第32話 閑話 シーズ・ソー・ラブリー(3)

(1)


「アビー、おやすみ。早く寝なさいね」


 扉の前から母の気配が消え、廊下から階段に進む足音が聞こえてきた。階段を一段、また一段と下りていく音が遠ざかり、一階の自室へ戻った頃合いで、アビゲイルは静かに窓を開ける。

 肌を刺す空気に震えつつ、ベッドの脚に巻き付けた登山用のロープをベッド下から引っ張り出す。太く長いロープを床から窓、身を乗り出した窓から屋根、外壁に伝わせ、アスファルトの地面にロープの先端が着いたのを確認する。

 その傍では、友人が「早く降りてきて」と、アビゲイルに向かって両手を振っていた。真っ白なフェイクファーコートを纏う彼女の姿は夜闇の中でもよく目立つ。


 アビゲイルは自分のコートを羽織ると、両手でロープを強く握り締めて窓から屋根に降り立った。屋根から地面までの距離はそう遠くはないが、こうして見下ろす度に足が竦んでしまう。

 臆病な自分を内心で叱咤し、恐る恐る屋根の端まで移動。屋根からゆっくりとロープを使って一階外壁、地上に降りていく。


「はぁああ、今回も何とかママにも気付かれず、無事に抜け出せたわ……」


 やっとのことで地面に着地すると、へなへなと腰が砕けた。

 もう二十歳になるのに、母は彼女に対して過保護で、例えば、門限は十九時まで等、数えきれないほど厳しい制約をアビゲイルに課している。ちなみに現在の時刻は二十一時半、門限の時間はとっくに過ぎている。

 当然、外出は許されない時間だし、万が一バレでもしたら、しばらくは仕事以外の外出は禁止されてしまうだろう。

 しかし、そんな危険を冒してでも、アビゲイルにはどうしても行きたい場所があった。


「セシル、今夜も付き合ってくれてありがとうね」

「いいのよ、私もあんたと同じように会いたい人がいるし。お互い様だってば」

 セシルもまた、いつものように笑って返す。それにしても、と友人は、呆れ気味にアビゲイルの全身をまじまじと見回した。

「アビー、あんたさ、もうちょっと着飾ってきなさいよね。それじゃまるで、カーテンの素材か、子供か年寄りが着る下着みたいよ」

 白いフェイクファーコート、真っ赤なキャミソールワンピースを着たセシルに対し、アビゲイルは紺色の地味なロングコート、いかにも安っぽい総レース生地のベージュ色のワンピースを着ていたのだ。

「だって、派手な色や可愛らしい服だとママから注意されるんだもん」


 アビゲイルは、服一つ買うにもいちいち母の許可を得なければならない。

 このワンピースでさえ、「仕事でお客さんが、もうちょっと可愛い服着たら?って。ほら、やっぱり美容に関する仕事だし、あんまり野暮ったい見た目じゃ駄目だと思うし」 と苦しい言い訳をして、買うのを許してもらったくらいである。セシルは益々呆れてしまったようだが、それ以上は何も言わなかった。

 アビゲイルはセシルの態度や服装を気にするよりも、一刻も早く目的の場所に到着し、彼と会うことで頭がいっぱいだった。











(2)






「……さん、かあさん。……母さんってば!」

「……わっ!なに?!ビックリした!!」


 受話器を握りしめたまま、過去の思い出に浸っていたアビゲイルの背中に向かって、息子のアルフレッドが苛立ち混じりに呼びかけてきた。


「一体どうしたのよ、アルフレッド」

「どうしたも何もないよ、鍋に火をかけたまま、放りっぱなすなんて」

「へ??鍋……??」

「へ??じゃないって……」


 きょとんと小首を傾げるのみのアビゲイルの反応の鈍さに、アルフレッドは呆れて閉口する。そう言えば、ほのかに焦げくさい気が……。


「わっ、わっ、わわわっ!!しまった!!すっかり忘れてたわ!!」

「……やっと思い出したか……」

「わー、わー、あわわわ……、どうしよう、ねぇ、アルフレッド、どうしよう……」

「どうしようも何も、ついさっき俺が火止めたし」

「わーん、ありがとう!アルフレッド!!」


 我が息子ながら何て気が利くいい子なのか!

 勢い余ってアビゲイルはアルフレッドに抱きつき――、抱き付こうとしたが、さっと避けられてしまった。


「俺、もうすぐ一〇歳になるんだし、そういうの、本当勘弁してよ」

「ううう……、アルフレッドはママがキライなの……??」

「いや、好きとか嫌いとかの問題じゃないし……」


 涙目で食い入るように見つめれば、アルフレッドは必死にアビゲイルの視線を避けようとする。こういう時、あの人だったら喜んで受け止めてくれただろうに。

 そう思うと、いくら名前と顔が同じでもあの人とは別人なのだと気付かされ、アビゲイルの胸中に寂しさが去来する。


「……焦がしちゃったお鍋の掃除、してこよ……」

「あ、鍋なら父さんが洗ってる」

「え、ウソ!焦がしたのはあたしなんだから、あたしがやるのに!」


 大方、自分の洗い方じゃ汚れをしっかり落としきれないのでは、と、不安に思ったのだろうか。チェスターはいつだってそう、未だに自分を、一人じゃ何もできない子供のように扱ってくる。

 結婚して五年、彼との間にマシューが生まれても尚、良くも悪くも兄妹のような関係は全く変わらない。チェスターのことは好きだが、男性として好きかと問われれば、いまいち自信が持てない。

 その証拠に、結婚してすぐにマシューができたものの、出産後の夫婦生活は皆無に等しい。それに関しては何の不満もないし、むしろ、ないことがホッとしているくらいだ。

 ただ、もう三〇歳を迎える年になっても子供扱いされるのが、アビゲイルにはたまらなく不満だった。

 チェスターだけじゃない、アガサもエリザも、最近ではアルフレッドまでがアビゲイルを子供扱いしてくる。


 家事も育児も仕事もちゃんと一人前にこなしているし、あたしだってもう、大人なんだから――


 唯一、あの人は、あの人だけは、決してアビゲイルを子供扱いしなかったのに。


『僕は、本当は楽団員になんてなりたくない……。でも、音楽一家に生まれた宿命で、僕はこの世に生まれ落ちた時から両親共々、あの楽団に入団することを決められているんだ……。親に敷かれたレールの上を進むしかないのがどれだけ苦痛か。だからと言って、親に抗って他の道に今更進むなんて勇気も僕にはなくてさ……。情けない男だろう??彼らが関わるなという労働者階級や中位中流以下の中間層の人々と交流することで、せめてもの反抗を示してて……、最低だろう……??』

『そんなことないわ!』


 辛い心情を弱々しく語るあの人の横顔は悲しい程綺麗だったし、心の内を曝け出してくれるのは、アビゲイルを対等に見てくれていたからこそ。僅かな間でも彼の拠り所でいられるのが嬉しかった。

 こんな風にアビゲイルを頼ってくれる人など誰もいなかったから。



 ――やっぱり、あたしはあの人じゃなきゃ、ダメなの……――



 今までもそう感じることはしばしばあったが、近頃ではその想いが日に日に強まってきている。


 何故なら、現在アビゲイルが請け負う出張仕事で、あの人と一〇年振りの再会を果たしてしまったから。病気で自宅療養中の妻の髪を整えたり、メイクを施したりして欲しいと――、あの人から依頼が入ったのだ。

 火にかけた鍋を忘れるくらい思い出に浸っていたのも、あの人から何度目かの出張仕事を依頼する電話がかかってきたせい。


 アビゲイルはあの人の名前がアルフレッドというだけで姓までは知らなかったし、あの人も出張仕事を依頼した美容院の店長の妻が自分だとは全く知らずにいた。

 つまり、これは偶然――、とはいえ、一〇年振りの再会に、アビゲイルの胸が激しく高鳴ったのは言うまでもなかった。

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