深海を越えてまた会おう 09
月曜日の朝もいつも通り関村さんは始業のチャイムが鳴り終わる直前にオフィスに入ってきて、いつも通りにバッグをデスクに置いた。
中に入っていた水筒か何か固いものが当たったようで、結構大きな音がした。朝礼で前に立つ社員の今日のひとことを聞きながら視線だけちらちらとこっちに向けられているのを感じたけれど、彼女はお構いなしにため息を吐いた。
朝礼が終わり、席に付くと関村さんがこれ見よがしに頭を抱えていた。思わず出そうになったため息と見て見ぬふりをしたい気持ちを抑えて、ボリュームを抑え目の声とできるだけ眉根を下げてみつつ、声を掛けた。
こんなことを意識しないとできないなんて、私はもう彼女のことが嫌いなんだなぁとしみじみと実感する。
「関村さん、大丈夫ですか? なんか体調悪そうですけど……」
関村さんは眉間を人差し指の第二間接でぐりぐりと押して、うーんと唸ってから答えた。
「朝から頭が痛くて……」
「そうなんですか。しんどいですね」
どうせ二日酔いでしょ。この前、彼女は何故か得意げに語ってくれていた。一人でワインを一本開けてそのままソファで眠り込んでしまうことがあるのだと。昨夜もそのパターンだったとしか思えない。
「もう本当に嫌になる。今日も忙しいのに」
「本当ですね。痛み止め持ってますけど、要ります?」
関村さんは今度は両側のこめかみを押しながら、小さく首を左右に揺すった。
「うーん、いいかな。ありがとう。市販の薬は飲まないようにしてるの」
なんだそれ。だったらわざわざ体調が悪いですアピールなんてしなければいいのに。彼女はしょっちゅう具合が悪そうにしている。
最初の頃は割と本気で心配していたけれど、次第にそれが構ってほしかったりだとか仕事ができないことの口実にしたかったりするだけだとわかってきた。それをほぼ朝からやられると、こっちが満員の通勤電車のなかでなんとか誂えてきたやる気が、彼女の辛気臭い態度を見るたびに見事に滅されていく。
いつかうっかり舌打ちをしてしまいそうで、怖い。
「そうですか。もし必要になるくらいにしんどくなったらいつでも言ってくださいね」
と声を掛けて自分のデスクに戻る。
いつもならもっと関村さんの嘘か本当かわからないような身体が弱いけれど毎日頑張ってますエピソードを聞くところだけれど、テレアポをするためのやる気と勇気を全滅させるわけにもいかないから早めに切り上げた。
もしかしたらそれが彼女の気に障ったのかもしれない。
関村さんが外出してしばらく経った頃、電話と電話の合間に一息吐こうと淹れたコーヒーを飲んでいた私に、事務として勤務する大山さんが珍しく声を掛けてきた。
「横井さん」
名前を呼ばれて顔を上げる。
普段は接点が無く、せいぜい出勤と退勤のときに挨拶をするくらいだったから驚いた。
「どうしました?」
「関村さんに、横井さんが手持無沙汰で困ってるから何か手伝えそうなことがあったら仕事を割り振ってほしいって言われたんですけど、お願いしても大丈夫ですか? 私、今、ちょっと立て込んでて……」
えっ、と思わず声が出た。そんなこと一言も言われた覚えがない。大山さんが腕に抱えるファイルを見つめながら考えを巡らせた。
関村さんが本当にそんな指示を出していたのなら断る理由が無い。むしろ大山さんの仕事を手伝っている間、テレアポをしなくて済むのなら楽かもしれない。そんな狡い発想まで生まれる。
「そうなんですね。私ができることであれば、手伝います」
「本当ですか? すみません。助かります」
大山さんは持っていた水色の紙のファイルを差し出した。
「これ、マニュアルなんですけど、見てもらえばできると思います。完成したら共有フォルダに入れておいてもらえればあとは私の方で確認をしてメールしておきますので」
手渡されたファイルを捲る。A4の用紙に項目ごとに分けてかなり細かく説明が書かれていた。
「もし何かわからないことがあれば、声を掛けてください。本当にすみませんが、お願いします」
大山さんはぺこりと軽く頭を下げて忙しそうに自分の席へと戻っていく。オフィスの片隅で黙々と事務作業をしている彼女が、具体的にどんな仕事をしているのか、今まで全く知らなかった。ときどき営業さんと話している姿は見かけても、彼女自身もそんな口数が多いほうではないようだし、定時が過ぎるとそそくさと帰ってしまう。
でも今まで関わったことのないひとと話せたことや仕事を割り振られたことが嬉しくて、半袖のブラウスの上に重ねた紺色のカーディガンの袖を捲った。
マニュアルに書かれた通りに基幹システムを操作して必要なデータをいくつかダウンロードし、それをレポート作成用に作られているエクセルに張り付けをして、数値を入力したり表記の形式を変えたりしていく。間違えないように何度もマニュアルと自分のモニターとの画面を見比べながらやっていると思うよりも時間が掛かった。
それでもなんとか仕上げ最終確認をして、言われた通りに共有フォルダに完成したファイルを入れ、大山さんに声を掛けた。
「レポートデータできましたので、確認をお願いいたします」
「確認しておきます。すみません。ありがとうございました」
マニュアルを返すと大山さんはそれを液晶の脇のスタンドに立て、それ以上はこちらに視線を向けることもなくひたすら机の脇に山積みになっている書類から一枚を取り出し、赤ペンでチェックを入れ、さらにそれをパソコンで入力していくという作業を始めた。
一枚を処理するのに三十秒も掛かっていない様子だった。あんまりバタバタしている姿を見た覚えが無かったが、私が知らなかっただけで大山さんは忙しいひとなのだろう。
「他にも何か私にできることがあれば、また声を掛けてください」
大山さんがモニターから目を離すことなく軽く頭を下げたので、自分の席に戻り、いつもと同じ過去の得意先一覧を開いて、一つ大きなため息を吐いた。嫌だなぁと思う気持ちは変わらずにあるけれど、少なからず慣れてきているのかもしれない。前ほど躊躇わずに番号を押せるようになっていた。
感情のなかでも特に受信する側のスイッチを切って、口に馴染んできた文句を繰り返すだけ。相手に鬱陶しそうな気色があっても、こちらはあくまでも朗らかに丁寧に。
そんなことを心がけてみても電話応対には慣れていくけれど、それ以上の何かが身に付いているとは思えなかったし、トイレに席を立つたびにオフィスへ戻りたくないという気持ちが膨らんだ。
「今日はどうだった? 話聞いてくれたところ、あった?」
関村さんが外勤から帰ってくるなりそう聞いてきた。
「いや、なかなか……」
言いよどむと、これ見よがしにため息を吐かれたので思わず顔を上げた。嫌な予感に首の付け根の辺りが硬直する。営業に出かけていた社員たちも続々と帰社していて、オフィス内の人口密度は比較的高かった。
「あのさぁ、横井さん。あたしが何のためにテレアポやらせてるかわかってるかな? ただ暇つぶしのためにやってって言ってるわけじゃないんだよ」
そんなことはわかっているけど、と思ったけれど言うわけにもいかず他に言うべきことも見つからず、私は黙って関村さんの顔を見上げることしかできなくて、それはきっと傍から見ればとても惨めな姿だろうと想像した。
「あくまでも今後営業としてやっていくための勉強としてやってもらってるの。電話でアポ取るのが凄く難しいのはわかるけどさ、できないならできないなりにどうしてできないのか考えなきゃ駄目だよ。そもそも今日何件電話したの?」
「三十件ちょっとぐらいです」
「三十件?」
関村さんの甲高い声がオフィスに響き渡り、一瞬電話の音も話し声もキーボードを打つ音もコピー機が印刷した用紙を吐き出す音も止んだような気がした。
「それってちょっと少なすぎない? 話聞いてもらえなかったってことは、一件一件にそんなに時間掛かってないってことだよね? それでほぼ一日あってそれだけ?」
「すみません……」
謝罪のことばを口にすることしかできなかった。なんとか関村さんをこれ以上刺激せず、この空気から逃れたいとそれしか考えることができない。でも今日はたまたまいつもよりも件数が少なかっただけだ。午前中はほとんど大山さんから振られた仕事をしていて、電話を掛ける時間が無かったのだ。そもそも彼女にそう指示を出したのは関村さんのはずだ。そういうことだって、言ってやりたかった。そういう気持ちをぐっと飲み込むと、目の奥がじりりと熱くなる。
「もっと先のこと考えて行動したほうがいいよ。とりあえず明日からは一日最低百件は電話して」
「……わかりました」
関村さんはもう一度大きなため息を吐いて、ようやく腰を下ろしパソコンのスイッチを入れた。私はもうひたすら小さくなっているしかなかった。そのあとトイレに行くと、大山さんが手を洗っていたけれど、彼女は私に何も言わなかった。
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