F. 最後の足場
「ごめん」
湿気の多い日だった。
いつも通り俺は旧校舎裏に呼び出されていて、いつも通り愛の告白を受け、いつも通り丁重にお断りしていた。
「じゃあ、理由を聞いていいかな」
今日の相手は坂口とかいう奴で、ひょろっとしたメガネ野郎だった。確かハーフだとか言われてたな。フツーに女子にモテる奴だ。
「今俺は、芝居以外の何にも興味がない。別に色恋沙汰を否定はしないけど、正直そんな時間はない。答えになったかな」
「疑問点がいくつか」
坂口はフラれた直後とは思えないほど冷静に頭を上げ、人差し指をピンと立てた。
「そんなに演劇が好きなら、高校に進学せずどこかの劇団に入ることもできたはずだよね? そうしなかったのはなんで?」
「最低限の経験はしたかった。それだけ。大学には行かない」
「オーケー。じゃあ今オーディションとかは受けてるの?」
「まだだよ。俺は自分で『世に出ていい』と確信するまでは、そういう活動はしない」
「分かった。最後の質問。将来的にきみが役者人生を歩む際、『香坂将彦』っていう男性名はどうするんだい?」
こいつ——
思わず俺は坂口某の茶色がかった瞳を睨んだ。
「おまえ、面白いな」
俺はそう言うと、坂口は不敵な笑みを噛み殺した。
「名前に関しては、もちろんユニセックスな芸名を使うよ」
「もう決めてるの?」
「苗字だけ。下の名前はいくつか候補があるけど」
「じゃあ香坂くん、きみは今の時点からその名前を使った方がいい」
思わぬ提案と、坂口の確信に満ちた声音に、一瞬言葉を失う。
「なんでだよ」
「僕の勘だけど、きみは絶対成功する。そうしたら高校であれ中学であれ写真や卒アルが流出する。噂によるときみは男性役と女性役、両方を演じてるらしいじゃないか。そういうジェンダーレスな存在が、『香坂将彦』っていう男性名をぶら下げて顔写真や舞台での印象を残すべきじゃない」
俺が目を見開いたのも一瞬、坂口は踵を返した。
「名前が決まったら一番に教えてくれ。僕はそれ以降、普段もその名できみを呼ぶ。きっと他の連中もそれに倣うと思うよ」
「坂口」
思わず呼び止めていた。
「自分でフッた後で身勝手なのは分かってるんだけどさ、おまえ下の名前は?」
「僕のファーストネームはタグ。日本人からしたら間抜けな響きだよね」
「じゃあ『たぐたぐ』だな」
「は?」
「俺は恋愛の意味でおまえに何も返してやれないけど、おまえの頭は面白そうだ。友達になれないか?」
坂口たぐたぐと分かれていったん教室に戻ってカバンを手にし、日向先輩に芸名の相談をしようとウキウキしながら、俺は二階に降りようとした。
そして、何の意図もなく、俺はいつも使っている東側の階段ではなく、自分の教室から近い西側の階段を降りてしまった。
——あの一年、何様のつもり?
——日向だって嫌なら断ればいいんだよ
突如、そんな言葉が俺の鼓膜を叩いた。科学部と手芸部のある角から、それら声は響いていた。
——確かにキレイだしかわいいけどさ、日向への負担考えてないよね
——そうそう。日向自身の練習だってあるだろうし
——なんか、アカデミー賞獲るとか言ったらしいけど、バカなの?
何が何だか分からなかった。
——肝心の演技だって、一年の子に聞いたら見た目だけでゴリ押しって感じらしいよ
——香坂は結局何なの? Xジェンダー? セクシャリティ不明だから扱いに困る
——最初は女の格好するのが好きな男子、って認識だったけど、最近イケメンだしな
頭が痛い。
——クロスドレッサーっていう便利な言葉で誤魔化してるけど、実際どうだか……
——だから日向も個人レッスン断れねーんじゃね?
——大体そんなに役者になりたいならこんな学校来ないで東京行けって話だよ
気がつくと俺は階段を駆け下りて、2年F組の教室へと走っていた。
ガラッと引き戸を開けると、生徒はほとんど残ってない様子で、でも俺は顔を上げることすらできず、
「将彦?」
その声を聞いて、赤子のように声の主の元へ歩を進めていた。
「おまえ、大丈夫か? おい、まさ——」
俺が日向先輩の腕にしがみついて顔を上げると、流石の先輩も言葉を失った。
馬鹿みたいに涙にまみれた顔が、よほど滑稽だったんだろう。
二、三人残っていた生徒は、先輩の目配せで退室していった。
「どうした? 何があったんだ?」
俺は嗚咽で何も言えずにいた。それに、自分で言語化することで、あの陰口が言葉として、つまり事実として固まってしまうのが恐かった。
ただ、涙が止まらなくて、何をどうしたらいいのか分からなくて、先輩に言われていつも演技の特訓をする席に着座し、先輩はその隣に座った。少し肩が触れた。温かさがあった。それはよりいっそう俺の落涙を促進した。
「……せん」
「ん?」
「……すみません、こんな状態、で、来ちゃって……」
「でもおまえ、ここしか来るところ、なかったんだろ?」
息をのんで俺は顔を上げた。
「俺を頼って来てくれたんだろ?」
俺がこくりと頷くと、先輩はくしゃっとした笑みを浮かべて、
「本来俺はそれだけで満足すべきなんだろうけど——」
先輩は立ち上がり、涙と汗でどろどろになってる俺のあご先に手をあてがった。くいっと容易に持ち上げられて、日向先輩の顔が近付いてきた。
あ。
キスされる。
俺の頭で唯一働いていた部分がそう言ったが、俺は動けなかった。
しかし先輩はすんでのところであごを引いて、俺の額に軽く、ふわりと一瞬唇を寄せて座り直した。
「悪い、今のはルール違反だな」
「……ルール?」
「合意の上でだろう、普通。こういうのは」
「そうなんすか」
「そうだよ」
「でも俺、普通じゃないみたいです」
「今更かよ」
「先輩は……俺にキスしたいんですか?」
「おまえ直球だな」
「答えになってません」
「ん、俺ゲイだし、おまえのこと好きだし」
「へえ。……ん?」
泣きすぎて茫洋としていた頭にいきなり鋭い光が射しこんだような感覚だった。
「って、えええ?!?! 日向先輩、え、先輩が、あ、俺の、ええええ?!?!」
「あのなー、おまえこっち方面鈍感すぎるぞ。普通分かるだろ」
「お、お、俺は普通ではないらしいので!!」
「ホントかわいいな、おまえ。テンションの落差、正直笑える」
俺は全然笑えねぇ!!!!!!
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