かべて軽く手を挙げた。その笑顔で何人女をとりこにしてきたのかと俊一は思った。


「大北、調子はどうだ」


 もちろん万全な状態で走れるかどうかである。


「いつもと変わらず絶好調だよ」


 大北はその場でもも上げをしてみせた。彼の言う通り体に問題はないようだ。


 では、さっき大北が見せた暗い面持ちはなんだったのか。それが少し気がかりであった。


「それよりあれだ。これは因縁か何かなのか」


「何がだ」


「三年連続で近本と走ることになるなんて絶対何かあるでしょ」


 大北はしゅっとした顎を擦りながら言った。彼がそう感じるのも無理はないかもしれないと俊一は思った。


「たまたまだろ」


 嘘だった。本当は俊一が先生や生徒会に大北と一緒になるよう頼んだのだ。生徒会は前年の二人の接戦に熱くなっていたので、快く承諾してくれた。


「まあなんにせよ、今年も俺が勝たせてもらうぜ」


 白い歯を見せて大北がいった。


「いいや。今年こそは俺が勝つ」


 そう互いが勝利宣言をすると、「選手入場」というアナウンスがグラウンドに響いた。


 俊一は前に続いて小走りでグラウンド中央に向かう。全員が集まると、早速第一レーンから第六レーンに一年生の男子が立ち、軽く準備運動をしている。


 それが終わると彼等はクラウチングスタートの準備に入った。間もなく「位置について」と合図が出され「用意」でお尻を上げ、信号器が撃たれると、彼等は一斉に駆け出した。


 ギャラリーの歓声が沸き起こる。俊一も足首を回しながらレースを観戦していた。


 コースはグラウンド半周で五十メートル地点に差し掛かると、弧を描くように左に曲がらないといけない。よくそこ辺りで勢い余り転ける者もいるが、初戦はそのようなことも無く、第三レーンの六組が一位を獲得して終わった。


 次々とレースは進んでいき、 早くも俊一の前の組まで順番が回ってくる。第二レーンで小林がクラウチングスタートの姿勢をとっているのが見えた。


 運動場外側で観戦している俊一と同じクラスの女子達が「小林頑張れ!」と今年最後なだけあって熱い声援を送っている。小林とはクラスが一緒でもあまり関わりはないが、チーム勝利のために俊一も心の中で応援した。


 信号器が撃たれる。走者たちが同時に駆け出した。


 第二レーンなので彼の最初の順位は五位だ。だがその分、五十メートル地点のカーブではインコースを取れるので、そこで転けることなくどれだけ順位を縮めるかが問題だった。


 例の地点に到達する。小林の乱暴な走りに内心冷や冷やしたが、彼はそこで見事二位まで縮めてみせた。


 よし、と俊一は小さくガッツポーズを決める。悪くない順位だ。このまま問題なくゴールしてくれればチーム勝利に一歩近づく。


 だが、そうはいかなかった。体育大会で一度は起こりうる事故が発生した。ゴールから約五メートル離れた手前で小林が派手に転けたのだ。直線の所でだ。


 そこで転けるか、と俊一は額を手で抑えた。


 ギャラリーから「あー」と惨憺さんたんたる声が漏れる。俊一のクラスの女子達が彼の名を叫んでいた。


 転けた小林を後ろの走者が抜いていく。せっかく二位まで上り詰めたのに六位になってしまった。それは小林が起き上がるのが遅かったせいもある。余程痛かったのか、数秒蹲くまるようにしていたのだ。もっと早く走り出していれば四、五位にはなっていた。


 しかし、そう嘆いたところで結果は変わらない。それがスポーツの世界だ。俊一はそれを身に染みて分かっていた。大事なのは次どうするかだ。今回それは俊一に託される。俊一が大北を追い越してゴールテープを切ればいいのだ。


 いよいよ俊一の番がやってきた。俊一は第一レーン。大北はさっき小林が転けた隣の第二レーン。走者達はそれぞれの位置で準備をする。


「近本頑張れ!」と例のごとくクラスの女子達が声援を送ってきてくれる。


 だがそれは「大北くん頑張って!」の女子達の雄叫びに近い応援に掻き消されていた。


「近本」


 クラウチングスタートの姿勢を取ろうとした時、名を呼ばれた俊一は顔を上げた。右斜め前にいる大北が振り返ってこちらを見ている。


「どうした」


 こんな時にと思いながら俊一は聞いた。


「どっちが勝っても恨みっこ無しだからな」


 笑顔でそれだけいうと、大北は前に向き直り走る姿勢に入った。


 当たり前だ。俊一はそう心の中で返事をした。


「位置について」


 俊一はクラウチングスタートの姿勢に入る。


「用意」


 お尻を上げる。この時、俊一は今までのどの大会より緊張しているのに気づいた。周りの騒めき声が一切聞こえない。ただ聞こえてくるのは己の鼓動のみ。


 額の汗が頬を伝り、顎の下まで流れる。それが地面に落下した時、空砲は鳴り響いた。


 俊一のスタートダッシュは見事成功した。後は全力で走るだけだった。


 最初の時点では大北との差は膨らみも縮みもしなかった。そこからコーナーに入ると、インコースをとっている俊一が徐々に大北に近づいていく。


 いける。そう感じた。


 コーナーが終わる頃には俊一と大北は横に並んでいた。どちらが前に出ているのか俊一自身もわからなかった。


 だが、それは一瞬のことだった。視界右端に大北の姿が映しだされた。俊一は嘘だろと思った。


 大北はここで更にスピードを上げてきたのだ。莫大なスタミナがないと不可能なことを大北はやってのけているのだ。彼の身体能力は半端でなかった。


 徐々に差が離されていく。とうとう俊一から大北の背が見えるくらいまで膨らんでいった。


 負ける。またこいつに負ける。今まで死にものぐるいで走ってきた。大会で優勝は出来ても、お前にだけは勝てないのか。


 俊一の体から、ひゅっと力が抜けそうになる。


 そうなりかけた時、俊一は視界に映っているはずの人物がいないことに気づいた。


 奴がいない。消えたのだ。


 そんなはずないだろと思い、俊一は走りながら首を後ろに向けてみる。


 懸命に走る男達の姿があった。ものすごい形相だ。彼らと俊一の差は歴然としている。


 大北の姿はいなかった。ただしそれは今走っている者に限ってだ。


 地面に倒れている大北がいた。奴は転けていたのだ。コーナーではなく直線でだ。


 俊一は再び前を向いた。すぐ目の前にゴールテープがあった。


 俊一がそれを切ると、さっきまで聞こえていなかった歓声が一気に襲いかかるようにして耳に入ってきた。少しうるさすぎたくらいだ。


 俊一がレーンを抜けてグラウンド中央で待機していると、砂まみれの大北がゴールに到達するのが見えた。あの後すぐに復活したようで、彼の順位は四位だった。


 大北がこちらに向かってくる。その時の彼の顔はどこか涼し気だった。


「いやーやっちまった」


 大北は頭を掻いて笑いながらいった。とはいっても、それは恥ずかしさから来るものだろう。彼の頬は砂に混じって赤くなっていた。


「意外だな。こけるなんて」


「まあね。初めてかも。運動会で転けるなんて」


 それから少し静寂が訪れた。俊一が何か返すべきだろうが言葉が見つからなかった。代わりに大北が口を開いた。


「でも負けは負けだな。近本の勝ちだよ。一位おめでとう」


 一位。果たして本当にそうなのだろうか。確かに俊一はゴールテープを切った。


 しかし、それは本来大北が切っていただろう。大北があの時転けていなかったら、俊一は確実に負けていた。


「俺が転けたからって、このレースをなしとか思うなよ。俺が転けたのも実力だからな。不注意だったよ」


「そうか」


俊一はただそう答えることしか出来なかった。


「でも、悔しいな」


 大北が俯いてその言葉を吐いた。今彼がどんな表情をしているのか俊一は想像出来た。


 そこからは何も言葉を交わさないで大北が俊一の前から去っていった。


 その背を眺めながら俊一は思った。


 やはり俺は二番目だなと。

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