いつ大人になった??

ここまでこのエッセイを書いてきて思うに、このようなダダ漏れ上等!なエッセイをやると、どうしてこんなに「恥ずかしい自分」までダダ漏れてしまうのだろう、隠しておけばいいのにって不思議なんですが……


しかも、メンドくさいことに、”エッセイの恥は捨て”とばかりに放っておけない性格らしく、今日も、先日の自分の投稿について思ったことを書こうとしてる、というね。。。(ホントにメンドくさいヤツ)


数日前、お昼ごはんをレンジでチンしてる間に、ふと、「この前書いたことは、『偽善者』とどう違う??」って疑問が湧いたのです。


正真正銘のやさしい人間じゃないので、せめて必要な時に人間でありたい、そのためには…みたいな話のことです。

それって、捉えようによっては偽善者!? と思えなくもないかも、と。


そこでちょっと考えて、たぶん、やさしい言葉や行為も「(本)心」から出ているのでなければ、形だけの偽善となるのだろうなと思いました。


じゃあ、「心」はどこから?

それが、経験に基づく実感や共感だったり、経験がなければ想像力で自分の身に置き換えたりして思いやるということなのかなぁ。


前者は、トシとともに経験が増えるにつれ、心から共感できることも増えてくる。経験がなくても、人間として本来ある程度備わってる理屈抜きの感情などから共感できることもある。

後者の、想像力で…というのは、文学や映画、音楽、美術などにたくさん触れることでも強化されるのかなぁ。


あらためて精進せよ、私。


そこでまた、そういえば28歳くらいの時だったか、突然「目の前が開けた」感じがしたことを、ふと思い出しました。

その当時、あることについて何らかの感情を抱いて、雷に打たれたようにこんなふうにひらめいたのでした。

「今までの私は、何でもわかった気になっていたけど、『頭で理解していた』だけだった! 今この瞬間、ものすごく『こういうことだったんだ!』と心からわかった!!」って。

それから、目の前のベールがまた一枚一枚はぎ取られたみたいに、いろんなことがあれもこれもと「こういうことだったんだ」とようになって、しばらくの間はその感覚を楽しんでさえいました。


ちょうど、勤めてる会社を辞めようとしている時だった。

それで、何らかの意識もちょっと切り替わりつつあったのか、階段を一段上ったところから物事を俯瞰して見られた?のかも。

その直前までは、目の前の大変なことばかり気を取られて、視野も狭くなっていたのだと思う。


その当時、これを人に話したら、「つまり大人になったんじゃない?」とハナで笑われたのだけど、えっ、だったら、それが28歳って遅いんじゃない!?


いや違う!

それを言うなら、むしろ、いま現在でも大人になった気がしないんだった(汗x100)。


(この話、また続きそうな予感。。。)

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