第80話 シーズ・ソー・ビューティフル(21)

(1)

 

 地下鉄の窓に映る自分の顔は疲れきっていた。


 車両の振動に合わせて、掴まった吊革と同じ方向に身体も揺れる。隣に立つスーツ姿の男性の肩に肘がぶつかり、謝罪を述べたが無言で睨まれてしまう。少しムッとしたが、難癖つけて絡まれるよりは格段にマシだと思い直す。

 毎日の通勤で乗り慣れている筈なのに。この程度の振動でバランスを崩すとは、やはり今日は朝から疲れている。昨夜は余り眠れなかったとはいえ、せめて仕事中は気を引き締めなければ。


 昨夜、サスキアが帰宅した後も就寝で床に就いてからも。翌朝の今日、通勤時の地下鉄内でもフレッドはサスキアの質問を脳内で何度となく反芻していた。

 今までであれば、『そんな瞬間はなかった』と断言しただろう。しかし、(まだ世に生まれてなくとも)我が子と呼べる存在ができたことで少なからず迷いが生じてしまったのだ。

 アビゲイルから溺愛されている自覚は充分にあったが、自分が母親に望む形の愛ではなかったし、時に重荷とすら感じていた。

 フレッドはアビゲイルに捨てられたこと以上に、彼女がマクダウェル氏の身代わりが欲しいだけで自分を産んだこと、成長するに従って異性を見るような目で見られていたことが特に許せなかった。


 だが、エイミーの胎内で成長するにつれて深まる我が子への愛情と同時に、アビゲイルへの憎しみが揺らぎ始めてもいた。ひょっとしたら、アビゲイルも自分が胎内で成長し、生まれた時は同じように感じていたのでは、と。

 もしもそうであれば。生まれた直後の自分はマクダウェル氏の身代わりなどではなく、純粋に我が子としてアビゲイルに必要とされていたかもしれない。ただ、残念なことに彼女は人より愚かで心が弱い女だったから。マクダウェル氏に瓜二つのフレッドについ複雑な愛情を抱いてしまったのだと。

 気が遠くなる程の長い間、不器用で複雑な愛情しか与えてくれなかったアビゲイルを憎み続けていた。憎む以外で彼女への感情をどう処理していいか、わからなかった。

 今は――、方法は間違っていたとはいえ、彼女が自分を愛していたことには変わりなかったんだと。憎むべきは彼女自身ではなく、彼女の心の弱さであって全てを憎むのは止めよう、と――、頭ではとっくに理解している。頭では。問題はいつだって感情の方だ。


『…………さぁ、どうだったかな…………』


 心配そうなエイミーと顔色を窺うサスキアの視線を痛い程浴びながら、長考による沈黙の末、フレッドはこう答えるだけで精一杯だった。




 車内アナウンスが次の停車駅を告げる。悶々と考えている間にもフレッドの降車駅まで残すところ一駅。堂々巡りはいい加減やめよう。掌の温度で生温くなった吊革を軽く握り直した。




(2)


 降車駅に到着し、人波の流れに沿って電車から降りる。定期券で改札を通り抜け、地上へ続く階段を駆け上る。

 地下鉄出口付近のビジネス街ではなく、道路を渡って反対側の住宅街へと突き進む。車の排気ガスや排気音、人混みによる騒音が絶えない無機質なビル群と、図書館と隣接する緑の多い公園から子供の声が響く以外は閑静な住宅街が道路を挟んで存在している。

 赤信号であっても車通りが少なければ渡ってもいいが、通勤ラッシュ時はそうもいかない。車が途切れた隙を見計らい、小走りで横断歩道を渡る。大通りの歩道から家々が並ぶ入り組んだ路地へ入り、北へ一〇分進めば図書館に到着できる。

 対向車同士が辛うじてすれ違える程度の狭い路地なので、歩行者は車に充分に気を付けなければならない。特にこの近辺は住人含めて、図書館や公園があるので子供が歩くことも少なくない。


 近い将来、自分の子供が図書館に通うまでに成長したら、とにかく車に気をつけろと言って聞かせなくては、と思った辺りで我に返る。生まれる前から将来の我が子を案じるなんて心配性にも程がなかろうか。まぁ、堂々巡りを続けるよりは余程いいが、と自身に呆れながら歩き続けていると、やがて図書館の建屋と風に揺れる『Library』の旗が遠くに見えてきた。同時に、道の真ん中でもぞもぞ蠢いているものにフレッドの視線は吸い寄せられた。近づくにつれ、その正体が何なのか気付いたフレッドは痛ましげに顔を顰めた。


 道の真ん中に親子らしき猫が二匹。うずくまる親猫の側に子猫が寄り添っている。

 所謂『ごめん寝』と呼ばれる子猫の姿勢は微笑ましくもあったが、傍らの親猫は血塗れで、血と飛び出した臓器らしきものアスファルトに飛び散っていた。車に轢かれたのだろう。子猫は肉塊と化した親猫の側を離れず微動だにしない。このままでは子猫も他の車に轢かれてしまうかしれない。


 ゆっくりと忍び足で子猫に近付いていく。道の端にしゃがむとなるべく親猫の死骸を視界に入れないようにしながら、チチチ……と舌を鳴らす。

 茶と黒がモザイクのように混じり合った子猫は伏せていた顔を上げた。ガリガリに痩せ細った身体や警戒心剥き出しの表情からして地域猫に違いない。

 ちょいちょいと小刻みに動かす指先を、金色の瞳でじぃっと見つめるものの子猫はやはり動かない。しゃがんだままでじりじりと、少しずつ、少しずつフレッドは子猫に近づいていく。子猫は毛を逆立てて何歩か後ずさったが、母猫から離れがたいのか完全に逃げ去ろうとはしない。


「おい、暴れるな!何も取って食おうとしている訳じゃない」


 素早く捕まえるとパニックに陥った子猫は手の中で大暴れした。掌に収まる程度の身体のどこにそんな力があるんだ、というくらいに子猫は力一杯もがきにもがいた。

 生え変わる前の小ぶりな歯で噛みつく。小さな爪で思い切り引っ掻く。手の力が緩みかける程度には地味に痛い。だが、ここで緩めたら子猫は手の中から抜け出してしまう。


「もう親猫は死んでいるんだ。そこにいたら、死骸共々車に轢かれて死ぬかもしれないぞ」


 必死でフレッドに抵抗しつつ、時折親猫の方を見て必死に鳴く子猫にため息ばかりが零れてくる。助けを乞うているのか、どうしても親猫から離れたくないのか。


『例え、気が触れていようが何だろうが、お母様には私の側にいて欲しいのよ!』


 何度目かのため息を吐き出すと、突然いつかのサスキアの言葉が脳裏で蘇った。

 変わり果てた親猫から離れたがらない子猫。気が触れて自分と兄とを混同しているにも関わらず、アビゲイルを守ろうとするサスキア。


 果たして自分はどうなのか。

 アビゲイルへ無心に愛情を求めていたからこそ憎んできたのでは――??

 愛されたくて、でも思うように愛されなくて。気付けば、アビゲイルから少しずつ距離を置いていた。

『本当の父の身代わりじゃなくて自分自身を見て欲しい、愛して欲しい』

 もしも言葉や態度で示していたら――


「……俺も、ずっと逃げていただけかもしれない……」


 自ら思い至った結論に呆然となりながらも、フレッドはまだ暴れ続ける子猫を抱えて立ち上がった。






(3)


 ソファーの下に隠れたヴィヴィアンの唸り声が絶えず聞こえてくる。低い音域の割にリビング中でやたら反響し、フレッドの罪悪感を掻き立てていく。床にしゃがんだ彼の足元では例の子猫が死に物狂いでウェットフードをがっついていた。

 子猫を抱えたまま出勤し、他の職員に事情を説明して事務所で一日預かったはいいが、預かっている間も子猫は親猫を求めて鳴き続けていた。鳴き疲れてひと眠りし、目覚めたらまた鳴き続け――、を一日中繰り返し館内にも鳴き声が漏れていたため、やむなく家に連れ帰ざるを得なかったのだ。

 始業前と昼休憩、帰宅前の三度に渡ってエイミーにも再三説明してはいたが、実際に連れ帰るとなればまた話は違ってくる訳で。いきなり家に現れた闖入者を見るなりヴィヴィアンは全身の毛という毛を逆立て、かつてない程の怒りを込めた声でフレッド共々子猫を威嚇し、ソファーの下へ立て籠ってしまった。


「全然ダメ。大好きなCHU-RUで釣ってみても出てこないの。この分だと今日はもうずっとソファーの下かもしれない」

「そうか……、ヴィヴィアンには悪いことしたな」

 どちらかと言えば温厚な筈のヴィヴィアンの尋常でない様子も含め、エイミーも子猫の存在に酷く困惑している。

「ヴィヴィは他の猫とほとんど接触したことないから慣れの問題かもしれない。でも、こういうのは相性もあるしね……。多頭飼いするのは構わないんだけど、どうしても二匹が馴染めなかった時のために、ヴィヴィを保護した里親ボランティアさんに連絡しておくわ」

「本当にすまない。ヴィヴィに対してもだし、エイミーもやっと安定してきたところなのに」


 子猫が勢いよく餌をがっつくので、床のあちこちにウェットフードが零れ落ちている。零れた一欠けらを拾おうと指先を伸ばすと、すかさず子猫がフシャーッ!と威嚇してきた。行き先を失った指先をすごすごと引っ込める。何だか、今日一日この子猫に振り回されているような気がしてきた。


「ねぇ、子猫が気になるのは分かるけど部屋着に着替えてきたら??その間、私が見てるし」

「ありがとう、エイミーの言葉に甘えるよ」


 子猫を観察するだけの手持ち無沙汰な状態もヴィヴィアンの呪詛めいた唸り声をBGMに聞くのも少々耐えられなくなっていた。それに子猫の件とは別に、解決したい問題もある。悪いと思いつつもエイミーに子猫を頼み、フレッドはスマートフォン片手に廊下へと出ていく。 

 リビングの扉を背に、薄暗い廊下に一人立つ。呼び出し音は五回目で切れて、『ハロー??』と応じる声。


「悪いな、急に連絡して。お前に、サスキアに聞きたいことがあって……」


 何??と問われ、一旦言葉を切る。緊張で言葉を詰まらせたのが正しいかもしれない。

 受話器の向こう側でサスキアは返事を急かすことなく、静かに次の言葉を待ってくれている。深呼吸を何度か繰り返し気持ちを落ち着かせる。決して短くはないを辛抱強く待つサスキアに胸中で感謝した後、フレッドはようやく話を切り出した。


「アビゲイルが入所する施設の場所を教えてくれないか」

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