アバウト・ア・ガール

第34話 アバウト・ア・ガール(1)

(1)

 

 目を覚ますと、フレッドは自室のベッドで毛布に包まり眠っていた。

 遮光カーテンの隙間から差す日の明るさが、朝はとっくに訪れていると告げてくる。顔を軽く擦り、枕元に置いたはずのスマートフォンを手探りで探す。あった。 仰向けで寝転がったままタップし、時刻を確認するなり再び枕元へとスマートフォンを放り投げる。てっきりまだ朝だと思っていたのに、昼の一時半を過ぎていたからだ。


 フレッドが勤務する公共図書館は週に一度、週明けの平日が休館日となり、その日は自動的に職員の休日になる。

 週休二日制だが休館日以外の休日は基本シフト制、週によっては休館日しか休みがない時もある。今週はそのパターンに当たっていたのに。

 貴重な休日を半分以上無駄にしてしまった。のろのろと身を起こしながら小さく呻く。

 最寄りの地下鉄駅から四駅先にある、メアリが知人と共同経営するカフェ『バブーシュカ』で昼食を取るのが休館日時の休日恒例だが、今から身支度を整えて出掛けるとする。電車の遅延も想定に入れたとして――、寝起きでぼんやりする頭で考えを巡らせた末、今日は行くのを止めようという結論に達した。寝過ぎたせいで空腹よりも倦怠感や軽い頭痛の方が勝っているし。

 とりあえずシャワーでも浴びるかと、首や肩を回しながら自室の扉を開けて浴室に向かう。


 シャワーヘッドから降り注ぐ水音、生温い飛沫で意識が徐々に覚醒し始める。

 同時に、昨夜シエナから聞かされた話が思い出され、不快感までもが浮上しだす。

 トラブルメイカーのあいつブノワが戻ってきた。フレッドの関わりないところでなら何をしでかそうがどうでもいい。だが、フレッドと彼の行動範囲や交友関係は大幅に被っている。特に、夜はライブバー営業に切り替わるバブーシュカには以前と同じく入り浸る可能性が高い。

 フレッドのように五年前の開店時からずっと定期的にバブーシュカに通う客はともかく、ブノワがいない約二年の間に客の顔ぶれも変わってきた。その中には彼が目をつけそうな女性客も少なからずいる。


(目を付けられるとしたら、が一番危ないかもしれん……)


 リュシアンとの結婚を機に、昼間のカフェ営業だけを担当するようになったメアリに代わり、一年程前から夜のライブバー営業では一人の若い女の子が働いている。そんなに美人なタイプでもないが、メアリは元より客からも可愛がられているし、フレッド自身も弟のマシューと年が近い彼女を妹のように思っていた。

 ブノワは女性を数多く落とすことをステイタスの一部と見なしていて、特に美人だとか歌や演奏が巧いとか、何かしらモノにした時に自慢できる要素を持つ女性を狙う。バブーシュカの看板娘というのも、おそらくは彼の自慢の基準に当てはまる。


 シャワーを浴びた後、キッチンへ向かう。使用した痕跡のない、きれいなままの流し台と並ぶ背の低い棚からグラスを、更に棚の横に並んだ冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。

 自分以外飲む者がいないとはいえ、2ℓサイズのペットボトルに直に口をつけるのは強い抵抗がある。シャワーに加えて、硬水の冷たい喉越しによってフレッドの意識ははっきりと覚醒した。

 彼女が心配で忠告する、というより、くだらない色恋沙汰に再び巻き込まれたくないのが本音ではあったが――、夕方になり次第、バブーシュカに足を運ぼうと思い立った。






(2)


 地下鉄の出口から地上に出ると、斜陽と共に薄暗くなり始めた空は今にも泣き出しそうだった。

 車道のアスファルトや歩道の敷石からは埃っぽい臭いが微かに立ち上ってくる。

遅かれ早かれ、雨が降るかもしれない。

 ちょっとの雨に降られる程度なら大して気にもならない。とはいえ、なるべくなら降り出す前には到着したいと足を急がせる。

 街の中心部から近い割に、この区画は比較的治安が良く、車道を挟んで左右の歩道沿いにはパブを始め、多くの飲食店が連なっている。

 駅から西に向かって広い交差点に差し掛かるまで五分程直進、交差点を渡ったところで右に曲がってまた五分程直進に進んだ場所――、角地に建つ二階建て雑居ビルの一階がバブーシュカだ。


 全面ガラス張りの外装から店内の灯りが煌々と漏れている。

 ガラスの壁面を通して店内をそれとなく窺う。週始めで開店直後の時間だからか、まだ客の姿は誰も見当たらない。カウンターの中には件の女性従業員だけが立っていた。

 彼女もまた、フレッドが『Open』の札がぶら下がる扉を開けるよりも早く、ガラス越しに彼の姿を認めると、軽く目礼してきた。


「いらっしゃい!珍しいね、フレッドさんが平日のこの時間に来るなんて」


 扉を開け、ブロック柄の床に一歩足を進めたのとほぼ同じタイミングで彼女から声をかけられた。鎖骨ら辺まで伸ばした赤い髪が明るい照明の下、艶々と輝き、青白い肌も血色良く見える。褐色やオレンジに近い赤ではなく、燃えるような鮮やかな赤は染めている訳ではなく地毛だという。

 以前、『地毛でこれだけ赤かったら、赤毛組合に入れるかな』と冗談めかす彼女に、『エイミーが住んでる家の地下に銀行の隠し金庫があるのか』とすかさず突っ込んだことがある。それくらい、彼女――、エイミーの赤毛は特徴的だった。


「あぁ、本当は昼間のカフェ営業の時間帯に来るつもりだったんだが……、ちょっと行きそびれちまってな」

「そう言えば、メアリさんと交代する時、『今日はフレッド来なかったわ、珍しい』って言ってたわね。あ、いつもの、で良かった??」

「あぁ、頼むよ」


 フレッドがカウンター席の端に座ると、エイミーはカウンター内のグラス置き場からグラスを取り出す。アイスビンの蓋を開け、トングを使ってグラスの中にカットアイスをいくつか放り込むと、背後の酒棚からラベルにバイソンの絵が描かれたボトルを手に取った。


「はい、いつもの」

「ん、ありがとう」

 グラスを受け取ると、ほんのりと香草独特の甘い香りが鼻腔を擽る。

 大半がビールを好む国民性に反して、フレッドは「すぐに腹に溜まる感じが嫌だ」と言って飲もうとしない。エイミー曰く『いつもの』と呼ばれるズブロッカはフレッドの専用ボトルだ。

「お、フレッドが開店早々に顔見せるなんて珍しい」

 トイレや酒類の貯蔵庫、機材置き場へと続く奥の扉が開き、バブーシュカのもう一人の経営者ゲイリーが、ビールケースを抱えてカウンターに戻ってきた。

「あのなぁ、メアリとエイミーだけじゃなく、ゲイリーまで……、揃いも揃って珍しがるな。俺は珍獣か」

 珍獣?!と、思わず吹き出すエイミーを一瞬だけ軽く睨む。エイミーは気まずそうにそれぞれ色が違う目を、右眼が薄緑、左目が榛色――、を、泳がせた。

「まぁまぁ、でも、うちとしては来てくれるのは有難いぜ。何せ、週初めは客入りが微妙だから」

「本当にそう思ってるのかよ」

「本当だって!ま、ゆっくりしてけって」


 からからと笑い声を上げてゲイリーが肩を叩いてくるのを、フレッドは呆れつつも嫌がりはしない。彼はエドやリュシアン同様フレッドの大学時代の友人であり、講堂での定期ライブでは彼のバンドと何度か共演した縁で親しくなったのだ。

 ゲイリーは大学卒業後、大手商社に就職したものの、「誰でも気軽に歌って演奏できるバー」を開く夢を捨てきれずにいたところ、エドから「幼なじみが店舗開くための共同経営者を探している」とメアリを紹介された。

 メアリと(仕事上で)意気投合したゲイリーは会社を辞め、バブーシュカの夜のバー営業を担当することでようやく夢を叶えた。苦労も多いだろうが、ゲイリーはいつも楽しそうにしている。


「……にしても、この天気だと今夜の客入りは冗談抜きに期待できんなぁ」

 フレッドの入店を見計らったかのように降り出した雨は、勢いを増すばかり。

 暗闇に染まった空と、ガラスに叩きつけられた雨粒が地面に流れていく様子にゲイリーはため息混じりに肩を落とす。

「まぁまぁ、まだ開店してそんなに時間たってないし夜はこれからでしょ??雨だってその内止むかも……、って、ほら、ゲイリーさん!!早速お客さん来たわよ!」

「痛い痛い痛い!分かったから肩をバシバシ叩くな!!」


 エイミーの言う通り、近くの歩道を小走りで駆けてくる人影がガラス越しに映ったかと思うと、足音が扉の前で止まる。

 そして、勢い良く扉を開けて入店した青年を見るなり、エイミーの目が大きく見開かれた。

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