エピローグ1

  〇

 腕が、私を抱きしめていた。――それは、酷く硬くて、大きかった。 

 ワイシャツは異様に皺が寄ってしまい、ところどころに水玉をつくっていた。


 彼女は、ひとたびの瞬きの後に、去ってしまった。


 彼女が置いていった、熱が、匂いが、律動が、感触が消えてしまわないようにと、しがみつくように、また、抱いた。

「君は、本当に、形而上のものでしかないのかね」

 冷め、薄れ、遠のき、消えてしまいそうになるのを、手繰り寄せようとして、ただこうやって空を切ることしか出来ない。

 だから、最後に笑ってもらえるように、馬鹿なことを打ち明けよう。

「……実は、いつもあまりに照れくさくて、内心悶えながら――」

 先とは打って変わって、白く輝く月を見上げて。


「君を結ちゃんと呼んでいたのだよ」


 それを笑う者はひとりとしてなかった。



 〇

 私は寄宿寮へと戻る途中で、ふと彼女がくれた鍵の存在を思い出した。

 帰路の道程に学校はあるので、ついでに寄って行こうと思った。

 しかし、もちろん手の届くところは施錠がなされていて、入れないことがわかってしまうと、途端、そのプレゼントが何であるのかと、弥が上にも気になるのであった。

 ――おや、こんなところに大きな石がひとつ転がっているではないか。

 ――おやおや、こんなところに一階教室の大窓があるではないか。


 〇

 無事学校に侵入することが出来た。

 まあ、後日怒られたら怒られたでシラを切り通してしまおう。

 それが、私。

 それが、物心ついたときから続く虚言癖の正体である。

 ――と、そんなこんなで教室前までやってくると、私のロッカーだけに月光が射していた。そして、そのロッカーに、強く輝きを放つものがある。

 南京錠だ。それが、盗難防止用に開けられた穴と取っ手に括られていた。

 改めて鍵を取り出して、鍵穴に刺して捻る。難なく開錠し、ロッカーを開けることが出来た。


 そこには、三十センチ四方ほどの紺色をした箱がひとつと、その上に手紙が一葉、脇には小さな碧色の造花が一輪添えられていた。

 私はまず、手紙を手に取った。象牙色の包み紙の端には、『Dear Shuichi』と書かれている。私は慎重に糊を剥がすと、中からは三つに折られた便箋が二枚だけあった。

 月光に浸して、文頭に目を落とした。


『シュウくんへ。

 冒頭は、もしも私が勇気を出せなくて、言えなかったときのためのものです。

 では。実は、私はシュウくんに初めて会ったあのときから、なんと高専共通パスワードなのでした! 昔、シュウくんと同じパスワードにしていた人が居て、そのとき、こっちの世界に遊びに来ていたんだ。(私たち高専共通パスワードは、有効期限の二十五日前になると、こっちの世界に遊びに来れるんだ!)

 本当、もう二度と会えるとは思わなかったんだ。そんな単純な阿呆みたいなパスワードにしてくれなきゃ会えなかった。阿呆。うん、阿呆だね。

 それで、八年前、途方に暮れていた私はシュウくんに出会った。私が泣きそうだったのに、シュウくんが泣いちゃったから、私も泣いちゃったなあ。それから、たくさん遊んで、たくさん話して、お祭りでいっぱい楽しんで、花火を見て、それで、シュウくんがいなくなっちゃった。私、シュウくんのことが大好きで、だから、本当に会えないと思って辛かったの。

 でも、それから七年くらいが経って、仕事があるって言われたとき、とっても驚いた。普通はパスワードの仕事って、一生に一度しかない仕事なんだ。単純に、パスワードなんてそうそう被らないからね。

 あと、パスワードには利用者の情報がわかるの。だから、東雲秀一っていう、初恋の男の子の面影が残った人が出てきてまたまた驚いた!

 それで、パスワードの有効期限が二十五日になるまで、ずっと待ってた。シュウくんになんて話そう、何て言ってくれるかな、もしかして求婚されちゃう! きゃっ。とか考えていたのに、シュウくんは私と昔会っていたことを忘れちゃってるし。帰省したシュウくんに会いに行ったら、なんと彼女さんが居たみたいだし。――だから、もし告白されたら、付き合わないよ。ちゃんと、本当のことを言ってくれるまでは。まあ、そんな時間もないけど(笑)

 ただ、私は、こう、言おうと思う。愛してる、と。彼女さんが居ようが、私の気持ちは関係ないもの。

 あと、謝りたいことがあるの。金曜日も花火一緒に行きたかったんだけど、その日はバイトがあってね。浴衣のレンタル代とか、シュウくんに借りたお金とか、プレゼント代とか、どうしてももう一日だけバイトへ行かないとお金が足りなくてね。ごめんね。まあ、浴衣を着ていないのを馬鹿にしてきた男の子が居て、そいつを見返してやるためでもあるんだけどね(笑)

 あと、パスワードを間違えるたび、私はけっこう傷ついていたんだよ。間違えると、たまにエッチな数字を入力することにも。

 ああ、もうバイトに行かなきゃ。

 最後に。本当はいくらでも書きたいことがあるんだけど、ここじゃ、限界がある。まるで有効期限みたい。って、笑えないか(笑)

 うん。だから、何度も言ったと思うけど。

 シュウくん、もとい東雲秀一くん。私は、ただ貴方を愛しています。それは、初めてあの四阿で会ったときから、終わることはありません。私は居なくなったりしません。貴方が覚えていてくれれば、私という存在はいつでも認められているんですから。

 それに――――――ですから。 結ちゃん・南雲結より


 追記:その箱の中身は私からのプレゼントだよ。もっと身だしなみに気をつけなさい。まあ、気をつけすぎてモテモテにはならないでね(笑)』



 それに、と続く先はインクが滲んでしまい、読むことが出来なくなってしまった。

 その手紙をそっと置いて、箱を開けてみると、焦げ茶色の革靴が一足入っていた。

 それを痛めないように、紐を緩め、履くと、見事にぴったりと嵌った。

 軽く足を動かしながら、添えられた花の名前をスマホで調べてみると――亜麻という花だった。

 私はそっと手に取って、月明かりに翳した。


「紡がれてしまう前は、こんなにも綺麗な碧色なのだね」



 そして私は月に、吸い取ってしまった輝きを返してくれと、慟哭する。



 〇

 一睡も出来ず迎えた朝六時。またあの四阿へ向かおうと、寝間着の第二ボタンに手を掛けたとき、電源をつけたばかりのスマホに、一本の電話が掛かってきた。私としたことが、同室者が寝ているというのに、マナーモードにしていなかったとは。

 そう反省しながら、アルコープに出て、電話をとる。

「もしもし。母さんかね」

「あ! 秀一! 今まで何で電話に出なかったの!」

「……え、ああ。スマホは電源を落として寝る質でね。それに、まだ朝の六時ではないか」

「ああっ! そんなことはどうでもいいの! ――今から市井野病院にダッシュで来て! いい、ダッシュよ!」

「待たないか! ……どうしたのかね、そんなに取り乱して。飼い猫のミミが死んでしまったのかね」

「違うわよ! 馬鹿! ……あのねえ、よく聴きなさい」

「ああ」


「――早百合ちゃんが交通事故に遭ったの」


「……なに?」

「だからあ! 早百合ちゃんがバスと衝突事故を起こしたの! 奇跡的に息はあったんだけど、全身の骨が折れちゃって、意識不明の重体なの……」

「……すぐに向かおう」

 電話を切って、部屋に戻る。いつも通り、綿ワイシャツに紺のチノパンという質素な服装だった。棚から財布を取り出すと、しかし金がないことに気付いた。

 同室者の安眠を妨害するのも気が引けてしまったが、市井野病院へは歩いて十五分ほどの距離であるから、母が言う通り、ダッシュすることにした。


 〇

 夏といえども、朝方は冷え込む。

 あたり一面に濃く霧が降りていて、十歩先の道を見ることが出来ない。

 構内の高台から、崖下を見ると、雲海が生まれていて、まるで天空城にいるかのようだった。

「小木の研究室が液体窒素でもぶちまけたのかね……」

 手でひたすらに霧を薙いで駆けた。


 〇

 看護師に早百合の居る部屋へと案内してもらった。どうやら、一人部屋らしい。

「遅いわよ、秀一!」

「そんなこと言わないでくれ……これでもやれるだけ飛ばしてきたんだよお」

「うるさいですよ! 早百合の傷に響くでしょう……」

 そう消え入るような声でこたえるのは、早百合の母親だった。

「……早百合の容態はどうなんですか」

 早百合は、全身に包帯をぐるぐる巻かれて、管のついたマスクに鼻と口を覆われ、腕には点滴が刺さっていた。

「……わからないんですって。でも、きっと助かるわ」

「……そうですね」

「秀一。なにか知ってることない? 昨日、朝早くから家を出て行って、その夜に事故に遭っちゃったらしいんだけど……」

「……知らないね」

「いいえ。そんなことはない筈よ。――秀一くん。貴方が原因なのでしょう」

「……はい?」

「智恵さん! なんでうちの秀一が!」

「母さん、静かに……」

「……だって、そうだわ。少し前まで早百合は秀一くんのことばかり話していたのに、最近は全くといって貴方のことを話さないわ。ねえ、なにか、あったのでしょう? 彼氏さん」

「彼氏さん? 秀一、早百合ちゃんと付き合っているの」

「……ああ。早百合とは付き合っていた。……だがもう、別れた」

「そう。……そうなのね。気分が優れないって言って学校を休んでいたのも、すっかりご飯を食べなくなったのも、部屋で時々泣いている声が聞こえてきたのも、……全部。全部、貴方のせいなのね」

「秀一は悪くないでしょう!」


「――あのねえ。あの子は、『今年もシュウくんと市井野花火を一緒に見るんだ! わたあめも一緒に食べるんだ!』って、一か月も前から、とても嬉しそうに私に言ってきたのよ……」


「……私が、悪かった。私が、早百合に酷いことをしてしまったのだ。だから、早百合に謝らせてくれないだろうか。目が開くまで、私はここに通う。面会時間中はずっと横に居よう」

「……勝手になさい」

「秀一! そんなことして大丈夫なの。テストは……」

「……勉強道具は、今から取りに行ってくる。それで、文句ないだろう」

「……風邪ひかないように気をつけなさい」


 ――早百合。お前には本当、迷惑をかけてばかりだね。



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