二〇一九年七月十五日月曜日
〇
今日は、久々の祝日だった。
同室者の、「ああっ、もう携帯の通信制限来ちまったよ!」という声で目覚めると、続いて文句が垂れて来た。
「なんで学校はWi-Fiがあるのに、寮にはないんだろうなあ。工業高等専門学校の寮としてどうなんだよ」
そんな不遇を託つ様を微睡の中で捉えつつ、ふと夜中に届いたメールのことを思い出した。
朝食を食べてから、メールを開いてパスワード変更画面に飛んだ。
『高専共通パスワード変更画面
ユーザID ma30586f
現在パスワード abcd1234
新規パスワード abcd1234
新規パスワード(確認) abcd1234
※パスワードは半角英数字、数字、記号(!,?,@,\,_)を含めた八文字』
ユーザID、従来のパスワード、新規のパスワードを打ち込んだ。確定ボタンを押し、――果たして、弾かれた。『現在のパスワードが有効ではありません』と。
もう一度変更を試みて、また弾かれた。続いた失敗に面倒くさくなって、痒くもないのに頭を掻いていた。
そして、ふと視界に映った目覚まし時計が私を煽りたてた。
「まずい。時間がない」
ハンガーからワイシャツを乱暴に取った。
〇
「あ」
彼女が、いた。
四阿の左側の腰掛で、申し訳なさそうに両手を腿に挟み、俯いていた。薄桃色で、綿麻生地のロングワンピースを装い、麦わら帽子を深々とかぶっていたが、私には、あれが絶対に彼女だ、という直感があった。理由はやはり、肌の白さと、亜麻色の髪だった。
今は午前十時ほど。もう直ぐ南の空に日が差し掛かるところで、わりかし涼しげな空気でも、降りかかる陽光は酷く熱い。
「あ、来てくれたんですね! 待っていましたよ!」
彼女はやや興奮気味に、私を歓迎してくれた。待たせていたのか、と少し悪い気がして、「待たせてしまったかね」と訊いてみた。いや、そうじゃないだろう。なぜ自分の非を認めようとしないのだ。
すると彼女は眉を立て、
「待ちました」
と少々怒っている様子だった。私はもう、とにかく謝るしかない、と頭を垂れようとしたとき――。
「――と、言ったほうが貴方は今度からもっと早く来てくれますか」
なんて、彼女は茶化してきたのだった。
「ああ、来よう。是非来よう。学校が終わったらダッシュで来よう」
と、まるで忠犬のように諂ってみせる。
それを見て彼女は、「ありがとうございます」と破顔した。
それは、大変に眩しいのだった。昨日の斜陽のように直視が出来ない、笑み。
昨日ほどではないが、胸の高鳴りようといったら、グラウンドを三周した後のようで、視界はちかちかと、酸欠気味だった。
「一ついいかね」
「どうしましたか」
「……名前を、訊いてもいいかね。因みに、私は
「東雲くんですね」
ほう、これは、大変素晴らしい。尤物が名前を呼んでくれるということは、どうも罪悪感の含まれた心地良さが身に浸るらしい。
「私は
結。良い響きだ。今世紀呼びたくなる名前ナンバーワンではないだろうか。
「いい名前だ。して、苗字は」
すると、彼女は、呆れたように、
「もう……。苗字を言わないってことは、名前で呼んでいいってことなのに――わかってないですねえ」
「ほう……結ちゃん。と呼べと」
「そう、名前で。いいですね、わかりましたね、東雲くん」
「秀一くん、で構わない」
「遠慮しておきます」
「何故かね」
「そ、それは……」と、彼女はまどろっこしそうに口をもごもごして、なにかと煮え切らない様子だ。そしてそのまま俯き、直後、停止した。びた一文動かない。
「……結ちゃん?」
と私は声を掛けてみた。すると、
「ああ! 私の苗字は
と、酷く紅潮しながら、飛び起きて叫び、果てに再び俯いたのだった。萎れた彼女から、「恥ずかしい……恥ずかしかったんですよう……」と零れた。ときにこの生物はなんというのだろうか。めちゃくちゃ可愛い。私は恥ずかしさよりも、この生物の愛嬌さを、もっと見てみたかった。
「ときに結ちゃん」
「ねえ、南雲と呼んでくださいと言ったじゃないですか! もう……しゅ、秀一くんの意地悪」
彼女に名前で呼ばれるということは、まるで無重力空間に身を投げうったようだった。おい、これ、大丈夫かね。警察に淫猥罪とかで捕まらないだろうね。
そして私たちは飽きもせず、三時間ぐらいずっと話し込んでいたのだった。
〇
話終えたころには、もう日は南の空を超過していた。
彼女が、「これから私はバイトに行かなければいけないので、この辺で」と、話を切ったとき、私は、「バス停まで送ろうかね」と対応するも、「東雲くんは、寮生なんですよね。学校とバス停は逆方向ですから、悪いですよ」と、本当の親切心から言われたような気がしたので、流れるままに頷いたのだった。
しかし彼女はこう言っていた。
また、会いましょう。と。
こんな早々に電話番号を訊くなど、到底そのような勇気は持ち合わせていないから、「では、またここで」と釘を刺しておいた。
早速、私は明日の放課後にここへ来ようと企てていた。
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